聖書の学び

 このブログでは、主・イエス様の教えを知りたい人の為に書いてます。

ミッション・ノアの主の祈り

2019-01-29 22:15:33 | ミッションノア学びレジメ

ミッション・ノアの主の祈り

 

谷川の流れを慕う鹿のように私たちは主を求めます。 

主よ、私は罪を犯している罪人です。

例え罪を犯さない状態であったとしても私達には原罪がありますし、人の心は陰険である事

を知っています。

そんな私たちの為に、主・イエス様は、私たちの罪の身代わりなって十字架にかかり、私た

ちを救ってくださったのです。

私たち人には、罪があります。

罪があり、肉欲があり、誘惑に負ける時がありますから、守ってください。

主よ、私たちにはまだ自分の欲、自己の理性の欠如から愛や様々な神から来る至福や徳の思

い受けた恵みにより、思いあがり高慢となり、あなたの御前に罪を犯したり、神に従ってな

いと思う時が多々ある未熟な存在です。人は自分の社会的な知識知恵、御心でなくこの世で

神から受けた知識を誇るかもしれませんが、私は神だけをただ頼りとし、社会的観念や人の

常識などに捕らわれません。

ただ、ただ神の御心に従い、神を畏れ、神を敬い賛美し、敬虔に心貧しく神の真理を探究

し、ただ神の使命神の喜ぶ事だけを忠実になしていこうと心がけるようにいたします。

私の魂はあなたの救いを慕って絶え入るばかりです。

私はあなたの御言葉を待ち望みます。

たとい、私は煙の皮袋のようになってもあなたの掟を忘れません。

主よ、私たちにルツやナオミのような信仰を与えてください。

主は奪い、そして主は与えられる。

それは、私たちの心私たちの器を打ち壊し、そして大きくする為です。

主よ、見捨てないでください。

私たちが罪びとであり、常に過ちを犯す事を赦してください。

主の十字架の愛に感謝します。

私達は、主の十字架の神の愛を神の救いと復活、そして死後の裁きについて日々聖書を読

み、反芻して繰り返しよみあなたに感謝の賛美を絶えずしつつ、神の福音を世界の人々、こ

の日本の人々が一人として滅びる事がないように、今生きている人達に、神を信じない事が

罪であり、聞き従わないという結果私達は、天国へ入れなくなるし、このまま主・イエスを

信じないならば、救われないのだという事を私達は、主・イエスの福音を伝えていきます。

教会は、主の教えを良くまもり、常に学びや教えあい、戒しめあう事を忘れずに心がけま

す。

そして、神が私達を無償で愛してくださったように、互いにへりくだり、互いに教えあい、

私達は主がお望みなる清い心と敬虔な思いで礼拝に臨むようにいたします。

 

ミッション・ノア 吉川 智明

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


book walker 勝浦儀彦宣教師の書籍

2019-01-27 14:24:07 | フィリピン宣教師 勝浦 儀彦

勝浦儀彦牧師の電子書籍紹介します。☺️

紹介は、後日します。

https://bookwalker.jp/author/113345/

上記アドレスはブックウォーカです。ここで、ログインとパスワード作って頂ければ、勝浦牧師の電子書籍を買う事出来ます。

一冊350円です。

勝浦牧師は、フィリピンやベトナム海外へと宣教を実際にしている牧師です。

神の為に、日本だけでなく海外へ伝道している牧師です。

伝道トラクトとして、聖書の教えとしてまた、勝浦牧師の献金として買って頂けると

幸いです。

宜しくお願いします。

 

 

 

 

 

 


