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LONELY DEVIL

every day thinking...

●目次

2007-09-26 | 『紅き瞳の吸血姫』



  ○プロローグ

●第1話『霧の館』

●第2話『雲の絶え間に』

●第3話『刺さる棘、甘い毒』

●第4話『夜明け前』

  ○幕間『満月の呪い』

●第5話『鬼』

●第6話『吸血鬼(前編)』

●第6話『吸血鬼(後編)』

●第7話『誤解』

●第8話『掴めない真意』



【 to be continued... 】

*このメニューからリンクを貼っていない最新話がある場合があります。ご注意下さい。

●第8話『掴めない真意』

2007-09-26 | 『紅き瞳の吸血姫』
●第8話『掴めない真意』


----- 1 -----


『また、こちらにいらしたのですか…』


四方を石壁に囲まれた部屋は蝋燭の明かりに照らされ、よりその重厚さを増している。
井戸の底のような創りのその部屋で放たれた声は、反響を繰り返しながら壁を伝い昇っていった。
部屋の中央に佇み、石の柩を見下ろしていた者は、ああ、とだけ呟く。
虚ろな瞳は声の主など映してはおらず、その視線は、ただじっと石の柩にのみ注がれ続けていた。
一言返事をした後に紡がれた言の葉は何もない。

やがて静寂の中で、蝋燭の明かりに照らされて揺らめく彼の影より新たな影が生まれ出た。
盛り上がった薄黒い塊が四方に伸び、しなやかに、ゆるやかに形づくられてゆく。
手足の先まで、髪の一本まで、繊細な形を創り終わった後、ほんのりと肌の部分だけが色づいた。
其の影人《カゲビト》が纏うのは黒く長い髪と闇の衣。肌の色だけがぼんやりと浮かんでいるように見える。
暗い身体は柩を見つめる者を背後から覆い、ゆるゆると纏わリつく。


『ここは冷えます。御身にはお辛いでしょうに…』

「…構うな。」


短く拒絶した彼は影を背中に乗せたまま、徐に柩の蓋をそっと外した。
ふわり、と広がる花の香り。身に纏う純白は蝋燭のわずかな光では輝けず、どろりと淀む闇の中にある。
白薔薇の花の中に横たわる彼女の胸元、組まれた手、閉ざされた瞼、すべての時間がが止まっていた。
触れたら雪のように溶けてしまうのではないかと躊躇われるほど、肌は青白く冷たい。


「何故…」


ぽつりと呟いた言葉が、冷たい壁に反響して闇に消えた。
彼女の頬を優しく撫でて、柩を閉ざす。そして彼は大きな溜め息をついた。


「あと、どれほどの時を重ねれば良いのだろうか…」

『私にも、解りかねます……しかし、いつか、と信じて今は──』

「私も、そちら側に往ければ良いのだが…」

『…今は、それも叶いますまい』


これまでも幾度となく繰り返された同じ会話が行き着く先は、今だに静寂のみ。
行き先の見えぬ道を選び、可能性のみに縋って今はひたすら進しかないと信じるしかなかった。

彼はもう一度大きく息を吐き出す。
まるでここに彼の全ての生気を置いていくかのように。
再び柩に蓋をして、彼は立ち上がる。
影人は、いつの間にか闇に溶け、その姿を消していた。

キイ、と金属のこすれる嫌な音が頭上から降り注ぐ。
そして今日もまた彼は、虚ろな一日を送るのだ。


『…………。』


重い足取りで冷たい石の階段を登る彼の姿を、影の中からその者は見つめる。
喉元までせり上がった言葉を、闇の中で独り呑み込んだ。
キイキイと鳴いていた金属音がやがて聞こえなくなるまで。


『…叶いますまい…叶えてはいけません…』


静寂の中に、先程彼に言った言葉を捻って放り投げた。
奥深くに隠した感情は、そろそろ腐臭を放っている頃か。
どろりどろりと、傷口からしみ出してくるような気がする。


汚らわしい。
汚らわしい。


『こちら側に来ることは、許しません…… 貴方は──』


生気など、とうに朽ちたこの汚らわしい身と、同じモノになるなど…


──嗚呼、汚らわしい。
蝋燭の明かりを握りつぶし、闇に染まる己の身体を掻きむしり、冷たく暗い床へとその身を這わす。
訪れる静寂に溶け、 影人の気配も消えていった。


暗闇の中に残ったのは、純白の少女。


柩の中で横たわる


少女の目が


開いていた──





----- 2 -----





絢爛豪華というには程遠い、質素な石の造りの建物の中。
重い足と外套をずるりと引きずりながら、男は回廊を進む。
途中、幾人かの女中が外套を剥がし、上着を整え、来客を伝えるも、
其の男は何も返すことなく、ただ歩き続ける。

質素な建物の中で少し際立つ豪華な造りの扉の前で、男は立ち止まった。
先程、女中に伝えられた名前は何だっただろうか──

虚ろな頭の中を掻き回し、名前を浚うも束の間。
先月……降り掛かった不幸のために会談の中止を申し伝えた、若き伯爵。
ヴラド=クレイアイエル伯──今は亡きオルフ王国の伯爵。
オリエイ高原一帯を治めていたらしい亡国の辺境伯とはいえ、その聡明さには定評がある。
顔を思い出すだけで靄のかかった頭が冴えるような感覚になるのは何故だろうか。
あれから一月……随分待たせてしまったかと、男は顔を上げ、扉を押し開いた。


「これは伯爵、わざわざお越しいただき、また、お待たせしてしまい……申し訳ございません」

「いいえ、こちらこそ────」


言葉少なに立ち上がり、深々と頭を下げた青年を慌てて押しとどめる。
其の男……一月前に妻と娘を猟奇的に殺されたフェルの外交派遣参事官、デイビット=ノイリーは、幾度となく

自分に向けられた御悔やみの言葉に応えることに嫌気がさしていた。
もう幾度、愛する2人を亡くしたことを確認させられなければならないのか…
どれほど憔悴しているかは、彼を見た者はすぐに理解できるだろう。
ヴラドは何も言うことなく、ただ再び黙礼のみを彼に捧げ、促されるまま彼に向き合う。
ノイリー氏は力なく笑み、感謝の意を伝えた。

もう二月近くもノイリー氏の顔を見てはいなかったが、ソファーに沈みこんだその身は誰が見ても以前と見違え

るほどにやつれ、その顔からは生気の色が感じられない。
まるで死人だ、と、ヴラドは目を細めた。
女中が運んできた紅茶を一口含み、ゆっくりと一息を吐くと、ノイリー氏は呟いた。


「本当に申し訳ないです… アレが捕まらないと思うと、どうしても眠れなくて…」

「街の方で、人づてに伺いました。…ヴァンパイア、だとか。」


ピクリ、と、身体を震わせ、忌々しげに虚空を睨む。
その目線の先には、まだ見ぬ敵が居るようだ。


「誰もその姿を見た者が居ないので、状況から考えて、そういった見方にはなっています。
 むしろ人間と思わない方が、私の心境としては追いやすいのですが……」


人ならば、捕らえても裁くのは他人ですから… と、自重気味に笑う。
今は悲しみの方が勝ってはいるが、その奥にある憎しみの心が吹き出してくるのは時間の問題に思われた。
仮に犯人が捕まったとしても──(其れは偽者なのだが)──彼の心が晴れることは一生訪れないのだろう。

やるせない気持ちになりながら、ヴラドは切り出した。



「囮……というのは、如何ですか?」

「囮?」

「情報が少ないのでいい加減な事しか申し上げられませんが…
 もしヴァンパイアの仕業なら、血、純潔の女性を……もう一月も経っていますし、まだこの近辺に居るのなら

、そろそろ──」



「──馬鹿な事をおっしゃらないでください!」



突然の怒号。
怒りに身体を震わせ若き伯爵を睨み付ける彼……ノイリー氏。
まだ顔色は優れないものの、先程までの憔悴した様子は微塵もなく、その姿は一月前の彼の姿そのもの。
外交派遣参事官として名を馳せた頃の厳しい顔つき。
いつもこのような大声で指示を出し、反論し、有事の際に対処をしていたなと、ヴラドは内心苦笑した。



「伯爵、貴方は何も分かっていらっしゃらない。
 女性の囮? そのような危険なことに巻き込むわけにはいかないでしょう!」

「治安局の職員では? 彼等はいつも危険を伴っています。女性も居るでしょう。
 この度の事件でも狩り出されている筈ですが。」

「ヴァンパイア説が出た時から、女性はこの事件の担当から外されています」

「ルシアールに要請は?」

「はっきりとヴァンパイアであるという証拠がない。最初の段階で一蹴された!」

「それで一月も成果なく、いたずらに市民を不安にさせ、放置しておくつもりですか」

「……それは、治安局の仕事です。外交官の私には、どうすることもできない…」



顔色ひとつ変えないヴラドを憎々しげに睨みながら、ノイリー氏は溜め息を漏らす。



「そもそもフェルには魔術師が少ないのです。
 陸軍を動かそうが、ヴァンパイアを捕らえることは難しいでしょう。
 ライカには当然支援を要請できない。ルシアールも無理だった。
 このような状態の中、魔術の心得のない者達ばかりで解決を図っても
 うまくいくわけがない…」

「だから何もできない、そういう事ですか?」



そう呟いたヴラドに、ハッとしてノイリー氏は言葉を繋げようとするが、若き伯爵の目を見た途端に何も言えな

くなった。
嘲りとも呆れともつかない、複雑な感情が見てとれた。
其れが何からもたらされるものか、本能が警報を鳴らす。
何もかもが見透かされているようで心地悪かった。



「疲れました。お帰りください。」



俯いたままそう言って、ノイリー氏は口を閉じてしまった。
これ以上は無理かとヴラドも諦める。
念を押すのは忘れずに。



「私の方からも、治安局に掛け合ってみましょう。何かが動くかもしれません」

「……。」







そのまま一礼して屋敷を去ったヴラドは、釈然としないものを抱えたまま独りごちた。


(何をしてでも犯人を捕まえろと言った男の反応ではない)


囮の話をすれば、何かしら食い付いてくるという予想に反して、彼の態度は普通だった。
普通すぎた。
国の役人である自分の立場や、回りの機関の状況を冷静に捕らえすぎている。

そして昨晩の男……

“喰った”時に、男の記憶を視た。
血に飢えた男が目にした一部始終を、ヴラドは知っている。
よく考えると、この事件の一部始終を理解できるものだった。
放っておけないものをも視てしまった。

ヴラドの中で、とある説に考えが至ろうとしているのだが、決定打が掴めない。


(なかなか、難しいな)


思った通りに事が運びそうにない。
苛立つことはないが、何とも煩わしい問題だと苦笑した。

賑わう大通りを余所目に、ひとつ、ふたつ、細い路地を抜けると、街の裏側に出た。
高い城壁に囲まれ光を遮られたその場所は、まだ昼間なのに夕暮れを思わせるような錯覚を起こさせる。
人目もまばらなその一角で、ヴラドは首元に下げたネックレスを取り出した。
魔法石の埋め込まれたそのネックレスは、今朝、エマに渡したものと同じもので、少々の距離ならば意志の疎通

ができるという魔法具である。


(────エマ…。)


