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聖書の学び

 このブログでは、主・イエス様の教えを知りたい人の為に書いてます。

ガリア戦記が私達に教えてくれる事

2012-07-19 22:25:43 | 律法の守り方


今日は、東京でも36度くらいあり、今年最高の暑さでした。

そんな中熱中症の人もでる位暑い中、大飯原発3、4号機と原発が稼働した。

日本では、電気不足の裏で、コンビニや町で電気の無駄遣いが多々ある。

無駄をなくし、多少の不便があっても協力しあうことでの解決を見出して頂きたいものです。

さて私は、ガリア戦記を最近ふとした事からよんでいる。

 ガリア戦記は、今から、2000年以上前、前102~前44年頃、カエサル率いるローマ軍のガリア(今のフランス)への遠征の記録です。
 
今日は、主・イエス様に祈り、この実話を通して、主・イエスから導かれた事を書こうと思います。

物語は、最初ヘルウェティ族が、スエビ族の攻撃をうけ、西方へ逃げる時にローマの属国へ逃げる際にローマと争うことになる

前のシーンから展開される。

 当時、ヘルウェティ族は、最も裕福で、有名なオルゲトリクスを西方へ逃げる為の使節として遣わしていた。

ところが、彼は、王になる事を望んでいて野心をもっていた。

 彼は、西方への移動のために、セークァニー族の前王の子カスティクスに王権を取り戻すように煽動したり、またハエドゥイー族の

主権を握っている弟と、自分の娘を結婚させ、彼らに、ヘルウェンティー族は最も力あるし、自分の金と地位で二人を王にし、三人で

ガリア支配をもくろむ。

ところが、それは、失敗に終わり、民から糾弾されるはめになり、自殺したのか、どういういきさつでなくなったのかしらないが、

オルゲトリクスは死ぬ、しかし、この後も、大きな力と、数の多かった、ヘルウェティ族は、移住の為にローマと争うが、ローマに負ける。
 
次にカエサル率いるローマ軍は、ローマの友と呼ばれるようになるハエドゥイー族とハェドゥイー族に勝って、ガリアを占領した、
ゲルマーニーの王アリオウィストゥス王から、彼らを守るためにカエサルは、ゲルマーニーと戦うことになる。

そして勝利する。
 
 勝利もむなしく今度は、強力な力と多種の種族を持つベルガエがローマに対して陰謀をくわだてる。

ガリアにゲルマーニーと同様古株となりとどまられては、都合が悪いからだ。

 ベルガエには、全ガリアで有力なものとして、ブリタンニア(イギリス)まで支配していたスエッシオネース族のガルバが総指揮官で

最も凶暴なネルウィー族は、これと同等の力を有し、アトレーバース、1万5千、アンビアーニー1万、モリニー2万5千メナピー9千その他

の部族も入れると4万人くらいの兵隊がいた。
 
しかしローマは、アクソナ河での戦争でベルガエに勝ち、凶悪で力あるネルウィー族にも勝利しちのを契機にベルガエを支配する。

その後、海辺諸族のウェネティー族海辺諸族との戦い、北方諸族との戦いや謀反、またブリタニア(イギリス)との船での厳しい戦い、

最後8巻目には、ガリー人全部に信頼の厚かったウェルキンゲトリクスとガリー連合との争いがあった。

戦争の蜂起人は、カルヌーテース族で、宗教の盛んな地域でした。

カエサルは彼らの謀反をしり、すぐに彼らと戦い、勝利をおさめる。

しかし、今まで、ローマ軍にガリー人は、すぐに敗北した理由は、個々がおのおのの為に戦い、野蛮であったからだけれども、

今回は、敗北にも関わらずに、ガリー人の指揮者のウェルキンゲトリクスは、逃げずに物事をよく見極めるよき人材であったので


一致団結心からこのとき初めて、陣地を固めるという事をしたのだそうです。

結果は、カエサル率いるローマ軍が勝利しますが、かなり苦戦した勝利であったようです。

ローマとガリー人との違いそれは、ローマの人たちの文明の発達もさることながら、彼らの命がけで国を思う気持ち、また騎士道的

な要素がつよかったのではないかと思います。

その結果が、何万もいるをローマ軍はわずかの兵で駆逐した結果になったのではないかと思います。

また、カエサルという人物も戦いを好む人ではなかったのではないとかと思われます。

なぜならば、上記のゲルマーニーの時にも、話合いに応じてあげたり、ハエドゥイー族を守り友好関係を築くような事


も多々している。

しかし、ローマに戦いを挑むものが多かったのは、互いに人種が違い人と人ではなく、種族と種族、国家と国家でしか

みれなかったからだ。

この戦いから学ぶ事は、人は、みな幸せを求めており、人種をこえて、私達は、主・イエス様の教え律法を順守しなければ

人類の共存と共栄は得られないのだと知った。

トルストイの復活では最後のシーンで主人公のネフュリュードフは、こういいます。


我々は自分の生活の主人は自分自身
なのだとか、この人生は我々の享楽の為に与えられているのだとか、愚にもつかない確信

をいだいていきている。 そんなことは、明らかにばかげているではないか。 いや、我々がここへ送られてきた以上、それは

誰かの意志であり、何かの目的があってのことではないか。

我々はただ自分の喜びの為に生きているのだと決め込んでしまっているが、主人の意志を実行しなかった農夫と同じように、我々

もひどい目にあう事は明らかだ。

 主人の意志は、これらの戒律の中に表現されているのだ。

ただ人々がこの戒律を実行しさえすれば、この地上に神の王国が樹立されて、人々は到達しうる限りの最大の幸福を手にいれることになるのだ。

神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、その他のものはひとりでに与えられるだろう。

とあります。

では、神の義とは何でしょうか。

それは、ヨハネの福音書14:6わたしは、道であり、真理であり、命である。 私を通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

とあるように、主・イエス様が十字架に架かられたのは、私達が生まれ持ってもった原罪の罪を赦し、私達を罪から解放し、この世に平安

をそして死後の天国へと導くためであると言う事実をそのまま受け止めることが、最大の神の義であり、伝道は最大の愛の行為であります。

主・イエス様の十字架は敵意を廃止、私達の世界を明るく照らす真理の光です。

 

 

 

 

 

 


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