戦争と平和のワンシーンを読んで

2019-01-25 22:26:02 | 神にちかづくには、
私は、戦争と平和という本を読んで感動したシーンが1つあった。
この物語は、ナポレオンとロシアとの闘いの中にあってのロシア
の伯爵貴族や登場人物の人間関係などを描写した物語であるが、
特に印象に残ったシーンは戦争と平和4の第3部2編であった。
背景としては、ナポレオンが、ローマのモスクワを攻めていこうと
している段階の時に、ボルコンスキー家の老侯爵がちょうどなくなり
アンドレイが戦争に対しての意義を見出せなくなり、失望している
時のシーンだ。
アンドレイは、リーザという妻がいたが、息子とアンドレイを残して死に
そして、そんなさなか、ロストフ家のナターシャと恋に落ちて有頂天であったが、アナトールという女たらしにまんまとナターシャが騙され、結局
アンドレイとナターシャは、結婚までしようとしていたが破断になった
そんなさなか、アンドレイにとって、妹のマリアと老侯爵の父を守るという事が、敵からロシアを守る事が生きていく最後の鎖であったのだが、父の死を知ったその時の箇所を紹介する。
スモレンスクが取られた以上、モスクワが取られようと取られまいと、
同じ事だと考えていたアンドレイは、思いがけず、引きつるような嗚咽
に喉を締め付けられて、急に言葉を途切れさせた。
戦争について戦争とは、お愛想や地位の高い人の遊び事ではないかという。
軍人社会の気風、軍人が地位の高いものが尊敬されるのが戦争の一面であるのだが、戦争は父を殺し、子を殺し多く殺したほど、功績が大きいと思いこんで、勝利を宣言するのである。
子牛が殺されるのを見て、気分の悪くなるお嬢さんの寛大そうな態度だの
感じやすさとは何か
このお嬢さんは、血を見てはいられない程、気がやさしいが、その子牛にソースをかければ、食欲を出しお食べになる。
戦争の規則、騎士道精神、軍師の交換や許し等々戯言であるという。
彼の友人のピエールは、キリストを信じている。
何かに突き動かされるように、彼は戦地に赴き、親友のアンドレイと再開
し、上述した戦争、に対しての抱負であり、現実であり、人が真に突き動かされている無意識的な潜熱をアンドレイの言葉から見出す。
それは、愛国心であり、それは、ニヒリズムでもあり、お互い肉親や民族それぞれの正義でもあった愛、憎しみ、善、怒り、そんな虚無的な心の入り混じった愛国心が、ピエールが悟る潜熱であったという。
※この潜熱が人間にとって良い事であるとは、トルストイは、語ってはいないと私は思う、戦争に参加する意義の一つの側面についてここで語っている。
ここで、トルストイが書きたい事は何か?
それは、善悪の知識の木という事を主体にした、人間がいかなる時にもどのように、信仰を持つ必要があるかという定義であったと私は捕らえたし、
生と死のはざまの中で、騎士道精神や軍師として貢献し、国への愛国心の
思いで戦場に来たピエールと正反対の罪と死に支配された悪に支配されつつある、アンドレイとの友情の中に、まさに、釈迦が言う、悟りの境地に
近い、信仰という生き様とは、自己の思いを金繰り捨てて、ただ、神にすがり、ただ神の御旨に従う時に人のこの悲惨な世でのいきる解決策があるのだという事をトルストイは見事に弁証法的に描いている。
罪と罰を書いたドストエフスキーのナポレオン主義という事の
弁証法的解釈は、キリスト教文学としてトルストイが疑問に呈しているのだが、トルストイは、英雄という事の定義についてドストエフスキーとは違い、その本質は、罪であり、悲惨であるとニヒリズムを正統化する非聖書的解釈ではなく、戦争とは殺し合いであり、騎士道とかそんなものでないといいつつ、ピエールを引き合いに出し、実はそうではなくて、例えば聖書のダビデ王が何故、ペリシテと戦いなぜ義とされたのであるか?
そこについて言及し本当の人の内在する罪とは何か鋭く描写している。
戦うという事ではなく聖書でいう。義とは、戦争にかけていうなれば、愛する家族や国や民を悪い者から守るという事であるという観念が、人の正義
であり愛国心であり、罪ではなく、内面的信仰的正義であるという事を
この物語は、描いている。
ピエールの根幹にある戦争参戦にあった思いが、上述した信仰的な愛国心からなり立ったものとに反して、アンドレイは、父の死ぬ、自己の人生の消失により、神から離れ、自己の思いが支配されていた。
だからこそ彼の生き方は善悪の知識を食べる行為であったので、苦しんだのであり、神の為の祖国の為に善の思い信仰によってやって来たピエールとの意志が対極であったのだ。
しかし、アンドレイも正義心のある良い方であったので、ピエールを気遣い、ピエールはかれから離れませんといったのだ。
ここが、とても感動したシーンで、悪に苦しみ、自暴自棄になり悪魔のささやきにこの世に懐疑的であり、ふさぎ込む、アンドレイに対する。ピエール
の愛やさしさ友を超えた親友の在り方がとても感動したのである。
私たちの人生は万華鏡のようなものです。
そして人生は結構もろいものである。
しかし主・イエスを信じる人は救われます。
 
 
 

15少年漂流記を読んで

2018-06-12 17:13:53 | 信じる

梅雨にはいって、最初の台風が来た。
幼い頃はあまり気候の事など考えもしなかったのだが、最近温暖化で、5月、6月になると、
30度位になるので今では、雨も恵みの雨と思うようになった。
今日が19℃で明日はいい天気になり、東京では、30℃越えると言います。
昨日新宿シャローム教会で富田牧師が話した事によると、羊とにんげんのハーフでキメラという生物が作られたと言います。
また自分のからだにAi搭載するなど生命に対する、神に対する冒涜が科学者によって、なされているとききます。

ますます、世の中不正がはびこってきています。
一刻も早く全世界を創造された主・イエスを信じましょう。
死は始まりとなります。
さて、私は15年漂流記を図書館で借りて読み、主から導かれた事がありますので、一部抜粋し紹介します。
まず、15人全員の名前は割愛します。
内容としては,題名通り15歳のイギリス人、フランス人、の子供15人が漂流し、無人島につくと言う物語です。
みんなで、一致して冒険しながら、生き延びる物語ですがなかなか一致しません。
なぜでしょうか。
人種のちがいからでした。
よく卓球とかでも、中国人、日本人で戦います。
中国人、日本人、同じアジア圏にも、どちらが、優秀か同じ人間でも、差別やライバル心があるからです。
紀元1800年ころの物語ですが、今の世の中と対して変わってないと私は思います。