愛おしいものにするよう、目を閉じて石に口づける。
起動の合図……言の葉を伝えられるように。
ゆっくりと目を開き、彼は応答を待った。





----- 3 -----





「…ふぅ。」


あちこちを濡らしながら、エマは額を拭った。

フェルから少し離れたところに、川が流れている。
街道の人陰が見えないあたりで行なわれているエマの奮闘は、ようやく終わりつつあった。

ヴラドが出かけてから2時間と少し。
一人で川底をさらい、泥を掬う。
川辺に積み上げられた泥は、大の大人1人分ほどの体積となっていた。

長時間水の中に居たことで、かなり身体が冷えている。
赤くなった指先に、ほぅ、と息を吹き掛けて、強張る身体をどうにか起こした。


「ごめんね、エマちゃん…俺たちが情けないばかりに…」

「いいえ…これは私にしか出来ないことデスから…」


エマが掬った泥を一ケ所に集めて形を調えながら、若い護衛が頭を下げた。
その顔も手も服も、乾いた泥で汚れている。
もう一人の中年の護衛も苦笑しながら黙々と作業に勤しんでいる。
本来ならば力になる筈の大の男が2人も居るのに、役立たない。
何故なら彼等は川に入る事が出来ないからだ。

クレイアイエル家に携わる者のほとんどは、川に入る事ができない。
それは絶対の法則である。
橋やボートなどがあれば問題ないが、流れる水の中に踏み入ることが出来ないのだ。
以前、エマは川に踏み入ったレクターを助けたことがあるが、川の中に一歩足を踏み入れただけの状態で半泣き

のまま固まっていたことを記憶している。
──ちなみにレクターは、シャワーも嫌いである。
──ヴラドにあたっては、そういった姿を見たことがないので、何とも言えない。

どういう訳かはまだ立証されていないが(パリスなどは学者魂に火がついたようで、日々研究を重ねている)、

この護衛たち2人もそういった体質のようであった。

エマやエリカは、クレイアイエル家の血を引いてはいるものの、魔女の血の所為なのか、そういったものに影響

は受けないらしい。
よって自然に、エマが川の中に入って泥を掬う役割になっていたのだ。


「これぐらいあれば、良いデシょうか?」

「ああ、これだけあれば十分さ」

「後は、旦那様がお戻りになるのを待つだけデスね」


泥が乾かないように気を付けながら、日なたに腰を降ろして一息つく。
もう、日は頂点付近まで昇っているので、お昼頃なのだろう。
冷えた身体を暖まるのを、ぼぅっとしながら待った。

クゥ、と小さくお腹を鳴らして真っ赤になりながら、街で買ったハムサンドをぱくついていた時。



   キ ィ ン



どこかから耳鳴りのような音が響いてきた。
他の2人には聞こえていないようだが、確かにエマの耳には届く音。
それは、胸元に下げられた魔法具からの音のようだ。

これを渡された時に教えられた通り、この半身を持つ者の姿を思い描く。


(────旦那様っ)


慌てて目を閉じて口づけた。
その仕種が、何かを思い起こさせる。


……今朝の、出来事。
剥き出しの暖かい肌に──


「~~~~~っ!」


思わず真っ赤になりながら、首を振った。
まさか、こんな時に思い出すとは。
これは主人からの嫌がらせなのだろうかと失礼なことを思いつつも、魔法具を落とさないように気を付けながら

耳を傾ける。



『──エマ?』



ハイ、と小さく応えると、聞こえてくるのは、柔らかで、少し笑みを含んだ主人の声。



『ちゃんと、キス、した?』



やはり意地悪なのだろうか。
この行為に何か意味があるのか…その真意は主のみぞ知る──





【 to be continued... 】

●第7話『誤解』

2006-01-12 | 『紅き瞳の吸血姫』
●第7話『誤解』


----- 1 -----


朝靄の隙間から漏れる柔らかな光が少し眩しい。
その光から身を隠すように、少女は暖かな影へと顔を埋めた。
影は少し身じろいだがそれも一瞬のことで、ゆっくりと少女を包み込む。
肌で感じることのできるぬくもりと、規則的な鼓動が心地よかった。
微睡んだままの表情が幸せに満ちていることを確認すると、影も微笑みを浮かべる。
やわらかな時間だけが、その部屋を満たしていた…


もう少し眠ろうかと思った矢先、山鳩が鳴いた。
妙に間の抜けた鳴き声は、気にしてしまうと耳障りだ。
呼応するかのように他の小鳥たちも目を覚ます。
そして腕の中の少女も然り…


「………ん~…」


その腕の中から逃れるように身じろぎする少女。
影として光を遮っていたヴラドは、少女を光の中へ手放した。


「おはよう、エマ。」

「………っはよふ…ござい…マス」


覚醒しきっていない声。小さく欠伸をして起き上がる。
しかしまだ寝ぼけているのだろう……エマは再びヴラドの腕の中へと倒れ込み、そのぬくもりを強請った。
柔らかに巻かれた髪が乱れている。
幸せそうな寝顔にはらはらと流れ落ちる髪を梳きながら、ヴラドは苦笑した。


「目覚めの悪いエマなんて珍しいね…」


言ってから気付く。そういえば昨晩は深睡の魔法を使った。
不粋な客人に苛ついていた故、加減を違えてしまったか…

夢と現の境を彷徨いながら、腕の中の少女は甘えを見せる。
覚醒すれば恥ずかしがって離れていってしまうであろうその姿態を前に、ヴラドはその希少な一時を満喫しようと決めた。
望むままに心を繰ることも出来るが、それでは興が醒める。欲しいのはそんな紛い物ではない…
何よりも代え難い──それがほんの数秒のことだとしても。


「…んぅ」


微睡みを邪魔する日光を遮る影は、とてもあたたかい。
滑らかに感じるその輪郭をたどり、両手に、頬に、そのぬくもりを感じることができる。
声を上げたら離れていってしまったその影をもう一度引き寄せると、逃がさないようにしっかりと腕を回して抱きついた。
ドキドキする心音、生きているアカシ。
愛おしくて、無意識のうちに口づけていた。
びくりと震える身体。


……身体?


「………………っひゃぁ──!?」


そこにあるものを見留め理解した瞬間、エマは思いきり飛び退いた。
思いきりが良過ぎてベッドから転げ落ちる。
シーツに絡まり不格好な形ではあったが、そのお陰でか落ちた時の衝撃は無かった。

恐る恐る振り向いた視線の先にあったのは、落ちるエマを止めようとしたのか、不自然に手を伸ばして固まっている旦那様…ヴラドの姿。


「だだ…っ……だっ! 旦那様…っ」


無駄に色気を振りまく肌蹴た胸元から慌てて目を逸らし、シーツに包まってみる。
ヴラドの視界に入ることすら恥ずかしい。
彼が呆然としている間に逃げてしまおうか……そんな考えに思い当たった時には、すでに時は遅かった。


「……ふ……っくック…」


笑われている。
堪えているらしいが、笑われている。
穴があったら入りたいとは、このような心境のことを言うのだろうか。
この上なく、エマは落ち込んだ。





----- 2 -----





「ごめん。ごめんってば、エマっ」


必死に謝る姿は誰の目にも真摯に映るだろう。
しかしその瞳の奥を覗いてしまえば、笑いを堪えていることに気付いてしまう。
湯気の立ち上る温かいスープを一口含み、飲み下す。
彼の謝る言葉など聞こえなかったかのように、エマはそっぽを向いて中年の護衛に微笑みかけた。


「おはようございマス。昨日はよく眠れマシたか?」

「ああ、よく眠れたよ……くくっ」


恨めしそうに睨み付けるヴラドを横目に、笑いを噛み殺しながら中年兵士が応える。
普段は厳しい主人が少女一人に頭が上がらない様子が可笑しくて仕方ないといった様子だ。勿論、耳まで真っ赤にしたエマが可愛いという事もあるが、敢えてそこには触れないでおく。
長年仕えてきた主人なだけに、部下は引き所も心得ているのだ。


「エマちゃんと一緒なら、もっと良く眠れたかもしれないけどねー」


青年の方は、まだ仕えてから日が浅いためか、迂闊に地雷原へと足を踏み入れてしまうのだが…。
中年兵士は顎ひげを撫でながら苦笑する。
帰宅したら、部下とは何たるか、そして身の程というものについて教育し直さないといけないなと胸中で独りごちた。
案の定青年はヴラドの一睨みで凍り付いている。
可愛さ余って憎さ百倍……の百倍の方を、八つ当たりでやり過ごす主人の姿にも呆れるものがある。勿論そんな事は口にしないのが処世術というものだ。


「ところで、昨晩は例のアレは出なかったんですかね?」


しばらくの膠着状態の後、助け舟を出してやることも忘れない。
青年は感謝の表情を滲ませて、中年兵士を仰ぎ見た。


「アレって、本当に吸血鬼なんですかぁ? それらしい気配なんて全んぁだっ!?」


余計な口は殴って塞げばいい。
この町中のピリピリした雰囲気を察せずに、その「言葉」を安易に出すものではない。
しかし連れてこなければ良かったと、兵士は思い直した。
主人も少々呆れ顔だ。


「……中央治安局の面子にかけても全力で解決に取り組んでいるだろう。我々が出しゃばるべきではない。今回は視察と、御悔やみを申し上げるだけだ。」


しかし、と言葉を続けようとする青年の脇腹に肘を入れ、中年兵士は溜め息をつく。
これは早々に引き上げた方が得策かもしれないと。


「では、本日は大使官邸へ?」

「そのつもりだ。先方も今回の事でごたついているらしいから……挨拶だけになるだろうね」

「我々は同行を?」

「いや、私だけでいい。何かあれば…」


ちらり、とヴラドは隣に座る少女を見た。
時間をおいたことで目は合わせてくれるようになったが、眉根を寄せているところを見ると、まだ少し怒っているらしい。
苦笑して彼は続けた。


「エマに連絡をいれるよ。君たち三人はここで待機していて欲しい」

「…えっ?」


驚いた声を上げたのは、エマだ。護衛の二人も遅れて同様の反応を見せる。
同行するものだとばかり思っていた少女は先程までの怒りを忘れ、
ヴラドを仰ぎ見た。
そもそも自分の役割は主人であるヴラドの世話と、怪しまれない程度の身辺警護であった筈だ。
怪しまれずに近くで控えていられる存在が必要だと、出発前にヴラドに言われていたのに…


(もしかして…っ)


エマはある考えに行き当たり、真っ青になった。
今朝の出来事からずっと、無礼な態度を取り続けている。
いつも笑って赦してくれているおかげで忘れていたが、彼は自分の主人である。決して横柄な態度で、しかも無視を決め込むなどしてはいけない相手なのだ。


(身の程も知らないで……私…っ)


これは罰なのかもしれない。
頭を冷やして身の程をわきまえろという、無言の警告──
どんどん思考は悪い方へと墜ちてゆく。
本当は、ヴラドがそんなことを思う筈がないのに。


「少しね、やって欲しいことがあるんだ」


ヴラドの微笑みが、今のエマには「最後通告」にしか見えなかった…





----- 3 -----





必要とされたい。
役に立たなければ。
そのために私が存在するのだから。
役に立たなければ。
あの方の思いのままに。

そうしないと、私は「要らないもの」になってしまう──





川底を掘り返す少女がひとり。
弾け飛ぶ飛沫が柔らそうに巻かれた髪に跳ね、陽の光をキラキラと反射した。
白くほっそりしたその腕を水に浸し、底を漂う柔らかな泥を掬う。
今朝ヴラドから通信用にと渡された魔法石の細工が胸元で輝き、それを見るたびに少女の表情は曇っていった。


(役に、立たなければ…)


