ちいさな学校(岬の分校と呼ばれて)・小豆島

小説「二十四の瞳」のラストから間もない昭和二十三年から三十二年までの分校物語。亡き両親と孫のミナとユリに贈ります。

ラジオ「明るい茶の間」から

2009年04月25日 23時21分03秒 | Weblog
ある日のこと
 「香川県小豆島二十四の瞳の小学校 池田のりこさん」
と、私宛に手紙が届いた。
 はるばると北海道天塩郡豊富村から投函された茶封筒の中には何枚も綴られた手紙が入っていた。藍色のインクで書かれた文字は美しく伸びやかで温かい。
 「おじさんは北海道の最北端の宗谷岬の南にある天塩群豊富村のサロベツ原野開拓村に住んでいる松川と言います。開拓村の人々と一緒にサロベツの開拓に関わっています。私たちの朝は早く、毎朝ラジオの「明るい茶の間」を聞いておりますが、先日あなたのお手紙が放送されたのを聞きました。のりこさんも早起きをして毎朝、玄関やお庭のお掃除、ニワトリの世話をしているのですね。おじさんは家族がみんなで協力しながら暮らすことが、大切なことだと常に思っているのですが、朝のラジオからのりこさんの生活ぶりが見えるようで、何か心が温まる思いがしました。開拓村の日々は大自然の中での苦難の連続です。入植された皆さんとともに新開地をを切り開く、泥炭地のサロベツの原野で農業が出来、人々が暮らしていけることを夢に・・・・。」
 差出人・松川五郎さんの手紙は6~7枚続いた。
 大人の人からの手紙は初めて、それも丁寧で子ども扱いをしていない言葉の連続で熱いものがこみ上げ、何度も何度も読み返した。
 私も「明るい茶の間」を毎朝聞いていた。その番組の中に「町から村から」というコーナーがあり、町の人が村に、村の人が町の人に自分の住んでいるところの紹介や、生活、考えていることを書き送ると放送されるということだった。父に出してみようかなと言ったら、やってみたらと言われて生まれて初めての投稿で、思いもかけないことになった。
 
 当時、分校ではNHKラジオの学校放送での勉強も取り入れ、そこから広い分野に目を向けることを学んでいた。昭和二十七年のヘルシンキで開催されたオリンピックの実況も三つのクラスともに放送を流し波打つような聞き取りにくいアナウンスに耳をそばだてて聞いた覚えがある。ラジオは文化につながる窓、今のパソコンのwindowにも負けていない。
 
 直ぐに返事を書いた。負けないくらい長い手紙を書いた。すると直ぐに返事が来る。サロベツ原野の広大な湿原が目の当たりに見える。胸までも沈んでいくような湿原を調査する様、オホーツクの寒々とした海、春になると雪の下から現れるけな気な草や木の芽、スキーを履いて山を歩くこと。どんな話も映像のように見えてくる。そんな北国からの便りは、ちいさな小さな島のちいさな学校で、井戸のかえるのように暮らしている小学生には、言葉にならない喜びだった。
 「私の足長おじさん」だった。
 大人になり、結婚してからも時折の文通は続き、子どもの頃に一度小豆島に奥様と会いにきてくださった。その後はまだ学生だった私が一人で寝台列車「はくつる」で北海道を訪ね、サロベツの地に立った。
 開拓村は、初めての手紙の頃とは違って、素晴らしい農業の場所になっていた。暖かな島で育った私は夏なのに寒い寒いを連発して松川さんのお知り合いの方の家で、熊の皮の上に座り、ストーブをガンガンたいていただいた。その頃は松川さんは札幌に住んでいて、このときはわざわざ案内してくださったのだ。
 ニッコウキスゲの咲く原野を歩き続けると急に海が開け、利尻と礼文が見えた。”かえる”にはすべてが大きく、広く、果てしない世界。もう四十余年も前の話だ。
  
 松川さんは昭和五十七年に七十九歳で亡くなり、その時、ご家族から「広野の果てに」と題した書簡集が届いた。その頃の私は夫と二人の小さな子ども、夫の両親との生活に追われ北の国へお別れにはいけなかったのだが、この書簡集の昭和三十一年サロベツから札幌のご家族に宛てた手紙の中に私との関わり、私の未来を楽しみにしているなどの記述があり驚いてしまった。そして、日々生活に追われ、あくせくとしているだけの自分が、小学生の頃の何事にもまっすぐな気持ちをすっかり失ってしまっていることを恥じた。
 
 子どもの頃にいただいた手紙は小豆島の家のどこかに残っているのではないだろうか。今度島に行ったときにさがしてみようと思っている。