さて、少年達は色んな神の試練を通され、彼らは成長し知恵を用いて現地で逞しく生き残ります。
ニュージーランドからマジェラン海峡あたりのハノーバー島に漂流した子供達は、イギリス人、フランス人、また金持ち、普通の暮らしをしてる子供達でした。
その中で、フランス人のブリアンとイギリス人で金持ちのドニファンの2人は、仲間が悪かった。
何故ならば、2人共、勇敢でリーダーの資質があったのだが、ブリアンのほうが、優しく正義感があり、周りから慕われていたからなおのこと、ドニファンにとって、面白くなかった。
しかしラストでは漂流した理由が、ブリアンの弟のジャックである事だから、兄も弟も
危険な仕事をした事実や
15人の子供以外の大人の悪党が来て状況が変わります。
私が、主に祈り注目したのは、ジャックがイタズラして、船の綱を外して漂流記が始まったのですが、神が望んでいる事は沢山奉仕するにしても、伝道するにしても、心砕かれた状態で祈る事であります。

ああ!私は罪深い、

たとえどのようないい行いをしても、

私のせいで皆さんが、窮地に立たされている。
私の代わりに、十字架の血潮で彼らを救いたまえ。
このような、自分のためではなく、世のため人の為に生きるようになる為、主は十字架にかかられたのです。
最後ドニファンをかばい動物と戦いケガをおった、ブリアンの命がけの行為が、
金持ちで、イギリス人であるという高慢な思いを打ち砕き、心の問題が解決すると同時にこの15少年漂流記も幕を閉じます。
私たちの信仰生活に必要なのは、勇気を持つ事でしょうか。
それとも、愛でしょうか。
神様はできない事を能力がないことを責める方でしょうか。
大切なのは、慈悲の心憐みの心を持つ事です。
行いにより、救われるのではなく、天の国は今のあなたの中にあり、また外にあるのです。
主は真実に信じた人を救いました。
この世の会社での成功や自己実現のためではなく、神の国と神の義
を求める人を主はお救いになられたのです。
信じた私たちは救われてます。
だからこの話しを読んだ方今日から聖書を読み神とであい、救いを獲得してください。
死は始まりになるのです。

 

 


座古 愛子

2018-01-24 14:11:05 | 信じる

一昨日、雪が4年ぶりに降った。
東京でも20cm位降ったという。
驚いたのは午後の街並みは、雨が降った時と同じ顔をしていたのに
、夜の7時位に私用で外にでようと思ったら、扉があかない。
雪が扉を塞いでいたのだ。
靴は長靴に履き替えて強引に扉を開けると、外は吹雪になっており
車も道路も雪で覆い尽くされていた。
長靴で歩いたが、長靴よりも雪が積もっていたので、長靴を上から
紐で留めなければ、中に雪が入ってしまう有様でした。
ほんの数時間で、辺りは銀世界であった。
私の自宅近くには、タヌキがよく徘徊しているのだが、案の定
タヌキの足跡が竹林の辺りの道路についていた。
さて、今日はと言っても、読者には悪いのだが、久しぶりに
日記を書く事にした。
忙しいというのもあり、中々更新できなかったのだ。
雪が降る前に、私はお台場の公園で釣りをしている、ご年配の男性と出会った。
息子も大きくなり、今は85歳だと言っていた。
私は、暇そうにしている人と話すのが好きだ。
旅は道連れ、世は情けというが、旅に出たり何処か行くと大概
その地域の人と話しをする。
そうするとその地域の歴史が見えてくる。
例えば、お台場では昔はもっと魚が多くいたし、私達が話していた所も海であっ

たという事を教えて頂いた。
私はトランプの話になったので、キリスト教の話を少しして、そして

、教会の話もした。
話しをして感じたのは、やはり人は年を取る、そして年を取る程
時間の流れが早いのだと聞き、私は、ヘルマン・ヘッセの幸福論の話

をし、彼の幸福感は、年をとるにつれ、昔を思い出す事が楽しみにな

っている事でも、神を信じるならば、死んだら生き返る主の十字架を

信じるならば救われるのであるという話しをしたら、その年配の人は
今自分の事で忙しいという。
でも、日曜だけでないがお気軽に教会へお越しくださいと言って別れ

ました。
人は年をとる。
それでは、あなたは、その後何処に行くとお考えですか?
神はただ一人しかいません。
主・イエスの十字架以外に罪の贖いと救いはないのです。
人は例え全世界を手に入れても自分の命を失ったな何になるか。
私は彼と別れてから、何となく公園を散策しながら、主の御言葉を
思いめぐらせていた。
さて、今日は、内村鑑三伝で紹介されていた、座古 愛子さんの
お話しと内村鑑三氏の話を抜粋させて頂きました。

私達人類は、地の富源は、無窮にあり、良くこれを開発するならば、

生活は向上し、人の欲求を満たして余りある生の利益は、深遠である

と思っている。
だから、現在の先進国は、拝金主義、物質主義なのである。
確かに、現在人生には、様々な苦痛があっても、避けられないわけで

はない。
良き妻を得て、良き教育を授け、大企業に入れば、望みがてにはいる

、知識、お金を手に入れ、極度に楽しむのが、現代人の幸せではない

でしょうか。
内村鑑三氏は、このように言います。
しかし、私達は、富豪より多くの悲しみの声を聞く、たとえば、内村

の時代ドイツは、優れた国民的知識があったが、精神的には、豊かで

はなかったようです。
その根本的な問題は、人の生命は、1つか2つかが、問題であると言い

ます。
優れた識者は、生命は1つではない、肉のいのちより、高き生命がある

と言います。
英国の文豪で、社会改良家のチャールスキングスレーは、こういった

そうです。
私の心は、私に取って、1の大なる帝国であると言います。
肉体的に鑑みるならば、アレキサンダーや、シーザーのように、大帝

国を得る事が、勝利であり、幸せであるのでしょうが、霊による勝利


心の土壌を耕す事の大切さを内村鑑三は、私に示唆なされました。
女詩人でクリスチャンの伝道をなされた座古愛子さんは、20にして体

の自由を失なったが、彼女には、知られていない生命があり、歌もあ

れば、詩もあります。
病床にありても、彼女は、社会改良をしますと書いてあります。
彼女に不平の痕跡はなく、多くの人は、彼女を慰めに行き、彼女に
慰められてかえると言います。
私達人には、こういう精神的世界観があるのにも関わらずこれを耕さ