彼女の主人であるヴラド=クレイアイエル伯爵がフェル中央治安局へと赴く直前に言い渡したことがある。
それは、「犯人の擬装」。

実は昨晩のうちに、一連の犯行を犯したであろう容疑者……つまり吸血鬼と呼ばれる者を、ヴラドが「喰って」しまったらしい。
朝食の後で部屋に集められ、いつも冷静に10年後まで見通しているのではなかろうかとも思わせる「旦那様」から申し訳なさげに為された独白は、一同に少なからずの衝撃を与えた。
だって腹が立ったんだもん、と幼い口調で拗ねてみる彼の代わりに皆が慌てる。


「ま、まずくないですかい? 犯人がもう存在しないなんて証拠、ないでしょうに……しかも端から見れば関係のない旦那様が「喰った」なんて、口が裂けても言えませんって」

「出しゃばらない方がいいとか言っておいて、眷属たちに残り全部喰わせちゃったんですか? 無茶苦茶ですよ!」

「ど、ど…ど、どうしマシょう…」


せわしなく狼狽える一同に苦笑しつつ、ヴラドは応えた。
犯人をでっち上げるしかないと。



そして現在エマはその擬装工作に狩り出されていた。
決して証拠の残らない犯人を作り上げるために、本物の吸血鬼モンスターを町に放すわけにはいかない。そう簡単に調達できるものでもない上、催眠をかけて操ったとしても何かの拍子に解けてしまうかもしれないリスクがあるからだ。
使い魔を使役する手もあるが、今回の事件の所為でフェル中央治安局には魔術師も派遣されているらしい。捕まって使役者が探知された時は面倒なことになる。

そこでヴラドが提案したのは、「泥人形」による犯人の擬装だった。
クレイアイエル家に伝わる秘術で、思いの侭に動かせるゴーレムを造り出すことができる。
本物との違いは構成成分と意志を持たないこと、そして陽の光に弱いことぐらいだ。
幸いなことに、「喰った」者の能力は覚えているらしい。限りなく近いところまで再現できるとヴラドは言った。


(役に、立たなければ…)


強迫されているような面持ちで、エマは泥を掘り続ける。
「泥人形」、それは使い捨ての駒。
役に立たねば捨てられてしまう駒。
それは、いつの間にか自分の中に巣食っている恐怖。
意志のある自分とは違うと言い聞かせても、それは頭から離れていってはくれなかった……


「……ふぅ。」


一息ついて辺りを見渡すと、誰にも見つからないように見張っている護衛の二人がいる。
エマの視線に気がつくと、手を振ってくれた。
曖昧な微笑みを返し、また作業へと戻る。
彼等に与えられた役割、自分に与えられた役割。
どんなに些細なことでも、与えてくださる方がいらっしゃる。
それは、とても幸せなことなのだと噛み締める。

過ぎてしまったことは戻らない。
でも、失敗は取りかえせばいい。


(大丈夫…まだ、大丈夫…)


祈るように、エマは泥を掘り続けた。
どうか私の手で掬った単なる泥から、彼の役に立てるものが創りだせますようにと祈りを込めて。



──いくら誤解を重ねても、行き着くところは主の思うがまま





【 to be continued... 】

●第6話『吸血鬼(後編)』

2005-11-05 | 『紅き瞳の吸血姫』
●第6話『吸血鬼(後編)』


----- 1 -----

ギィィィ……バタン。


耳障りな軋みと、驚くほどに大きく響いた扉の閉まる音。
そして、頭上から聞こえる微かな溜め息。
その腕に抱えられているエマには見ることはできないが、きっと彼の表情は険しいのだろう。


「ごめん、ちょっと大人げなかった…」


抱く腕に力が篭っていた。
エマが少し身じろぎしたが、しっかりと回された手は離れそうにない。
じわりと伝わる体温が、温かかった。


「簡単に一緒のベッドで眠るなんて事、頷いちゃ駄目じゃないか」

「…ひゃぁっ!?」


──こうやって何されるかわからないよと、きつくハグを繰り返された。
クスクスと笑い声も聞こえる。
どうやら怒ってはいないようだ。エマは少しほっとして力を抜いた。


「じゃぁ、旦那様なら良いのデスか…?」


おどけてみせるエマに微笑み返し、額にひとつ口づけをする。
悲鳴を上げられる前にその頭を抱きかかえ、口を塞いだ。


「そうだね。私以外は許せないな…」


真っ赤になって暴れてみても、所詮力では適わない。
こうやって押さえ込むこともできるんだよとヴラドは言ったが、魔法がありますと返されて少し笑った。


「エマは優しいからね。きっと危険が迫っても、直前までは何もしないだろう?」


それでは遅いんだよと、今度は唇を撫でられる。
眉根を寄せるだけで特に抵抗らしいものはしてこないエマに、ほら、やっぱりと彼は苦笑して見せた。
それはヴラドに対してだけかもしれないが、やはり簡単にこういう事を許してしまうのではないかと心配だ。


「…こんな事をスルのは、旦那様だけデス!」


ヴラドの内心など何一つ理解していないような受け答えは、ヴラドに対する信頼か、それとも単なる無知なのか。
恐ろしい目というものに出会った事がある筈なのに、それは特別なものである故、他の事に対する危機感が薄れてしまったのだろうか…
この意識の持ち様は少し問題かもしれないと、ヴラドは内心で溜め息をついた。


「後から泣いたって、私が助けてあげられるとは限らない…」

「……その前に、旦那様に泣かされるような気がしマス」

「…ククッ……そうだね…」


否定してください! と真っ赤になるエマが、わざとこんな駆け引き事のような真似をしているのだろうかと疑ってしまう時もある。
抵抗らしい抵抗もせず、無垢な受け答えと誘うような仕種。
謀られたものだとしたら相当の悪女だなと、ヴラドは苦笑した。


それでも、と艶やかに微笑む。


それが何であれ構わない。
自分が「今」欲するものは、「今」ここにあるもので。
その執着心が「今」薄らぐことはないのだから。


そう、闇の住人よ。
欲望に忠実に。
騙されるも惹かれるも「今」ここに居る己自身だ。

後悔など必要ない。
 ──意志の弱い者は、反する望みを持つ者に淘汰されるのみ。
整合性など必要ない。
 ──闇の世界に存在するのは、盲目なる渾沌(カオス)の意識。
賛同など必要ない。
 ──外聞に構わぬその姿が嘲笑にまみれようと、己の中では崇高であり続ける。

己が己を否定することのみが、己のアイデンティティの消滅。
他に穢されるものではないことを知れ。
生け贄よ。其の意識に呑まれるのを良しとしないならば、全力で抵抗することだ。
闇の住人の多くは、理想の手順でないとお気に召さないらしい。
逃げる兎を追うのも、また一興──


「さて、そろそろ眠ろうか。…一緒のベッドで良いんだね?」

「…旦那様、意地悪デス」


クスクスと笑ってエマの言葉を揶揄してからかう。
今はこれでいいと、妙な満足感を味わった。
窓から差し込む月明かりから隠すように包み込んだ小さな身体を横たえて、覆いかぶさるは闇の帳──


「おやすみ、エマ…」


そっと額に口づけた…。





----- 2 -----





すでに月は沈み、星だけが弱々しく空を飾る。
静寂と木々のざわめきが繰り返され、柔らかな闇が大地を包み込んでいた。
月の庇護が無くなると、闇の住人たちが騒ぎ出す。
間接的に太陽の恩恵を与えてくれる月が、愛おしくもあり憎くもある
それが消えてしまうと嬉しくもあるが腹立たしい…

その感情が何なのか理解できないまま、闇の住人達は夜に蠢く。
欠け落ちた隙間を埋めるための「望み」を探すために…



『足りない……』

『こんなものではない筈だ…』

『もっと……もっともっともっともっともっと──!』



渇いていた。
望んでいた。
それが何なのかを忘れてしまった。
何かが欲しかった筈なのだ。
しかし、頭の中にかかる靄は晴れることがない。
それは自分が「そう」なった時から決まっていたことだと、誰に聞いたわけでもなく知っている。
そう、知っているのだ。
本能が伝えてくれる。何が欲しいのかを。

とても渇いている。
だから欲している。



『────血を!!』



彼が求めたもの。
初めは動物の血。
魔物の血さえ欲した。
しかし喉の渇きが潤されることはなかった。
本能が訴えた。人の血が欲しいと。

自分の血を啜って恍惚とした時もあったが、すぐに喉は乾いた。
夜中に徘徊していた男を傷つけた時もあった。
逃げられてしまった上、その血は美味ではなかった。


そして先日、彼は見つけてしまった。
闇の隙間より忍び込んだ先に居た女性。
獲物が悲鳴を上げる間もなく、喉笛に喰らいついた。
薄い皮膚の下に流れる熱いもの。
欲していたものを得た時の快感……甘く香る女の血が喉を通る時、彼はついに満たされた。
味わう事も忘れ、夢中で飲み干した。



満たされた彼は闇に溶け、至福の感覚のまま眠りについた。



どれほどの時が経過したのか、彼は覚えていない。
目覚めた時に感じたものは絶えることのない渇き…
彼は愕然とした。
確かに至福だった。満たされて終わる筈だった。
なのに何故、こんなにも絶望を感じるのだろうか──

陽の光に弱くなってしまった身体。
月の光で太陽を懐かしみ、夜毎に血を求めて徘徊する。
その瞳が、闇夜に鈍く輝いていた。
血を欲する者。人はそれを『吸血鬼(ヴァンパイア)』と呼ぶ…



彼は、ひとり街に佇んでいた。
この街で味わった幸福を再び手にするために。
そして何故か今宵は胸が騒ぐ。
心臓を掴まれたような、恐ろしい高揚感。
満たされない身体が悲鳴をあげているのだろうか…
晴れることのない靄で包まれた頭では、理解できない。
ただ、心が高鳴る。

わかっているのはただ一つ。
至福を覚えてしまった身体は再び渇望する。
血を……甘く香り立つ女の血を──!





