聖書の学び

 このブログでは、主・イエス様の教えを知りたい人の為に書いてます。

誓ってはならないわけ

2009-02-21 13:16:07 | 誓ってはならないわけ
先日、私は、東京にある、百草園にいってきた。

その日はとてもいい天気で、梅も満開でした。

百草園は、高いところにあるので、東京タワーや、新宿副都心などが、みわたせ

る。

 また、百草園は江戸時代からの名園で、松尾芭蕉、若山牧水などの句碑などもある。

彼らも、時に月夜でも見ながら、酒でも飲んでいたのであろうか?

ふと思ってしまうのは、百草園には、お店が多々ありそこで、お酒やビールを買う

ひとの姿をみたからです。

 ちょうど、そんなさなか、中川前財務・金融相が酒なのか?風薬なのかわかりま

せんが、酔ったように、くちのろれつが回らず、辞任する事件がおきた。

 このような事件を起こしてしまったかも知れませんが、彼はいままで、経済産業

大臣 、自民党政務調査会長、北朝鮮に拉致された日本人を早期に救出するために

行動する議員連盟会長、の経歴があり、学歴も東京大学法学部政治学科 卒業 して

います。

 しかし、今回の事件で、彼に対する世間の見方は、180度変わりました。

飲んだくれで、無責任で、日本の恥をさらした人物として、名をはせてしまった。

首相の任命責任も重いと…。


 今は酒の事件などよって中川さんのイメージは、かわったとしても、今まで彼

が、日本の国のために貢献した数々の彼の功績が、消えるわけて゛もなく、この人

は、もともと、酒が好きだったそうです。

お酒が好きな方でも、立派な人は多々あり、それだけで、その人を、大食感の酒飲

みだという方は、少ないとおもいます。


 しかしもし、中川前財務・金融相の経歴を知らないひとたちが、

彼の本来の姿を知らない、アフリカや、アボリジニーのひとがみたならば、あの人

は、大食感の酒飲みであると判断してしまうでしょう。

今日は、私は主・イエス様に祈り誓ってはならないということについて書きたいと

おもいます。

主・イエス様は、聖書で、誓ってはならないという教えをなされました。

(マタイ5:33~37)昔の人たちは、誓うというと必ず果たさなければならないと考えていました。

 そして、それは、一度誓ったのならば、神に誓ったのですから絶対的なものです。


 これは旧約聖書の教えにあるものですが、良い誓いというものもあります。

まず旧約での誓いは、約束を果たし、意思を強めるという意味での誓いです。

 しかし、新約聖書で、主・イエス様が今回誓ってはならないといっている誓い

は、私は、先入観のことと関係があると諭されています。

だから、中川財務・金融相のことをあげたのですが、これは、昔の哲学者は、よく

研究してたようです。

演繹法というものがあり、これは、論理だけによって、物事を推測する心の動きで

す。

 例えば、今では、地球は丸いと誰でも知っていますが当時の方達にとって、地球

は丸いものではありえませんでした。

これと同じように、黒人を白人が差別してしまうように人には、

歪んだ認識をみながもっているとそれを正しいとしてしまう傾向があります。

中川さんや内閣総理大臣である麻生首相が良い例です。

彼らの発言行動はよくなかったかも知れませんが、それによって人は、その人を悪

いイメージでみてしまう傾向があります。

世間では、政治家または、宗教家が酒飲みや、また発言に責任をもたなかったり、

すると非常識という認識があったりします


しかし、誓ってその人たちが無責任な方なのかというならば、それは違うのに、そ

の人のことをよく調べないで、短絡的に物事を判断するとしたならば、その人を人

格を否定するようになるので注意が必要です。

 また今の世では、家のない方やニートと呼ばれる人を見下す人もいますが、その

人が好き勝手してそうなったのか?

一生懸命生きてきてのに、時代の不景気でそうなったのかにより、

その人に対する見方を変えるひつようがあります。


 そうでないと、私たちは、間違った意味での裁きし、結果として、その人を見下

してしまうのです。

ところで主・イエス様は馬小屋で生まれ、子供のころにヘロデ王から迫害を受け、


十字架にかけられました。

この事実だけみたならば、どうでしょうか?

神でない方が同じ人生をおくったら。

これが、誓ってはならない理由です。

聖書を読むと、旧約の時代から救い主が誕生することがかかれていました。

そして、主が十字架にかかったのは、私たちの罪をあがなうために、通常、罪びと

がうける十字架の刑をうけたわけです。
 
十字架刑は、罪人がうける刑ですが、主・イエス様は、罪人ではありません。

ですが、その場面だけみたら、罪人としてとらえてしまうのではないでしょうか?
 
 今日は、主・イエス様から、私たちの世間の常識だけで人を見てはならない、そ

の人の人生をみてから判断しないと人を裁くようになることを主から教わった。

 この問題は、神を恐れ、正しくいきるならば、主の十字架の救いの知恵があたえ

られ、その人は、すくわれます。
人を見下すことはないでしょう。
主・イエス様の十字架は、いつも 私たちをあがなってくれます。