ないのは、大いなる損失であると内村鑑三氏は、言います。
人の心が豊かであろうとする事は、肉欲にも優る事であり、主の十字

架の道は、生命の道であり、永遠のいのちであると私は、思います。
主は、私はブドウの木であるという。
しかし私達はその木につながっていなければならない。
そうしなければ、毒されて、毒麦のようなブドウの実になってしまう


信仰は信じてからが始まりであり、、常に求道者であり、神と共に
あゆむ道なのである。
今日は主に祈り、本当の幸せとは何なのかという事についてお話をし

ました。


聖書のお話 u stream

2017-09-08 20:10:33 | ustreamから聖書の話 ノア3922

毎週ではなく不定期ですが、聖書の説教または、

お話を下記のチャンネルで視聴できます。

時間がある方は、お気軽にご覧ください。

c1d5kqf15gr

 URL: http://www.ustream.tv/channel/PXVDmDBMxQq

上記のURL をクリックして検索で

c1d5kqf15grを入力すると視聴できます。


正義と微笑の影

2017-07-31 15:39:24 | 神にちかづくには、

今日もいい天気だった。
7月に入ってから毎日、午後は35°位になる日が多い、この間台風が、日

本には来なかったが、南部で発生した為、少し雨が降ったのだが、今年

は、水不足で、節水制限になりそうだ。
今日私は、休みなので、体力づくりに、近所の鶴見川を自転車で、走っ

た。
川の水が、殆ど、なかったが、カメ、鯉やシラサギなどにとってまだ、

何も関係ないらしい。
ただ、熱いので、私達人間にとっては、大変だった。
行き交う人達皆、暑そうであった。
さて、私は、主に祈り、太宰 治が書いた正義と微笑から学んだ事につ

いて書こうと思う。
正義と微笑は、昭和10年頃1935年ちょうど、満州事変頃に書かれた物語

である。
1931年(昭和6年、民国20年)9月18日に中華民国奉天(現瀋陽)郊外の

柳条湖で、関東軍が、南満洲鉄道の線路を爆破した事件、柳条湖事件に

端を発し、関東軍による満洲(現中国東北部)全土の占領を経て、1933

年5月31日の塘沽協定成立に至る、日本と中華民国との間の武力紛争(事

変)である。
主人公は、実在人物で、青年歌舞伎俳優T君の日記をもとに書かれてい

るが、R大、春秋座など太宰の幻想的な物語である。
だから、ほぼ、太宰の作品と言っていいかもしれない。

簡単なあらすじとしては、青年と青年の兄がいて、母は、病気で、父は

すでに亡くなっていたのだが、地位の高い人であった。なぜならば、後

に姉が、鈴岡と結婚したが、鈴岡さんの家よりも、主人公の芹川家の方

が地位が高い事をチョッピリ女史とあだ名された主人公のおばさんが話

をしている。
また、九十九里の辺りに別荘を持っていた事や、兄弟共に大学に入って

いる事からして、金持ちであったのだろう。
上述した人達が前半の構成人物達である。
後半の人物は、役者関係の人達が主体ですが
割愛します。
兄は、大学を中退し、小説を書き、弟は、R大に入ったが、歌舞伎の道

を選び、最終的に歌舞伎で成功してこの物語は終わるのだか゛、
この青年の日記には、聖書の御言葉を兄に読んでもらったり、生活の随

所に聖書の御言葉と主人公の思いが書かれており、また、父を亡くし、

母も病気がちで、姉、兄ともに、とても苦労している事についても、よ

く描写されている。
ヘレン・ケラーの話をラジオで聞いており、彼女が、盲人でありながら

、口が喋れるようになり、博士号をとった事に対して無限の尊敬を払う

べしといっているし、彼女の詩を読み、宗教にたいして、信仰の力、信

仰とは奇跡を信じる事は、合理主義ではないと言っている。
この青年は、賛美歌もよく歌い、よく聖書も読んでいたようだ。
見せ場としては、歌舞伎の試験の時に、ファウストを朗読するシーンが

あるのだが、太宰は、この物語も、学者ファウストが、悪魔の契約を結

び、若返り、そして、この世の事を知る事を求めて生きる物語だが、キ

リスト教会では、有名な物語名作として知られている。
一度、読む事をお勧めします。

何よりも、一番私が注目したのは、太宰治がこの物語を書いた時代背景

です。
太宰に召集令状が来たのが、昭和16年で太平洋戦争があった頃で、世は

、第二次世界大戦の真っただ中の頃でありました。
太宰は、左胸の故障で戦争に行かなかったのですが、当時、このクリス

チャンの小説を書くという事がいかに、危険で命がけであったのかとい

うならば、天皇陛下万歳の時代に、主・イエスだけが神とし、天皇を人

とする宗教、キリスト教を伝える事は、勇気のいる行為であった。
この歌舞伎の青年の日記の頃は昭和10年頃で、
先ほども書いたように満州事変の頃で、また天皇機関説など、天皇専制