----- 3 -----





「……鬱陶しい野良犬……」


闇の住人は呟く。
腕の中に眠る少女を起こさないように腕を解き、その瞼に口づけた。
安らかな眠りを害することがないように。
一瞬、緋色の瞳を細めて微笑むが、瞬いた瞬間に顕われるは燃えさかる深紅。
その中には、何の感情も読み取ることのできない絶対的な闇がある。

窓の下には鈍く光る瞳。
臭いを嗅ぎ付けてきた狼のごとく唸りながら周囲を威嚇している。
闇に溶け込む住人たちは、冷ややかにその様子を見ているだけだったが、やがて何かから逃げるように一つまた一つと気配を消していった。


『王様が御出でだ』


クスクスと嗤いながら、最後のひとつが去ってゆく。
それに気付かず、静寂の中で彼はひとり窓を見上げていた。
鋭くなった嗅覚は、ここに獲物が居ることを教えてくれる。
冷たい心臓が脈打っている。
高鳴った心は、もう我慢することはできなかった。

あの窓の向こう、心を満たしてくれるものがある。
飛び上がろうと両脚に力を込めた。



しかし、意志に反して身体は動かなかった。



呼吸が乱れる。
血を浴びていない故に異常をきたしたのだろうか。
もう一度動こうとしてみても、ぴくりとも動かない。
闇に縫い付けられてしまったかのごとく、脚が地面から離れなかった。


『うう…ぅ……ぅごけ! 動け!』


いつの間にか冷や汗が滴っていた。
身体が震えている。
あの窓の向こうにさえ行く事ができれば。
彼は必死に窓を見上げた。



──そして、気付いてしまった。



『う……うぅ………うあぁぁ』



バルコニーに佇む深い闇。
冷めた表情の中で、その瞳だけが絢爛。
気づいたことを悟った闇は、ニィと嗤った。


何故、気付かなかったのだろう。
絶対的な闇がこんなに近くに居たことを。
肌がひりひりと痛む。口の中、瞳の奥が乾いて張り付いてゆく。
気付いた今は、本能で感じることができた。
自分など、吸血鬼を名乗ってはいけない卑小な存在であると。


微笑みを浮かべたまま闇はふわりと舞い上がり、彼の前へと降り立った。
燃え盛る深紅は禍々しく、彼の姿を見据えている。
その姿はまさしく王者の如し…



ああ、闇達が囁いていた──『王様が御出でだ』



其れが、彼の最期の思念。
闇がその喉元に喰らいつき、血と生気と魂を啜った。味わうことのない「作業」は、ものの数秒で終わる。
ぷつりと糸の途切れた人形のように、彼の躯は崩折れた。
鋭利な視線で貫けば、いつの間にか戻ってきた小さな闇たちが一斉に群がる。
流れた時は幾許か。
闇の晴れた大地には、その痕跡すら残ってはいない。



紅く染まった口元を拭い、不味いと呟いた。
小さな闇たちは、取り入るように飛び回り芳香を漂わせたが、かの王は見向きもしない。
その心を満たすことのできるものは、ごく僅かなのだから…

闇の住人は気怠げに漆黒の外套を翻し、在るべき居場所へと戻ってゆく。
満たされた空間へと身を委ねるために…



王の好むは、甘く柔らかに眠れる場所──





【 to be continued... 】

●第6話『吸血鬼(前編)』

2005-10-11 | 『紅き瞳の吸血姫』
●第6話『吸血鬼(前編)』


----- 1 -----

彼は、哀しみに暮れていた。
つい先日、長年連れ添った妻と娘を亡くしてしまったのだ。
20年近くも続いたディアス戦役を家族共に生き抜き、ようやく平和な日常が戻ってきた矢先の出来事だった。

それは新月の晩のこと。
彼はライカ外交官との交渉を終え帰宅の途につこうとしていた。
ヴァルキアム平原におけるライカ・フェルの領地主張は今に始まったことではなく、ディアスが介入してくる以前からのもので、早々に解決する事案でない事は彼も了解していた。
しかし互いの主張ばかりで進展はない中に3日も置かれていたのだ。精神的に疲労が溜まる。
早く温かい家庭へ帰りたいものだと、家路を急いでいた矢先のことだった。

そろそろ日が落ちようとする頃。
最近は少なくなってきたようだが、夜にはまだ凶悪なモンスターが出没する。
大事をとってアレンで宿を取ろうと宿場へと向かったところに、見知った顔があった。確か家の守衛兵士だったかと記憶している。
同じく気付いた側近が、その兵士に話し掛けに行った。
何か、トラブルでも起こったのだろうか…


「旦那様! 大変です…奥様とお嬢様が…!!」


その言葉を聞いた時に、血の気が引いた。







「とすると、貴方はライカより帰宅の途中で、お二人の訃報をお耳に入れられた……と。」

「だから…そう言っているだろう!」


フェル中央治安局の一室で、彼は局員に怒鳴り付けていた。
夜明けを待たずにフェルへと駆け戻った彼等が見たものは、血の気の失せた青白い二人の姿…
薔薇色に染まる頬も唇も、生気の溢れる笑顔も、そこには無い。
ただ、人形のごとく横たわる、冷たい躯のみ──

半狂乱のままその躯に駆け寄り、揺さぶり、通報を受けた治安局の人間が駆け付けた頃には、使用人に押さえ付けられながら枯れた叫び声を上げつづける彼の姿があった。

そして事情を聞くために治安局に移され現在に至る…


「私の…私の事よりも、早く妻と娘の事を! 自殺ではなかった事は知っている! 犯人はどこだ…!!」

「落ち着いて下さい。こちらで判っている状況ならば、いくらでもお教えいたしますので……貴方には心当たりを上げていただきたいのです」

「なら、早く話せ!」


鼻息も荒く眼を血走らせたこの外交官の姿に、この案件を担当することになった治安局員は溜め息をつきながら話し始めた。
それは、彼の予想もしなかった内容で……


「奥様とお嬢様の死因についてですが、首の傷以外に外傷はほとんどなく、失血によるものと判明いたしました。体内の血液の約半分ほどでしょうか…それが失われております。」

「それは…殺人、ということだな!? …犯人は!」


興奮して詰め寄る彼は、他の局員に宥められ、席へと押し戻される。
冷静に聞け、という方が難しい内容ではあるが、冷静に聞いてもらわなければ何らかの凶行に走りかねない彼の様相に、局員はただ頭を悩ますばかりだ。


「………凶器は出てきておりません。ナイフではなく、恐らく細い鋭利なもので、首筋を狙われたようです。ただ……」

「ただ…何だ?」


渋い顔で言い淀む治安局員を睨めつける。
椅子に深く腰掛けている彼に、もう暴れる心配はないだろうかと、後方で待機する局員はハラハラしながら見守っていた。
睨み付けられた局員は浮き上がる汗を拭き取りながら続ける。
ここからは、少しばかり現実離れしている内容で、再び彼が暴れることになりかねない。
ちらりと後方に控える局員に目配せすると、途端に緊張が走った。


「お二人ともに外出した形跡はなく、使用人の話によると、部屋を離れたほんの15分ほどの出来事だったらしいのですが…その事から考えると、不自然なことですが…」

「勿体付けずに早く話せ!」

「………無いんですよ。部屋の中に、争った形跡も、動脈を傷つけられた時に床に落ちる筈の血も。まるで首から血だけが抜かれてしまったかのように、猟奇的に!」

「…どういう、事だ?」


争った跡がないということは…顔見知りの犯行だろうか。
誰かが殺した後に何らかの方法で血を抜いて…
それでも、誰にも見つからずに短時間で2人を…


「──暗殺者か?」

「一概には言えません。ただ言えるのは、犯行可能な時間から見て、計画的犯行の可能性が高い…という事ですか。あくまで可能性ですが…」

「………………。」


押し黙ってしまった彼の姿を、怖々と見守る局員達。
あの固く握られた拳が叩き付けられたなら、机だろうが骨だろうが、全てを破壊できるのではないだろうか…
そんな固く冷たい空気を、彼の声が緩やかに震わせる。


「……捜せ。心当たりでも何でも、必要な事は教えてやる。
 だから、一刻も早く………捜せ! 犯人を!!」

「──了解、いたしました。」





----- 2 -----





フェルの城下に、ある噂が広がっている。
国の一外交官の屋敷で、殺人事件があった。
それは周知の事実であるが、その犯人は「ヴァンパイア」であると──

人形モンスターであるヴァンパイアがフェルの街に入り込み、夜な夜な人を襲っている……最近、聖都ルシアールに退魔術士を国が要請した……などという噂が真しやかに囁かれていた。


「物騒な噂だね」


噂を信じてか、日が落ちると街はひっそりと静まり返り、警備兵たちが物々しく巡回する。
その様相は、まるで戦の時代に戻ったかのようだ。

先日身内に不幸事があったとの連絡を受け、その日の面会を中止したヴラド=クレイアイエル伯であったが、その日から1月後に御悔やみを申し上げにフェルの街を訪れた。
しかし、いきなりの殺人事件でピリピリした様子が伺える。
フェルを訪れる旅人も、城門の脇で一々署名と身分を証明しなければいけない等、かなり徹底している様子だ。
とりあえずは通過できたが、クレイアイエル家の馬車も、フェルの街には馴染みのないものなので、あのフェル外交大使の名前を出した途端、あからさまに怪しまれ、城門を抜けるのに随分と時間がかかってしまった。


「エマが居てくれて良かったよ。私と護衛だけでは怪しまれてしまったかもしれないからね」

「いいえ…私は、何も…」


侍女用の黒いワンピースを着たエマを連れ、落ち着いた物腰のヴラドの姿は、どこから見ても高貴な出の者にしか映らない。加えて外交大使に問い合わせたところ、クレイアイエル伯の身分の保障がなされたので、城門を通してもらえたのだ。
ちなみに、身元の判らない冒険者等はなかなか通してもらえずに衛兵との衝突を繰り返しているようで、足留めされた者の大半はアレンの街へ向かっているらしい。
屈強な冒険者だからこそ、日が落ちようがもの怖じせずに移動できるのだが。


「私や護衛が居るとは言え、エマみたいなか弱い少女を連れて、こんな夜更けにアレンまで行かせられないだろう? それは騎士のする事じゃないね」

「…そう、なのデスか?」


実際はそう言って城門の衛兵に文句をつけていた事をエマは知らない。
後ろに控えている護衛達はエマがその辺りのモンスターに負けない事を了解しているのだが、フェルの衛兵がその事を知る由も無く、伯爵様から騎士道精神を説かれてたじろぐ姿を目の当たりに、内心笑っていたのは秘密である。
彼等にしてみれば、敬愛するクレイアイエル伯を知らずに足止めをする衛兵に苛立ちを覚えていたのだから。


「さて、彼の家を訪問するのは陽が昇ってからにしようか。夜は皆、警戒しているようだから。」

「デは、宿の手配をして参りマスね。3部屋あたりでよろしいデスか?」

「ああ、別に私は構わないよ。とりあえず、1000シリーンあれば足りるかな?」

「ハイ。デは、行ってきマス!」


ぱたぱたと駆け出す彼女の後ろ姿を微笑ましく見送った後、ヴラドは鋭利な視線を虚空へと送った。
闇の中に蠢く気配が、霧散する。
建物の片隅、店の物陰、木陰や地中に在る闇がおののいた。
夜の眷属たちは知っている。
かの者が気高くも恐ろしい闇の住人であることを──


「腹立たしいね。人の世を騒がせるような輩は…」


私の主義に反するのだよ。





----- 3 -----





「どうしマしょう…困りマシた……」


宿の受付で眉根を寄せる少女が一人。
カウンターの中では、申し訳なさそうに苦笑する女将さんの姿。
もうすぐここへ「旦那様」……ヴラド=クレイアイエル伯爵がやってくる頃合いなのだが、エマは未だに手続きを取れずにいた。


「ごめんね、お嬢ちゃん。あの騒動の所為で、とんだとばっちりだとは思うけれど…」

「いいえっ それは仕方ありまセン…無理をお願いするわけにもいきまセンので…」

「…どうしたんだい、エマ?」

「ぅぁっ!? 旦那様ぁ…」


急に肩を叩かれて振り向いた先には、不思議そうな顔のヴラドの姿があった。
旦那様ぁ? と、女将が驚いた声を上げた。確かに、ヴラドは若く、旦那様と呼ばれるような年頃でないのは明らかなのだが。
ヴラドがにこりと微笑みかけると、女将の顔が心なしか赤くなったように見えるのは気のせいだろうか。


「…それで、どうしたの?」


再度訊ねるヴラドに、申し訳なさそうに眉根を寄せたままエマは答えた。


「…余っている部屋が、1人用のものが2つしかないんデス…ソファーも1部屋分しかなくて…」

「ふむ…。」


ヴラド、エマ、そして御者が1人、護衛が2人。
部屋のベッドとソファーを含めても3人分。残り2人分が足りなかった。
御者は馬車の中で眠りますよと早々に辞退したので、エマが床で寝ることにしますと申し出たのだが…


