ちいさな学校(岬の分校と呼ばれて)・小豆島

小説「二十四の瞳」のラストから間もない昭和二十三年から三十二年までの分校物語。亡き両親と孫のミナとユリに贈ります。

村民参加型大芝居

2007年04月03日 00時08分19秒 | Weblog
 「明日は芝居や」
 「みんなもでるんでしょ」
 「おなごせんせも出るんやろ」
 「婦人会で出るのよね」
 かるた遊びやゲームを楽しんだ卒業生は、
 「せんせ、おおきに。ほなまた明日」
と、にぎやかに帰っていく。

 そして、正月三日は村中の大人も子供も学校にやってくる。青年団手作りの芝居が恒例となっていて、正月気分を満喫できるみんなの一大イベントだ。たかが素人芝居とは言いがたい。
 そのころの娯楽といえば細々と聞こえるラジオくらいだったから生身の人間がそれも日ごろから慣れ親しんだ兄弟や息子、娘が晴れの舞台で繰り広げる演芸の数々は、今のテレビできらびやかに飾り立て、どこを見ても同じ人に出くわすバラエティよりは上質な文化だった。唄や踊りもあって演芸会といったほうがいいのかもしれない。しかし、村では「正月の芝居」で通っていた。
小豆島には三百年ほど前から続いている芝居小屋があり、江戸時代の終わりごろには「歌舞伎」が盛んに催されたそうだ。今も「農村歌舞伎」として年に一度は地元の人々によって上演されている。小屋は国の文化財、歌舞伎は県の民族文化財として大切に保存、保護されている。田浦にはそのような芝居はなかった。
 
 当時の青年団団長は今の総代(自治会長)あの山森さん。昨年秋、町の八幡さんのお祭りの後、母と廃校になってからも保存されている分校を訪ね、山森さんにも会った。
 「お正月の芝居の台本はどうしてたんですか」
 「あれはなあ、わしが書いとったんやで」
 「いやあ、そうだったんですか」
 「時代もんやら、新派みたいんやら、現代もんやらなあ」
 そういえば、かつらをつけて刀を腰に大見得を切って見せた漁師のおにいさん、マントをつけて高下駄を履いた男の人が、丸髷に着物姿に身をやつした俄か女形を足蹴にするなど誰もが知っている芝居、「ピーピー」「ひゅー」と掛け声のかかる恋愛ものなどあったなあ。
 「観るの楽しみやったけど、ほんとは私も出たかったですよ」
 「ほんまかいな」
 「毎年、誰か子供が一人や二人出よったでしょ。あれがうらやましかったんよ」
 「出たい、言うたらえかったのに」
 「今の私みたいに図々しいかったらね。言えたんやけど」
 「そりゃ、どっちもざんねんなことやたわなあ」

 学校が芝居小屋になるには、映画鑑賞のときと同じく三つの教室の仕切り板を取り外してぶち抜きの広い会場にする。そして、教室で子供たちが使っている二人で使う長い学習机を土台に、角材で高さを調整し、各教室で使っている教壇を並べて舞台を設える。仕切り板も利用されていた。短いけれども花道もついている。手づくりの舞台は大げさにドタバタと音がして名実ともにだった。
 ちいさな村の暖房も無い真冬のちいさな学校に、手に手に座布団を持ち込み板張りの床に敷いて座り、笑い、泣き、おらぶ。そんなときを過ごした温い想いを今つくづく幸せに感じている。
 芝居が跳ねるとお天気がよければ、輝く月明かりの中、曇りの日は暗闇を、雨の日は番傘を連ねて、人々はにぎやかに家路につく。正月の終わりだ。