ではなく、天皇は最高機関であるが、内閣や他の政治機関からの輔弼を

得ながらの統治権行使を説いた説などが出始めていた頃で、天皇の主権

が一時弱まりつつある、状況であった。
だから、この青年クリスチャンがこの日記を書きやすかったであろうが

、しかし、太宰の頃は、戦争の真っただ中で、いかに、太宰が、神への

信仰、愛を相当な覚悟で伝えたかが、わかる。
太宰は、残念ですが、悪の誘惑に負け、自殺をしてまうのですが、
彼が、朗読に入れた、ファウストの中に彼の矛盾した中の信仰と天国を

期待する自身に対しての思いもあったのだと思います。
ファウストに関しては、簡単なあらすじを読んで頂きたいです。
最後、本当の喜びを知った、ファウストは、天国へ入るという物語です

が、実際聖書的に言えば、天国へ入れないでしょう。
悪魔と契約結んだ物語ですから、
でも、私が思うのは、太宰のその当時の信仰は、本物であった。
そして、私達は、信仰を維持しなければならない。
後に神に背く事があってはならないのだという事を、太宰と正義と微笑

の物語は、教えてくれている。
今日は、神への愛信仰を持つ事について、また
背信に対しての注意も兼ねてこの物語を紹介しました。

新約聖書は、2000年前から読まれた書物です。
何が書かれているのか、私達を救う為に子なる神である主・イエス様が

人の形をして生まれ、最後十字架にかかり、私達に永遠の命を与えてく

たさったという事を聖書は伝えています。

あなたは、死後何処に行くと思いますか?
罪から来る報酬は死です、どうしたら天国へ入れますか。

その答えは、教会に行き、聖書を読み、罪を悔い改めて、十字架の救い

を理解するならば、
神を信じる人は、誰でも救われます。

 

 

 


聖書の読み方

2017-07-21 14:27:13 | 的がはずれないための聖書の読み方

聖書の読み方と、その人が、誤った解釈をしていないかの私なりの主からの導き

1旧約は、律法や罪の事、また主・イエス様が救世主として来る事の預言がなされている。
2聖書は、様々な目的で読まれていても、目的は、心の知恵、救いの知識をえる事が肝要
3.旧約、新約ともに、信仰心をもってよまなければ、神の霊感で書かれた聖書は、理解できない。
4.律法は、違反を知る為のものであり、罪を知り、その罪への深い悔い改めが、主・イエス様の十字架の救いとめぐみには不可欠
5.神は、聖霊により、身ごもりましたので、人ではなく、人として生まれた神である。父なる、神、子なる神、聖霊なる神は、3位1体です。
6.箴言、伝道者の書は、型であり、私達は、牧師、信徒の実際の証、経験談から、思いやりが律法であるという真の律法を生涯を通して、知る事
 が重要であり、また、羊の門である神から、全ての物事の善悪について、訪ね求める必要がある。
7.主を訪ね求めるには、神を恐れ、罪を犯さないように心がけるひつようがあり、御言葉を純粋に受ける必要がある。
8.繁栄の神学とは、永遠の命だけではなく、今生きているこの世界で経済的祝福や健康面での祝福などの「現世利益」も、神の恵みによって与えられると信じる信仰です。 聖書を読むならば、神と富とに仕える事は、できないとあり、聖書では、心貧しいものは、幸いである。貧しい者は、幸いであると書いてあるから誤解する人も多いが、経済的に貧困であれという事ではない、箴言10:4、箴言13:8貧しい人は、叱責を聞かず、怠けものである。勤勉な人は、富をえる、貧しいものの意味としては、常に、心飢え渇き、謙遜で、あるという事、また、時に、貧困の時もあるかもしれない。ただ、繁栄の神学の過ちは、聖書で神は、神の国と神の義を求めよ、後のものは、与えられるとあり、財産を持つにしても、健康にしても、それを維持できるように祈る事が悪い事ではないが、聖書は、罪を悔い改め、主・イエスの十字架の救いを信じて、洗礼を受け、聖餐式にあずかるように主が、教えたように、永遠の命に至る、善行や行い、また、罪をあたらめて、救いを述べ伝える事、神の御心を行う事が主体であり、キリスト教は、御利益宗教ではない。
しかし、必要な物を頂く事は、罪ではなく、本質である自覚から他者への愛から、繁栄の神学により、外れているとしたならば、注意が必要になる。
9.罪の問題聖書に書かれている事に対して、その事柄を本質的に吟味し、その吟味した神の意志と反した行為をした者は、罪を犯している可能性がある。
10.縦と横との関係を良く言われるが、自分一人で解釈せず、常に疑問点や何か問題があるようならば、2人3人でよくその事について話し合う必要がある。
11.それでも、解決しない場合、教会に聞き、やはり長老や何人かで、主に祈りその諸書の問題に対して、吟味する必要ある。
12.自分自身の信仰の歩みに対して、吟味する必要性について、
13.人は、どうしても主観的になってしまい、その為に重大な罪を犯してしまう事もある。なので、今度は、信仰生活についての吟味が必要である。
1.子供の頃から、現在に至るまで、神の福音を聖書で書かれているように、燭台を机の下に置くのでなく、この世に示してきたか。
2.神の愛を教会の行事以外にも、聖書をよみ感化されて、職場社会で伝える祈りと努力があったか。
3.常に日々の生活の選択の中で神を恐れ、一つ一つ、主に罪を犯さなかったのか吟味はしているのか。
4.誰かからの注意を、天使が上り下りすると書かれているように、神からの救い知恵として、受けているか。
5.自身の生活が俗世間よりか、それても、霊的信仰的に歩んでいるか。その比率について。
10.. 的外れをしている場合について、あり得る可能性
1.罪を犯していたり、主の御心にかなってない場合、その怒りは、殺伐としており、中々、その怒りは、油のように残り消えない。
2.罪を指摘された時に、高慢になっていたり、頑なになっていたり、激しやすい場合、過ちを犯している可能性がある。
3.例えば、指摘を受けた時に、罪を犯し誤っている場合、自身の方で、何の弁解、弁明をする事は、できない。エレミヤ1.19
11.信仰の成長とそこから来る矛盾と謙遜の必要性
よく教会に行き、主・イエスを信じている。けれども罪の問題があるけれけども。神様が何とかしてくれるのでしょうと語気を荒げる人がいる。また信仰について
の比較を、このような人は、極端に嫌う傾向がある。私達は、めぐみにより、救われましたが、聖書で主は、門を叩けとあるように、自身が祈り求めなければ、聞き従う気がない場合には、心の種の話にあるように、御心を行わず、この世の惑わしや快楽、また岩のように頑なな心であった場合、信仰の成長よりも世俗社会の幸せを選んでいた信徒がいた場合、聖書では、先の者が後になり後の者が先になると言うように、教会歴ではなく、神に従った期間を自身で吟味して、謙遜であるひとようがある。
12.霊によって、見る事
カトリック、プロテスタント共にそれぞれ違いがあるが、幼児洗礼、または、偶像崇拝、様々な問題がある中で、注意すべきは、一人一人を霊の目により、見極める
事が大事な事である。
誤った制度もあるかもしれないが、問題は、その制度をその信徒がどのように捕えそして、神に対しての信仰心の核がしっかりしている人なのかを見る必要がある。
13.教会について
1.教会の私物化
2.他の教会との断絶