「駄目。エマはベッドを使いなさい。床に寝かせてしまったら私の気分が晴れないのだよ」

「デも…!」


だったら護衛の方の負担になりますと反論するも、護衛たち2人もエマにベッドを使うように勧めてきた。
自分が床に寝るからと申し出たヴラドの意見は、一斉に皆に却下されたが。


「このところのアレでね。ほら、吸血鬼の噂。今まで野宿していた人が流れてきたんだよ……」


微妙な表情で女将が話していた。
早く捕まって欲しいねぇ。と、ソファーに毛布を敷きながら一人ごちている。
毛布を敷き終わると、部屋割りは好きに決めなと言い置いて、満室の看板を掛けに行った。
どうやら問答無用でチェックインが決定されたらしい。


「じゃぁ…エマちゃんは俺と一緒に眠るかい?」


護衛の一人が言った。
もうそろそろ40代になる中年の護衛には、同じ年頃の娘が居る。
クレイアイエル家に仕える人々は子供達を皆、我が子同然に可愛がり育ててきた。
そんな愛情からの言葉だったのだろう。


「…いいのデスか?」

「ああ。窮屈だろうけど、エマちゃんなら細くて小さいし、大丈夫かなと…」

「ええー、身体の大きさで言ったら、おじさんより僕の方が丁度いいんじゃ…」


もう一人の若い護衛も参戦する。
若干顔が赤いのは、下心があるからなのか…
間に挟まれたエマは、おろおろとするばかりであったが。


「駄目だ。」


不機嫌そうな声が会話の中に割って入った。
声の主は勿論、彼らの主人、ヴラド=クレイアイエル伯爵。
ヴラドはエマを引き寄せて、腕の中へと閉じこめた。


「あ、ああ、あの……旦那様?」

「エマは、私と一緒だ。お前達には、やらん。」


手を出したらどうなるか解っているだろうなと睨みを効かせ、エマを抱えて一人部屋へと消えていった。
残された護衛達は呆然とその様子を見ていたのだが、しばらくして中年兵士は豪快に笑い出した。
相変わらずの過保護ぶりだなと、可笑しそうに。
若い方の兵士は、何が起こったのかと青白い顔で訊ねた。


「おや、お前知らなかったのか。クレイアイエル家の中では有名な掟なんだけどなぁ」


無闇にエマちゃんに手を出すと、番犬以上に恐ろしいモノが噛みついてくるってことだよ、と、中年兵士は笑った。


「…ヒツジを守るオオカミ?」

「いや、ウサギを守るドラゴンだな。ドラゴンは、宝物を手放さないだろう?」



──例えは例えでしかなく、現実はそれ以上の悪魔なのかもしれないけれど





【 to be continued... 】


※この小説は「DARK KINGDOM2 潤さん補完計画 保存版」サイト様の情報を元に背景を構成しておりますが、「フェル中央治安局」というものは、私が勝手に創った機関ですので、ご注意を。

●第5話『鬼』

2005-09-07 | 『紅き瞳の吸血姫』
●第5話『鬼』


----- 1 -----

昨日の快晴とは打って変わり、今日は朝から雨模様だった。
風の強い日の雨は、きっと昼近くまで続くだろう。
山の天気は気まぐれに移ろいやすいと言うが、そこに暮らす者は大体の予想を肌で感じることができる。
しかし、それを感じることができたとしても、それは大した問題ではなく、ただ自然の気紛れへの付き合い方を学ぶ方が、自然の中で暮らす者にとっては重要なのである。

自然の摂理を学び、この天地を構成する全てのものを知るということは、魔術の基本だ。
そうした知識を得ることで、魔術という曖昧な存在を、より確かなものとして己の中へと受け入れることができるのである。
しかし、自然の摂理を曲げてしまうと、己ばかりか世界にまで影響を与えてしまうのだ。
それは禁忌であり、世界はそれに激しく抵抗を示す。

過去に世界を得ようとした者や、滅びの道を目指さんとした者、あるいは純粋な興味においてその道を目指した者がいた。
彼等の存在と意志は、現在を生きる者の瞳にはどう映るのだろう。
禁忌に触れた者の末路は、必ず破滅へと向かったと、文献の中の一節のみが語る。

今も存在し続けるこの世界は、彼等の行く末を知っているのだろうか。
伝え聞くだけの我々の目には、何も映らない。
ただ我々が為すことは、自然の摂理を知ることのみ……。


「だから、しっかりお勉強しマシょうね、レクター様!」


本日のレクターのお相手は、エマ=クレイアイエル 14歳。
二日酔いに悩まされていたにも関わらず、そんな素振りは微塵も見せない。これも、女中頭特製の(すごく苦い)酔い覚ましのお陰だ。
さらにもう一つ、彼女を元気にさせているものは…


「それでは、始めましょう。用意はいいですか?」

「ハイ!」

「………………パリス?」


口を開けたまま驚きを隠せないレクターに対し、浮かれるエマ。
銀フレームの眼鏡をかけた目の前にいる妙齢の男性は、鳶色の瞳を細めて笑っていた。琥珀色の髪が眩しい本日の講師は、パリス=V=クレイアイエル。
ヴラドの執事であり……エリカの実父だ。

学者であり冒険家でもあった彼は、世界や自然の原理に秀で、講師としては申し分ない人物だ。
そう、知識と能力は申し分ないのだが…


「ビシバシ、いきますからね?」

「ハイ!」


眼鏡の奥が怪しげに光ったように見えるのは気の所為だろうか。
レクターは目に見えて怯えている。
エリカの実父なだけあって、パリスの教育もやはり…スパルタだ。
そんな彼の授業を嬉しそうに受けているのは、この屋敷の中ではきっと、エマぐらいかもしれない…。


(これもオシオキの一環なのかな…)


レクター=クレイアイエル 7歳。
「甘やかしてはいられない」とされた時より若干半日で、諦めの境地に達していた…





----- 2 -----





「も…ちょっと、休憩しない?」

「それでは、『魔法と精霊の因果関係に関してのまとめ』を答えてから、休憩にしましょう」


勉強を始めてから小一時間以上は経過しただろうか。
すでにレクターはぐったりしている。
人並み以上の集中力を持つエマも、少し疲れ気味だ。

それを察していても、手を抜くことのないパリスの授業は、きっとまだ今日のノルマの半分も終わっていないだろう。
駄々をこねるレクターの相手と、勉強熱心なエマの質問とを繰り返しているうちに、時間が経過してしまうのはいつもの事だが…。


「では、レクター様、どうぞ」

「ぇと……魔法は、6つの元素が中心で、精霊は自然を司っているから、ええと……自然界のバランスを壊さずに魔法を使うには、精霊の力を借りるのが一番いい方法、です」

「何故、精霊の力を借りると、バランスが崩れないと言えるのか、もです」

「…ぅぁ……わ、かりません」


パリスがそれを説明する時に書き込んでいたボードは、後からの情報に塗りつぶされるようにして、もはや解読不可能になっている。
きちんとノートを取っていれば答えられたかもしれない質問だったが、レクターのノートは途中からわけのわからない線がのたうつだけの代物になっていた。


「では、エマ。答えなさい」

「ハイ。…そもそも魔法には人それぞれが持つ属性と密接な関係がアリ、その属性というものには、その人につく守護精霊が関係していると言われていマス。属性は血縁に関係があるという説が一般的になっていマスが、その説は…」

「…中には精霊を持たない者もいるから、完全には証明されていない。その点はいいから、魔法に話を戻して。」

「ハイ…。魔法の得意不得意に関しては、己の持つ属性を中心としていマス。よほどの熟練がなケれば、五行において対になる属性魔法を習得は難しく…」

「論議がずれているよ」

「ハイ…すみまセン…」


パリスの授業は好きだが、何度も間違えた答えを出すと、気が滅入る。
エマは、思わず溜め息をついてしまった。
滅多なことでは諦めないエマだが、今日は少し弱っている。
そんな珍しい姿に、レクターは笑みをこぼした。


「おや、レクター様、笑う余裕があるようですね…」


ギラリと目を光らせるパリスに、後から青ざめることになるのだが…。
休憩時間になるまで、みっちり30分の補修。
それでは30分の休憩をと言い残し、パリスは部屋を出ていった。


「つ…疲れたよ〜〜〜…」

「そう…デスね。」


レクターはぐったりと机の上に身を預けて呟くレクターに、今日ばかりはエマも心から賛同した。
彼女は席を外していたので知らなかったのだが、今朝の食事の席でヴラドが宣言したのだ。本日から、レクターをクレイアイエル家の直系として恥じないよう、一段と教育に力を入れることを。
それをパリスが実行した結果、エマにまでとばっちりが行っているのも、きっとヴラドの予想内のことだろう。


「おやおや…2人とも、もうお疲れかい?」

「お茶にしましょー♪」


クスクスと笑いながら部屋に入ってきたヴラドは楽しそうだった。
後ろには紅茶とお菓子をトレイに乗せたエリカの姿も見える。
やった! と歓声を上げたレクターが駆け寄りエリカを引っ張るので、バランスを崩しそうで危なっかしかった。


「レクター。危ないから邪魔しないように」

「…はぁぃ。」


案の定ヴラドに窘められ、しぶしぶと席に着くレクターは、やはりまだ子供だという事を見せてくれる。
早く早くと急かすように、テーブルをぱたぱたと叩いていた。
お行儀が悪いと注意されても、一向に直らないのだが、これは大人たちが辛抱強く教えていくしかない。
そのうち自分でもわかってくれるだろうと期待を込めつつ、ヴラドも席に着く。

お茶をいれるのはエマの仕事だ。
エリカでもいれる事はできるのだが、どうしてもエマのような美味しい紅茶にならない。
エマの手には魔法がかかっているんだよと、エリカはいつも言っている。それは、美味しくする為の細やかな手間を惜しむか、そうでないかの違いなのだが……基本的にエリカは手先が雑だった…。





----- 3 -----





「できマシた。どうぞ。」


ことり、と置かれたカップからは、ほどよく甘い花の香りが漂う。
今日の紅茶はジャスミンティー。
お茶請けはドライフルーツとチョコレート。
そしてクリームをたっぷり添えたジャムクッキー。
美味しそうに食べるレクターを見ていると微笑ましい。


「そういえば、お父さんの授業は相変わらず?」


レクターにクッキーのお代わりを取り分けながらエリカは尋ねた。
父であるパリスは、クレイアイエル家の中を取り仕切り、ヴラドの補佐も勤め、さらに学者としての研究も怠らない多忙な生活をしている。
きっと今は書斎でレクターの教育カリキュラムを見直している事だろうが、本来ならばどこかの大都市で教鞭を振るっていてもおかしくないほど、彼は知識に秀でていた。


「ええ、勿体無いぐらい丁寧に時間を裂いてもらって…ちょっと申し訳ないデス…」

「もうちょっと簡単なのでいいよ…パリスは鬼だ。」


苦笑しながら答えるエマの後に、眉根を寄せるレクターの言葉が続く。
レクターは、パリス親子がとても苦手のようだ。
いつもいつもスパルタで教え込まれることは、もう嫌だと言ってもそれを許さず、気力と体力が尽き果てるまで続けられるからだ。
それは、いつも言い付けを守らず、授業をさぼって屋敷から抜け出そうとする仕置きとして、割り増しでレクターに降り掛かってくる、いわゆる自業自得というものだったが。

そのうち慣れるよ、とヴラドは苦笑して諭す。
彼もその昔、パリスのスパルタ授業を受けた1人である。
その頃は恨みもしたが、叩き込まれた知識は今もなお頭に染み付き、現在の自分を助けているからだ。
厳しいしつけと、その中にある愛情は、大人になってからでしか気付きにくいものである。
兄上はわかってないよと、レクターは一人ごちた。