3.自分の意思でなく、神の意志でその教会を定めているかどうか。

1長老奉仕者を選ぶときに、地位や学歴的な差別はないか

2.教会では、例えば、神学校創る場合にしても、学歴、地位が関係してくる場合があるので1.の事が生まれる可能性はあるが、全ての人事は、

主・イエスにより、定めなければ、ならない。

3.宮清め、教会の中で1円でもお金のやりとりがあってはならないと私は思う。しかし、バザーのように教会に物を出したり、買う事によって、献金という形をとり、

地域の人達に対して伝道も含めたうえで、成す事はよい事だと思うが、保育園や音楽教室にしても、教会の中で、利益が上がる事をする事は、御心ではないと主から私は教えられている。

4.3の理由としては、祭司がレビ族であり、聖別された時、11部族が、レビ族に献金をした理由それは、もし、レビ族が御心に叶わない場合には、献金は減るし、一生懸命に

信徒を牧会するようになる。

全てを神様に委ねる事、そして、肉と御霊との関係で、人は、お金を儲けると欲深くなり、罪を犯しやすくなるから。

また、別に収入を得る事により、神への信頼が薄れるのと、信徒、牧師の仕事が、無償での奉仕も含まれている為、教会内で、他のお金をもらう信徒や職員の働きが、無償での神への奉仕の妨げやつまづきになるおそれがある。

5.教会にお金がない場合、献金は、神への一人一人、の救いに対しての感謝があって、例えば、十分の一の献金にしても、なされなければならない。神に一人一人が献金

をする額に関しては、聞き従う必要があるが、何よりも、勝手に教会が最低いくら献金するかを定める事は、私は主の御心ではないと諭されている。

教会にお金がない場合、牧師、伝道師は、主に祈り、教会外での奉仕として、仕事をすることは、許されるし、例えば、海外からの宣教師の場合、働く場所がなく、やむなく教

会内で英語を教えるのも、ケース・バイケースだと思うが、緊急を要する場合に於いて、主の許可を得られるならば、私は、奉仕という働きをしてもよいのではないか思う。

しかし、教会に献金が十分にあり余裕があるのに、副業する事は、御心ではないのではないかと私は思う。

神の為の仕事をする事は、とても難しい、なぜならば、人は罪を犯しやすく、すぐに私服を肥やす傾向にあるし、上に立つ人は、謙遜にしてなければ、高慢になり、

救われなくなる可能性さえあるし、職場では、常に、罪の問題もたくさんあり、完全に正しく生きるというか、聖なる神の御心を成す事は祭司、牧師、伝道師には、特に

求められるが、それは、不可能に近いと私は思う。

だから、神の説教をする人は、教会の奉仕にだけ、集中したほうが、良いと私は、主に祈り、考えている。

6.幼児洗礼を受けた人が宣誓をすれば、良いというが、歴史を見ると幼児洗礼を批判した為殉教した人もいる。

本質的には、信じて口で罪と主を信じる事を告白した者が洗礼を受けるのであり、人が4歳くらいにならないと人として、概念認識がない

のであるから、まだ、意志のない霊が入っていない子供は、人であっても、人ではないので、洗礼は、聖書に書かれているように、認識の

ない人の洗礼は、偽りであると私は、主から教わっている。

だから、認識のない幼児洗礼は無効であるし、新たに洗礼を受ける必要がある。

7.音楽差別

教会で上位の奏楽者、と下位の奏楽者がいたとしても、きちんと、クラスを創り、うまくない人は、下位で分ける必要が私はあると思う。

そうしないと、下位の人は、どうしても上位の演奏の足を引っ張ってしまう、しかし、ここで重要な事は、下位上位の演奏団体を差別してはならない

なぜならば、主の為の賛美に音楽の演奏のレベルは、関係がないので、演奏時間にしても、全て半々にする必要がある。

 

 

 

 


カナの婚礼について

2017-06-02 23:47:07 | ミッションノア学びレジメ

 

このあいだは、occパン屋の2Fで、ヨハネの福音書の2章のカナの婚礼について、まなびました。

まず、酒についてですが、聖書では、弱い酒について、飲む事に対して、あまり悪くは書かれてはいませんが強い酒

については、あまり良いとは書かれていないようです。

バプテスマのヨハネがブドウ酒も強い酒も飲まずと書いてありますが、聖書では、パウロにしても、体の健康の為に酔わない程度の酒を飲む事に関しては、罪に定めてはいません。

酒におぼれたり、常習的に神よりも、酒を第一の楽しみにしたり、酒を飲んでも飲まれて、かつてのノアが酒によって、醜態をさらしたように酒におぼれてはならないのむです。

また、聖職者や神に仕える神学生や長老は、上記のヨハネの箇所を見るかぎり、指導的な立場の人達は、酒を私は飲むべきではないと個人的には思います。

教師は、人一倍の裁きを受けるとヤコブ書にもあるように、人は以外と罪の誘惑に弱いものです。

しかし、祝い事などの時や最後の晩餐などで、ブドウ酒の事が書かれている事に関して、2つの意味があります。

人は食事をしたり、仲間とうまい物を食べたり飲んだりした時に心を開き合い、親睦を深め合う傾向にあります。

そしてもう一つは、聖餐式の事についてです。キリストは、私達の罪を赦すなだめの捧げ物として、神の永遠の大祭司となられました。

またそれは、神御自身があのアブラハムの時代、まだモーセ兄のアロンが祭司となりレビ族が祭司として認められる前からいた、サレ

ムの王であり祭司メルキゼデクがモデルとなっていると思われますが、旧約聖書では、多くの生き物が、神のなだめの捧げ物となりまし

たが、主・イエス様は、ただ一度の十字架により、全ての罪を無効とし、敵意を廃棄させ、全ての人の罪を主・イエスを引き受け、私達信

じるものに永遠の命をお与えになられました。

ヨハネ635では、私はいのちのパンであるといいます。そして、ヨハネ6 56 私の肉を食べ、血を飲むものは、永遠の命を持っています。

このように聖書に書いてあります。

そしてカナの婚礼の前後を読むと、アンデレがナタナエルに対して、主・イエスの事を伝えています。有名なアンデレ伝道と言われていま

すが、神の愛を伝えるとはとても大事な事であると分かります。彼らは、同胞であったのだから、尚の事話が伝わりやすかったのではない

かと思われます。

そして、ナタナエルに対して主は、天使が上り下りするのを見るといっていますが、これは、ヤコブ書のベテルの祭壇の箇所でも有名ですが、

天使が上り下りするという真意は、ゼカリヤ3:10その日には、あなた方は互いに自分の友

をブドウの木の下といちじくの木のしたに招き合うであろう。と書かれていますが、共に聖書を学び戒め合うようになるのだと言っています。

イチジクの木にしてもブドウの木にしても、一般的に当たり前のように生えていた木です。

日常に於いて、私達は一つに集まり、神の御言葉を学びあう時に天使が上り下りする、また、一人二人のいるところに私はいると言っている

わけですから、主は、私達にカナの婚礼の前に楽しみの前に普段私達が主・イエスの十字架の愛を隣人や友に伝え、そして、互いに聖書を

学び合う事を奨励しています。

そして、ヨハネ5:46で主・イエス様は、再びカナに行かれ、そして、癒しの奇跡をおこなわれました。

つまり、カナの婚礼のブドウ酒には、キリストの命である、上述した命のパンと血が世界の人々を癒すという意味合いで神はカナの婚礼で、

たくさんの良質のブドウ酒を水からつくられたわけです。

水にしてもいのちの水神の言葉とつながっているわけですから、神は、カナの婚礼に於いて私達に主・イエスを信じる者は癒され、そして、

永遠の命を得るという意味も含めて、この水をブドウ酒に変えた奇跡をおこなわれました。

今日はヨハネの福音書2:17まで学びましたから私なりの見解でお話をすすめさせて頂きますが、ヨハネ2:14~17は、宮清めという表現で

有名な箇所で、主が、神殿で商売をしている不貞な輩に対して怒り、鞭で追い払い、 私の父の家を商売の家としてはならないと言って激しく叱咤します。

箴言13:24むちを控える者は、その子を憎む者である。子を愛するものは、つとめて、これを懲らしめる。

とあるように、主・イエス様は、ユダヤの民を当時自分の子のように愛していたからこそこのようにな事をなされたわけです。

では、聖書の御言葉で右の頬を叩かれたならば、左の頬を出しなさいと書いてあるのに、それはおかしいではないのですか?