「それにしても旦那様、今日はどうされたのデスか?」

「…ん?」

「その…お早いお帰りデしたので…」


レクターが嘆いている姿を余所に、エマは先程から持っていた疑問を尋ねていた。
辺境伯ではあれど、ヴラドは爵位を持つ身。
毎日村を治め、下流の街との交流を図り、ディアス戦役を終えた後は各国家へと赴き世界の情勢を見にゆく事もある。
昼間はその姿を見ることが少なく、家の中でも常に書斎に篭っている事の多いヴラドが、こんな午前中に和やかにお茶を楽しんでいて良いのだろうか…


「今日はフェルの外交大使と会談する約束だったんだけどね、何か身内に不幸事があったらしくてね。中止になってしまったよ」

「そうだったんデスか…」

「午後からもしばらく家に居るから。何かあったら言っておいで」

「…?」

「例えば、レクターがまた何か悪戯したらね」


クスクスと笑うその顔は、瞳だけが笑っていない。
さっと青ざめたレクターの姿を視界の端に捕らえたエマとエリカは、またレクターが何か良からぬことを考えているのではと思ってしまった。
気を付けなければと意気込んでいる2人ではあるが、ヴラドに睨まれた時点で、子供の拙い計画は闇に葬られていることだろう。
ヴラドは念を押すようにニヤリと笑う。


「ほ…ぼく、ちょっと、用事を思い出した!」


転がるように走り去るレクターは何処へ行くのだろうか。
慌てて追い掛けようとしたエマを、ヴラドが制す。
大丈夫だよと、彼は笑った。
きっと何かしらの罠……いや、策を前もって用意してあるかのごとく。


「さて、私もそろそろ失礼するよ。パリスが戻ってくる頃だ」

「あ……ハイ、いってらっしゃいませ」

「それじゃ、私も片付けてくるね。お勉強、頑張って」


テーブルを片付けたエリカとヴラドは部屋を出ようとする。
もう、扉の外までパリスが来ていたようだ。
お父さん! と叫んで、エリカが駆け寄っていった。


「ああ、そうだ、エマ…」

「何デしょう?」


扉に手をかけていたヴラドが、引き返してくる。
何か用事でも思い出したのかと、エマは駆け寄った。


「クリーム、ついてるよ。」


ふわり、と、頬をやわらかな黒髪が掠めてゆく。


「……ごちそうさま。」


とびきりの笑顔は、甘い甘い食後のデザート。
真っ赤に熟れたリンゴは、ただその場に佇むのみ。
扉の外には、エリカの嬉しそうな声と、パリスに捕まったレクターの騒ぐ声。遠ざかってゆく足音…


鬼の居ぬ間に一時の休息を。それ以上の存在とともに──





【 to be continued... 】

●幕間『満月の呪い』

2005-08-29 | 『紅き瞳の吸血姫』
●幕間『満月の呪い』


----- 1 -----

「エマは余計な事を考えすぎるの。もっと気楽に生きなきゃ」


カリカリのトーストに、ふんだんにジャムを塗りながら、エリカは言った。
あのトーストは、今の私には食べられないだろうなと、ミルクを飲みながらエマは思う。

二人はキッチンの隅に備え付けられた使用人用のテーブルで朝食をとっていた。旦那様とレクター様は、別室の食事用の広間にいらっしゃる筈だ。
いつもならエリカやエマや執事など、他の使用人たちも同じ食卓につくのが、名家らしからぬクレイアイエル家の方針だ。
二日酔いの残るエマを見兼ねて、いつもは厳しい女中頭も旦那様にお小言を言ったらしい。
未成年に飲酒を薦めるとは何事かと。

そうして今日の朝食はエマは席を外していた。エリカはそれに付き合っている。


「女中頭が庇ってくれるのって、めったにない事だよー? いつもならお小言ばかりなのに」

「デも…飲み過ぎたのは私の責任デ……」

「それ以上言ったら、本気で怒るよ?」


エリカは、苦笑して言った。
いつぞやの旦那様の真似をしたらしい。
薦めたのは旦那様。エマは逆らえない。よって、エマは悪くない。
そういう方程式が、彼女の頭の中にはないのだろうかと、いつもエリカは不思議に思っていた。
むしろ甘やかされることによって、図に乗ってしまうぐらいの破格の扱いなのに。


(そういえば……エマは……)


ふと、エリカは昔を思い出した。





----- 2 -----





私の母とエマの母は双子の魔女だ。
その2人を産んだのが、今は無き祖母ローゼリア。
自分達の生まれる前に亡くなってしまったので、私達がその姿を見ることは叶わなかったが、祖母は常に控えめで責任感の強い女性だったと母に聞いたことがある。

クレイアイエル家で祖母の名が禁忌とされたのは、大旦那様の前妻だったからだ。
身体が弱く、流行り病で亡くなってしまったらしいが、死してなお大旦那様の心に残り続けるローゼリアの存在を、後妻が疎ましく思ったらしい。遺児である母達にまで手をかけようとした後妻は、大旦那様によって幽閉され、その後母達は祖母の故郷である魔女の森に引き取られた。丁度、私達と同じ年頃だったと聞く。


私達は、魔女の森で生まれた。


母達はそれぞれパートナーを見つけた。
私の母は、魔女の森へと同行してくれた冒険者と。エマの母は……後妻の仕打ちを申し訳なく思い、謝罪しに通い続けた、後妻の弟と。
どちらも大旦那様の若きご友人だったらしい2人は、魔女の森から反感を買うも、母達を深く愛していた。


   愛しているのに、どうして離れなければいけないのだろう。


私達が生まれて間もなく、エマの両親が亡くなった。
満月の夜、突然の病で為す術もなかったらしい。
私の両親が、エマの親代わりになった。
時を同じくして、大旦那様の後妻も亡くなったらしいと、風の噂で聞いた。

エマの両親が亡くなった頃から、魔女の森に不穏な噂が広がってゆく。
クレイアイエル家特有の肌の弱さは、エマだけに表れた。
後妻の呪いだと人々は噂する。
私は無事なのに。
今度はエマが病に伏せた。
また、満月の夜だった。
私は無事なのに……。

エマの息が、どんどん浅くなってゆく。
赤い満月が、闇夜に浮かぶ。
どうか雲よ、あの月を隠して…
エマを連れていかないで──




大旦那様が駆け付けた時には、もう駄目かと皆が絶望するぐらい、エマの命は消えかかっていたと思う。

「助けて…エマを助けて……おばあさま…」

私は祈りを捧げた。
何故、おばあさまに祈ったのか、今でもわからない。
けれど、おばあさまに祈った。




その時、風が凪いだ。
音も無く立ち篭めた霧は深く、無気味なほど夜空に居座る満月をおぼろにする。
月の姿が見えなくなった時、大旦那様が涙を零したのを、見てしまった。


ローゼリア…


大旦那様が呟いた。そして皆がおばあさまの名前を口にしたのは、その時が最後だった。
おばあさまの名前を決して口にしてはいけないという暗黙の掟が、クレイアイエル家の中で生まれたのは、その時からだ。
決しておばあさまが悪いわけではない。
その名に染み付いた忌わしい呪いを、決して揺りおこしてはいけないのだと父は言った。

エマはその後持ち直し、霧の館に引き取られた。
年中霧に覆われたクレイアイエル家に、月の光が届くことは少ない。
私は正直、呪いなんてものが本当にあるのかなど、わからない。
大人達が無駄に敏感すぎるだけかもしれないとも思う。

でも再び、エマの命が消えてしまうような事があればと思うと怖くなる。
太陽の光も、月の光にも怯えるエマ。
双子に呪いが移らないよう、私の母は魔女の森に匿われたまま…
父と私だけが、クレイアイエル家に移り住んだ。


愛しているのに、どうして離れなければいけないのだろう。


愛しているからこそ、離れる時もあるのよと、母は悲しそうに笑った。


「エマを愛してあげて。守ってあげて。
 あの子は母に似ているから。きっと、思いつめてしまうから」


だから私は、エマと共に在る。
私には、父も母も居る。エマも私の家族だ。
旦那様やレクター様は、後妻の子供だけどいい人達だし。
もちろん、おばあさまも守ってくれると思う。

過去だ何だ。
呪いが何だ。
愛おしい人たちが共に在ることができるように、私は頑張るの。
かかってきなさい、でっかい満月。
エマを連れていったら許さないんだから!



……ああ、でも、私のところに来たら、



それはそれで……怖いかな…。

●第4話『夜明け前』

2005-08-29 | 『紅き瞳の吸血姫』
●第4話『夜明け前』


----- 1 -----

ぬばたまの闇夜に浮かぶ月が、安らかな息吹の上に明かりを灯す。
月は、闇の住人をも等しく照らし、力を与える。
憎くも愛おしい金色の光を一身に浴びてひっそりと輝く月の姿は、闇の住人にとって、太陽を垣間見る事のできる唯一の輝きであった。


『 今宵も、月は美しい… 』


絨毯に広がる月明かりは、窓枠の形に切り取られたかのように、その部分だけを紅く浮き上がらせている。
窓際に近付く黒い影は、その明かりを喰らうかのように、浮き上がる紅色を侵食した。
闇の住人は、その名に似つかわしくない白い腕で少女を抱き、長い廊下を歩いてゆく。

少女の髪が陶磁のような頬から一房こぼれ落ち、光を吸い込んで淡く輝いていた。
うっすらと紅い頬と穏やかな寝顔は、この少女がまだ14歳のあどけない子供だという事を、かろうじて思い出させてくれる。
他の者は何と思うのだろうか。
皮肉気な笑みを浮かべる影は、愛おしむようにそっと少女を抱き締め、唇を寄せた。


『おやめなさい』


突然、険を含んだ声が静寂を切り裂いた。
妙齢の女の声だ。
廊下の向こう側、窓から差し込む光と、動くことのない妙なる闇との間にその女の気配を感じ、闇の住人は足を止める。

獰猛に光る金色の瞳が、きつくこちらを見据えていた。
隠すことのない殺気が射抜かれた者の肌を刺す。
しかし相手はさらりとそれを躱し、腕に抱く少女が目覚めていない事を確認すると、素早くその瞼に口付けを落とし、さらなる深い眠りへといざなった。
不快な殺気で少女の眠りを妨げることは、不本意な事だと言わんばかりに。そして、その不粋な妨害者に、見せつけるように。


『おやめなさいと言っているでしょう! ヴラド!!』


闇に溶け込む妨害者はさらに声を荒げたが、少女を抱きしめる彼──ヴラドは、眉ひとつ顰めずに、しっかりと少女を抱え直した。


「今宵はまだ上弦にもなっていないというのに…気の早いお方だ」

『戯れ言を…。月など無くとも、わたくしは…』

「出てこられるとでも?」


わざわざ御苦労様なことだとヴラドは笑う。
緋色の瞳が一瞬、血のような深紅に塗り替えられた。


『…………っっ!!!』


どこからもなく風が吹き、闇夜に暗雲を運ぶ。
闇が深くなったかと思うと、空に浮かぶ月が霞んだ。
その光が弱まってゆくと共に、女の気配まで弱々しいものへと変わってゆく…


『…忌々しい…! 穢れた血が!!』


女は忌み言を残し、やがて霧散した。
残るのは常闇……いつの間にか、月は厚い雲に覆われ、その光が地上に届くことはなくなっていた。
暗黒の空を眺めるヴラドは冷笑を浮かべ、少女を抱きかかえながら闇の中へと消えてゆく。


「貴女に愛されなくとも、何も変わりはしない…」


闇はただ己が望みを果たすのみ。
月の光が暴くのは、ただほんの表面にすぎないのだから…





----- 2 -----





ズキ……ズキ………


瞼の裏が、熱く鼓動するような。
眼の奥から、何かがせり上がってくるような。
鈍い、痛み。
張り付いた喉の奥が、水分を渇望して、ひりひりと痛んだ。


エマが目覚めた時、そこは見慣れた自室だった。
ズキン、と頭が痛む。
そういえば昨夜は旦那様に薦められて、慣れないワインを飲んだ事を思い出した。
自力で部屋まで帰ってきた記憶はない。
ということは、旦那様がここまで運んでくれたのだろうか。


(うぅ……失態デス……)


まさかとは思ったが、潰れてしまったという事実がエマの責任感を押し潰していった。
しかも、まだ、酒が身体に残っているようだ。
今日の仕事にも響くかもしれない…


(何とかしないと…)


動くたびに鈍く痛む頭を押さえ、枕元にある水差しから水を酌んだ。
キンと冷えた氷水が、張り付く喉を潤してゆく。
ふぅ、と一息ついたところで、ふと気付く。


…氷水?


普段、水差しは眠る前に自分で用意するものだが、昨夜の自分がそんなことをした覚えはない。
ましてや自分は、氷など、入れておかない。

さっと顔が青ざめた。


(…旦那様が、わざわざ…?)


違う意味で、頭が痛くなる。
エリカが聞いたら、旦那様はやっぱり過保護だねーと笑うだろうか。
エマにしてみれば、不本意極まりないのだが…。

昨晩、旦那様は、レクター様を甘やかせない分、誰かを甘やかしたいとおっしゃっていた。これはきっと、その一環なのだろう。
しかし自分は、クレイアイエル家と繋がりがあると言えど使用人で、そこまでしていただくような者ではない。畏れ多いことだ。
旦那様が相手をするべき、相応しい相手は他にも大勢…

………大勢?


この村は、クレイアイエル家の取り仕切る場所で、村長をはじめ、旦那様に並ぶ方達は皆、大人ばかりで…。
「甘やかす」という対象にはならないという事に思い当たった。

では、子供ならば……と、考えを廻らせてみるが、それだと自分と同じような使用人の子供や、普通の村の子供ばかりで…

結局、思い当たるところは、子供であるエマが甘やかされても、エマが文句を言うことは、まかり通らなくて。


(私………贅沢者デス…)


結局エマは、この問題は頭の中から追いやることにした。
自分が甘えなければいい事だと。


「…がんばりマスっっっ!」


声に出して気合いを入れる。
クラリ、と頭がふらついた。


「何を頑張るの…?」


なかなか起きてこないエマを呼びにきたエリカは、ベッドの上で頭を抱えてうずくまるエマを見つけて呆れていたとか……。



夜明けは過ぎた。そしてまた、1日が始まる──





【 to be continued... 】

●第3話『刺さる棘、甘い毒』

2005-08-24 | 『紅き瞳の吸血姫』
●第3話『刺さる棘、甘い毒』


----- 1 -----

クレイアイエル家の3階一番奥にヴラドの自室はある。
昼間だと言うのに部屋のカーテンは閉められ、その部屋の空気はどこにも漏れまいとして淀んでいるようだ。
時折、蝋燭の炎が弱々しく揺らめき、部屋の全ての空気が燃え尽くされているような息苦しさを錯角させる。いつもなら足音を柔らかくしてくれる床の赤い絨毯も、身体を飲み込んでしまいそうだった。

その中央にあるソファーに、憮然とした表情のエリカ、バツの悪そうに目を逸らすレクター、そして青ざめて小刻みに震え続けるエマが並んで座っていた。


「どういう事か、説明しなさい」


目の前にいる青年からは、容赦無いほどの圧迫感を感じる。
めったに怒らないと言われているこの家の主、ヴラド=クレイアイエル伯爵だが、いつもは微笑みに彩られているその顔に表情はなかった。


「私たちがついていながら、申し訳ございませんでした。」

「申し訳ございまセンでした…!」


エリカが立ち上がり、深く腰を折った。慌ててエマもそれに続く。
奥歯を噛みしめて、歯が鳴るのを誤魔化しながら。
しかし、ヴラドの視線の先に居るのは謝罪する2人ではなく、悪びれた様子もないレクターの姿だ。
今だに黒い布を身体に巻き付けたまま、足をかかえてソファーに座っている。
ヴラドとは視線を合わせないように明後日を向いたままの彼の姿からは、まるで反省の色など窺うことができなかった。


「レクター」


今度は名指しで注意を促される。
逃れられる筈もないとわかっているのに、頑なに反抗し続けるレクターは、まだまだ子供だ。
悪い事をした自覚があるのに、それを頑なに認めないという事は、相手の怒りをさらに煽ることになるというのに…。


「…地下室へ」


無表情の中に、鋭利な冷たさが生まれる瞬間。
頭を下げているために、エリカとエマの目には見えないが、空気の温度が変わるのを肌で感じた。
その空気に気押されたのか、言葉に臆したのかはわからないが、レクターが目に見えて動揺するのも感じた。


「や……ヤダ! あそこは嫌だ!」


狼狽えながら逃げ出そうとする彼を、巻かれたままの黒い布が邪魔をする。
足がもつれてソファーから転がり落ちた。
慌てて助け起こそうとするエマをエリカが制し、その間にヴラドはもがく黒い塊を抱き上げた。


「離して! ごめん! ごめんなさい……助けて!エマ!エリカ!」


暴れるレクターを肩に担ぎ、ヴラドは部屋から出ていった。
呆然とするエマを余所に、エリカはほっとしたように息を吐く。
助かったー、と呟いたエリカに、藍色の少女はぎょっとして振り向いた。


「ど、どうしマしょう! 坊ちゃま…地下室へ…!」

「何慌ててるの? いつものオシオキじゃない」

「デも…!」


取り乱すエマに、エリカは訳がわからないという顔をする。
恐らくヴラドは経緯を知っている。エリカには確信があった。
ヴラドの持つ類い稀なる観察眼は確かなものだ。
そうでなければ、いくら小さな村とは言えど、21という若い歳で当主としてやっていける筈がない。誰も異を唱えないのは、彼に力があるからだ。

その彼が使用人である自分達を責めず、レクターだけに怒ったのは、事の顛末を全て把握した上で、レクターに自分から反省させようと思ったのだろう。
別々に呼ばれる事なく、3人まとめて部屋に呼んだのは、いつまでも甘えるレクターに「助けてもらえない」事を教えるためだと、エリカは話した。


「デも…それは、エリカの考えデしょう? 旦那様は…」

「エマは何事も深刻に考え過ぎだよ? そもそも甘やかしちゃいけないって、旦那様も言ってるじゃない」


レクター様のためを思うなら、ここは厳しくしないといけないでしょ、と諭され、エマは先程自分もそう思っていた事を思い出した。
自分を守るために自ら行動を慎むことは、甘やかされる環境の中では培えないと。


「そう…デスね……。坊ちゃまの為デスよね…」


自分に言い聞かせるようにエマは呟いた。
そう、全ては坊ちゃま…レクター様の為なのだと。

そうしてエリカと共に部屋を出た。
自分たちのすべき事は、まだまだ沢山ある。
時には心を鬼にして。
しかし、胸の奥には棘が刺さり、心は涙を流すのだ。
ごめんなさいと謝りながら…。





----- 2 -----





レクターの様子が気になる。
そういってエマは、夕食後にヴラドの部屋を訪れていた。
昼食前に地下室へ連れられていった筈のレクターが、自室に戻っている気配がない事が気にかかっていたのだ。


「坊ちゃま…いえ、レクター様は、どうなりマシた?」

「…おや? もう「坊ちゃま」は卒業かい?」


クスクスと笑いながら、ヴラドはワインを傾ける。
一杯どうだい? と薦めてきたので、未成年ながらもエマは相手をしていた。
ちびちびとグラスを舐めつつ、「そうデス」と応える姿に、ヴラドは笑う。昼間には見られなかった微笑みも、今はもうすっかり元に戻っていた。


「それよりも、レクター様は…」


どうしても気になって仕方がないようだ。
何度ヴラドが誤魔化してみても、一向に引こうとしないエマに、しょうがないなとヴラドは折れた。


「大丈夫、一晩頭を冷やしたら、明日の朝には出してあげるよ」

「そう…デスか…」


7歳の子供が地下室にたった1人で置かれている状況を可哀想に思うが、この仕置きはクレイアイエル家の子供に対する躾の中で普通に為されている事である。
実際にエリカやエマも、悪戯をした時や嘘をついた時などは、地下室に閉じ込められたものだ。

蝋燭すらない闇の中で、ひたすら扉が開くのを待つだけの状況は囚人のようで、大人でも精神的に参ると言われる。
そうして放り込まれた者は、出してもらえた後に何が悪かったのかを自分の言葉で喋らされ、答えられないと再び地下室へ逆戻りになる場合すらあるのだ。
レクターは過去に2度入れられた事があり、その度に泣き叫んでいた。
しかしそれは昼間の数時間で、一晩をあの部屋で過ごすのは初めての事だろう。

お可哀想に…と思ったのが表情に出ていたのか、ヴラドが苦笑した。


「エマは本当にレクターの事ばかりだね。いつも言うことだけど、エマやエリカの責任ではないんだよ?」

「デも…」


悲壮な表情のエマに、ヴラドは眉根を寄せてその先の答えを促した。


「レクター様が初めて脱走された時、側にいた家政婦にも責任があると…大旦那様が……」


それを聞いて合点がいったらしい。
そうかと呟いて、ヴラドはさらに眉根を寄せた。


「あの時は仕方なかった。父上の判断は厳しすぎると思ったけれど、太陽の美しさと怖さを知らなかったレクターを、誰もが気にしていなければいけなかったんだ。だからあれは皆の責任だと私は思う」

「………。」

「でも今は、レクターもその怖さを知っている。知っていても好奇心が押さえられないのは子供だから仕方がない。でもね、エマ。レクターは仕方がないで済ませてしまったらいけないんだ」


クレイアイエル家の直系の子供は、ヴラドとレクターの2人だけだ。
辺境伯であって、この村の中では比較的普通の暮らしをしているが、オルフ王国時代には結構な勢力を誇っていたらしい。
今でこそ歴史の中へと埋もれてしまい、その存在すら知らない人の方が多くなっている現在でも、村の人々はその血筋を重んじているのだ。


「だから私達は、レクターに教える。もう甘えてはいられない事を。そして今まで甘やかしてしまった責任は、それぞれの心の痛みでもって償うしかない……私も含めて」

「ええ……その痛みを受ける事に異論はありまセン」

「いい子だ。」


にこりと微笑んだヴラドは、残りのワインを一気にあおった。
そしてもう一杯注いでくれないかと、エマにグラスを掲げてみせる。
エマはワインの瓶を持ち、ヴラドの隣へと腰を降ろした。
並々と注がれてゆくワインはグラスを深紅に染めてゆく…


「エマも、もう少し付き合ってよ」

「え…と、その…」

「私はね、エマ…厳しくするのは苦手なんだ。レクターの事だってそうだけど…」


薄らと目尻の下が赤くなっているようだ。
酔っているのかもしれない。

ヴラドはエマの口元にワイングラスを近付けた。
ワインの香りの中に溶け込むアルコールでクラクラする。
半ば無理矢理ワイングラスを持たされたエマを横目に、ヴラドはもう一杯手酌でワインを注いでいった。
乾杯、とグラスを合わせ、またワインをあおるヴラドに吊られ、エマもグラス半分ワインを飲み干した。


「レクターを甘やかせない分、誰かを甘やかしたいんだ…」


ワインの所為で赤くなったエマの頬に手を添えると、さらに頬は紅潮する。抵抗できずに狼狽える様が、肉食獣じみた本能を刺激する。
頭を撫でてやると、少しほっとした表情に戻る。
そんなエマの様子を楽しみながら、2人で1本のワインを空けた。

ぐらぐらと回る世界の中、かろうじて意識を保っていたエマも、温かい手のひらの温度にやがて深い眠りに落ちてしまう。
飲ませすぎたかと苦笑したヴラドは、その軽い身体を抱きかかえ、やわらかなベッドの上へと横たえた。

ごめんなさい、とエマは呟く。
夢の中でまでレクターに謝っているのだろうか。
眉間に少し寄った皺を撫でると、やがて落ち着いたように安らかものへと変わっていった。


「おやすみ、エマ…」


毛布とともに、柔らかな口付けを落とす。
額に、頬に、唇に…


『傷付く必要はないんだよ……私以外の者の為には…』


その口付けは、知らぬ内に頑なな心を溶かしてゆく甘い毒──





【 to be continued... 】

●第2話『雲の絶え間に』

2005-08-22 | 『紅き瞳の吸血姫』
●第2話『雲の絶え間に』


----- 1 -----

オリエイ高原の霧が晴れることは、年間を通して数えるほどしかない。
オルフ湖で湿気を帯びた風が高原にぶつかり、上昇した空気が露点に達して発生する雲が、常に高原を包むように張りついているからだ。
ただ、年に1度の乾季やフォーゼ海上で凪が続く時、山頂以外の霧が晴れ、しっとりと緑をたたえる山麓が姿を現す。
普段は霧で光を散乱された薄暗い村も、この時ばかりは燦々とした太陽の光を見ることができるのだ。


「お洗濯日和デス~♪」


クレイアイエル家の裏庭で、何十日ぶりかの快晴に深紅の目を細めながら、青空を見上げている2人の少女がいる。
ゆるやかに巻かれた藍色の髪の少女エマと、金色に輝く猫っ毛の少女エリカ。
2人はおそろいの黒いワンピースに白いエプロン姿。
スカートの長さは、エマの方は膝下で、エリカはミニになっているが…。

2人は次々と洗濯物を干していく。
真っ白なシーツに青いシャツ、淡いピンクのワンピースに黒いスラックス。
色とりどりの洗濯物を鼻歌混じりに広げていた。


「エマ~~~そっち終わったぁ~~~?」


声だけでも、その快活さが分かると評判のエリカが声を上げた。
どうやら干し終わったようだ。
手先が少々不器用なのか、シワがとれていない箇所が所々に見えたりするが、後からアイロンをかけるのだからと本人は何も気にしていない。


「ちょっと待ってくだサ~イ! あともうちょっとデス~」


洗濯物に隠れて姿が見えないが、鈴を転がしたような、それでいてちょっと頼り無く細いエマの返事は、無事エリカに届いたようだ。
わかったー手伝うー、と声が返ってきてからしばらくして、シーツの下からひょっこりエリカが出てきた。


「うわ、相変わらずマメだね~…」


干している時に汚れが落ちていない箇所に気付いたらしい。
必死に石鹸を塗り込んでいるエマを見て、エリカは溜め息をついた。
どうやらこの家の末子、レクターのシャツについた食べこぼしのシミのようだ。
7歳にもなって行儀が悪い。しかしエマは、躾ができていないのは自分の責任と思い込む性格のようで、怒られるべきは自分だと考えている。
しかし、できれば怒られたくない。故に、証拠隠滅。
こうやって毎日エマは家事に奮闘するのだ。


「シミを消すのは仕事のうちだからともかく…」

──旦那様はお優しいから、エマは別に怒られないと思うんだけどなぁ…


実際に、クレイアイエル家の当主であるヴラドはそんな事で怒りはしないし、叱られるべきは専門の教師や、何よりレクター本人なのだが。
エリカが残りの洗濯物を、ちょっとシワを伸ばし忘れつつ干し終えたところで、エマの証拠隠滅作業が終わったようだ。何かをやりきった時の充実した表情になっている。


「完璧デス。」

「…………。」


エリカは、もう一度溜め息をついた。





----- 2 -----





燦々と日光が照りつける日は、レクターは逃げ出したりしない。
それがクレイアイエル家の暗黙の了解だ。
いつも元気に動き回っているレクターだが、彼は生まれつき肌が弱く、長い時間強い陽射しに当たることができないのだ。
霧の隙間から漏れる柔らかな光ならば問題ないが、今日のような青空が見える日に外に出てしまうと、ものの10分ほどで皮膚が焼けただれてしまう。
クレイアイエル家の血に遺伝する特殊な症状だが、特に直系の者には必ず表れる。
エリカは問題なかったのだが、エマやヴラドは幼い頃に同じ症状で苦しんだ事があった。
成長すると共に皮膚も強くなり、よほど陽射しの強い所でなければ、少し赤くなるだけで済む。

しかし幼い頃は、カーテンの隙間から外を見て思ったものだ。



   自由に外に出たい…──



物心がついて、好奇心旺盛になった5歳ごろ、レクターは初めて家の中から抜け出した。
洗濯をするために家政婦が開けてあった勝手口から…。

レクターは初めて見てしまったのだ。
扉から漏れるまぶしい光を。
いつも閉められているカーテンの外の景色を。
そして、霧の向こうに広がる雄大な青い空を──

「私も子供の頃は感動したものだよ」と、今でこそヴラドは笑って語るが、当時は大惨事だったのだ。
家の中にレクターがいないと皆が気付いたのは、庭師が真っ青になって馬小屋の片隅に倒れていたレクターを叫びながら担いできた時だった…。

室内で過ごすために羽織っていた白く薄いシャツは日光を遮る事なく肌を突き刺した。
子供の柔らかな皮膚は真っ赤に焼けただれ、一番日が当たっていたらしい左の上腕部の水ぶくれが破れて血まみれになっていた。
すぐに医者と魔術師が呼ばれ、レクターを丸1日氷漬けのような状態にしても、子供の体力ではどこまで保つのか誰もが分からない状態だった。
懸命の処置の結果、かろうじて生き長らえた5歳の子供は再生の魔術を施され、今では傷ひとつない身体になっている。

今ではもう、晴天の日は外に出てはいけない事を学習しているらしい。
いつも黒い服を着るようになり、家の中でばたついている。
……脱走するのは霧の濃い日や、夕方だ。

先日の失態を思い出し、エマは溜め息をついた。


(また、あんな事になったら、この家を追い出されてしまいマス…)


レクターの惨事があった後、数名の家政婦がクレイアイエル家から姿を消した。
今は亡き当主──ヴラドとレクターの父親が、彼女たちに暇を出したのだ。
当時の家政婦達は、村からも追われ、今となっては行方が知れない。
しかし、当時12歳であったエマにとって、レクターに関する失態は村を追い出されることと同義として脳裏に焼き付いてしまった。それは今でも変わらず、エマが一番恐れている事なのだ。


(がんばらなくちゃ…)


こうして、妙な責任感と、レクターに対しては人より若干甘いエマの性格が作られていったのである。
こうなった経緯は、いつも一緒にいたエリカは勿論のこと、現在の当主であるヴラドも知っている事ではあるが…。





----- 3 -----





「ホント、エマはレクター様に対して甘過ぎだよー? いつまでも坊ちゃま坊ちゃまって甘やかしてるから、あんなにワガママしてるんじゃない…」

「デも、坊ちゃまデスし…」

「これからは一人前になってもらうためにレクター様って呼んで、ビシバシ鍛えて差し上げなきゃ!」


ビシバシ……と聞いて、エマは引き攣った笑いを浮かべる。
エリカのスパルタ特訓の方が、レクターの大惨事を引き起こすかもしれない…
少し不安になってくるエマであった。


「さてとー。昼ゴハン! お食事! おなかすいたー!」

「そうデスねー。食べて、昼からも頑張りマ…」

「エマ~~! 見て見て~~~!」


いきなり屋敷の方から子供の声がしたかと思うと、振り返ったエマは硬直した。
黒い塊が窓から飛び出して近付いてくる。
ひょこひょことした動きで近付いてくるその物体の上部には、緋色の瞳が垣間見えた。


「ぼ、、、っっっっ!?」

「ほら見てよ、朝から考えたんだ! これってスゴクない!?」


エマの目の前まで駆け寄ってきた黒い物体は、くるり、と回転した。
足の生えた黒い布──もとい、黒い布でぐるぐる巻きになっている、クレイアイエル家の末子レクターは、目だけで得意気に笑ってみせた。


「ぼ、ぼ、ぼっちゃまー!? 何シテらっしゃるんデスかー!??」

「え……レクター様!?」

「う、うわ! エリカ!?」


シーツが死角になっていて見えなかったらしい。
エマの隣にいるエリカの姿を見ると、レクターは身を翻して逃げ出そうとした。
しかし、布で包まれ動きにくくなっている上、いつもエリカには捕まってしまう。逃げおおせるわけがない。
案の定、首根っこを掴まれて即座に捕獲されたレクターだったが、まだ諦めてはいないらしく、暴れていた。暴れるごとに、頭の方の布がずれていくのだが…


「ちょ…坊ちゃま、布がっ!?」


慌ててエマが布を押さえつけ、2人がかりでようやく取り押さえた。
こんな所を誰かに見つかったらと思うと、ぞっとする。
エマは2年前の出来事を思い出して、身震いした。


「ほらレクター様、旦那様に見つかる前に家に入りますよ?」

「………はぁぃ。」


当主である兄の存在を出されては、レクターは抵抗できない。
エマも何故か硬直してしまうほどに、今はとても、怖い。
早く、早く、坊ちゃまを家の中に入れてしまいたかった。


黒い塊を抱えて、2人は勝手口をくぐり抜け、奇跡的に階段の隅にある死角までやって来れた。
あとは布を剥がして、普通にしていればいい。何事もなかったように。


「……ふぅ。やっぱりこの布は暑いや。でも、エリカの所為で10分以上の実験が出来なかったじゃないか」


と、悪びれることのないレクターに容赦ない鉄拳をお見舞いするエリカ。
これはこれで問題があるのだが、今回はレクターに非があるので、エマも黙っておくことにした。


「もう少し成長されたら、じきに大丈夫になりマスよ?」

「ヤダ。今、外に出たいんだ。」

「ワガママ言わないの!」

「い…………ってーーー!??」


ワガママだとは理解していると思う。エマはそう思っている。
自分も同じだったから。外に出たかったから。
当時、エマも理解はできていた。
しかし子供の頭では納得ができなかった。
何か方法がある筈だと、常に思っていた。
だから、レクターの気持ちはわかるつもりなのだ。


「もう少し…もう少しデスから…」


心情は理解はできるが、行動を止めなければいけない。
それがエマの立場であり、責務であり、全てレクターの為だ。
わかって欲しいと、エマはレクターを抱き締める。
エリカが厳しく、エマが優しく、言い聞かせる。
いつか納得してもらえるようにと願いを込めて──


でも、悪い事をしたら罰が当たる。
誰かがそう言っていた。


『何をしているんだい?』


雲の絶え間に覗く太陽は、じりじりと我が身を焼きつける────





【 to be continued... 】