と思われる方もいると私は思うのでその事に関しても記載しておきます。

 

聖書で、主・イエスは、めんどりを集めるように預言者を遣わしたが預言者たちを殺し、石で打ったと書いてあります。

ルカ13:34神は、ヤン・フスの時なども正しい事をしたのにもかかわらず、火刑にあって殉教したように、この世の中には、悪が

あり、そのような人達、神の家族ではない、神の敵、悪を行い自分の権力の為にならば、どのように残虐なに行為をする者達に

対して、右の頬も左の頬も出しなさいと書いたのであって、私達が、注意すべきは、時に何度叱っても、悪気があってわざと悪い

事をする神の家族に対して、厳しい処置をとる必要がある事は、その人を本当に愛す時にどうしても、厳しく叱る必要はあります。

しかしその人が、悪に染まり、上述するような悪い人になったとしたならば、その人に対して、神に祈るべきであり、その行いにより、

彼が恥じ入り、善をおこなうようなるように私達は祈るべきであります。

今日は、いのちのことばで学んだ箇所について、ミッション・ノアで独立伝道師の吉川がレジメを書きました。

※いのちのことば教会の金牧師は私の牧師でありますが、金牧師が教えてくださった、ないようとは同じ箇所でも違います。

それは、私が、今回一緒に学び私なりの主から示唆された事について、書きました。

しかし金牧師からまなんだ事についても、当然抜粋して、このレジメを書かせて頂きました。

 


平和を造る人々によって

2017-05-20 19:38:15 | ミッションノア学びレジメ

昨日、私は夕方に、小田急線新百合ヶ丘駅近くに行った。
すると、大きな声で、切実な声で男性が何やら話をしている。
まわりには、共謀罪強行採決の事についてのビラを配り、皆で協力して、署名を求めている人達の姿がある中で、殆どの行き交う人達は、そのビラや署名をしないし、近くには、マクドナルドがあったが、普通に会話し、近くの店では、皆共謀罪について、関心を持っている人達があまりにも少ないように感じられた。
日本は、仏教や様々な神道があり、神社も多いのに子供の頃から、倫理感を教わる時間がとても少ない。
私が神を信じるようになったのは、たしか24歳位でしたが、私は、子供の頃塾に通っていて、そこの国語の先生がいつも倫理というか道徳の話をしてくれる良い先生でしたし、家には、イソップ物語といっても大きな本で何十冊も置いてあったので、そういう神の恵みにより、私は、幼い頃から神から倫理感というか道徳を学んでいったのだと思う。
さて、この共謀罪なるものが、どんな事柄なのか、皆様ご存じでしょうか。
日本国憲法には、思想良心の自由を侵してはならないと19条にあります。その他、21条の集会、結社その地一切の表現の自由の保障についても共謀罪が適用されると、その国の意にそぐわない行為が全て準備という名目で処罰の対象となってしまうという。
酷い法律がなされ、憲法の9条もこの間の安保関連法案により、あらたに3項が加えられ、戦争での後方支援が認められるようになってしまいます。
まず、キリスト教会は、何をすべきなのか、私は、日本人として、神様が生れさせました。

私達には、日本国を良くする義務があり、この国が良くなる為に愛国心を持つ事が大事であると主に示唆されています。
あの生協を造った賀川豊彦もデモに参加して捕りました。でも、正しい事をなした立派なクリスチャンの社会活動家であったと私はおもいます。

大切な事は、世界の人類全てが神に造られ創造された神の子なのですから、私達は、全ての国の平和の為に祈り、私達は日本に生まれたのですから、私達には、1国民として、日本人にしかできない事がある事に気づくべきです。
聖書には小さな者に忠実な者は大きな者にも忠実であるといいます。
例え、雨の一滴であったとしても多くの人が集まれば、大河になるのです。
イザヤ56:主は、こう仰せられる。
「公正を守り、正義を行え。 私の救いが来るのは近く、私の義が現れるのも近いからだ。
また義と平和は互いに口づけしているといいます。
また、マザー・テレサは愛とは何かというならば、家族をよく引き合いに出します。
私達人間は、皆神に於いて神の家族であり、日本人もその家族の一員であります。
気お付けるべきは、愛国心が強すぎるあまり、全ての人を愛せなくなる場合も時にはあります。
よく、教会でも他の教会の人の話は興味がないとか、自分の教会に人が来たりすれば、当然喜ばしいのですが、既存の教会の牧師や信徒の事情を鑑みない事なども、人は、善悪問わす゛執着、貪りやすいので注意が必要です。
主・イエス様は、私達の罪の赦しの為に私達の罪の身代わりとなり、十字架にかかられました。
神は、言葉であるといいます。
だから私達は神の霊感によって書かれた聖書の言葉を読み、御心を行う時にそれを食べることになるのです。
注意すべきは、ヤコブ書にあるように、行いのない信仰は死んだものですとあります。

私達は行いではなく、恵みにより救われましたが、いつのまにか、一番初めの救いの恵みを忘れない事が肝要です。
大切な事は、いつも言うようにたった一つです。
それは、主・イエスへの信仰と愛です。
心を尽くし力を尽くし精神を尽くして、神を探り求める時、神は、私達に恵みを与えてくださいます。
仕事も、全ての事がらは、神から出ています。
しかし人には罪があります。
でも神を信じ続けるならば、ヘ10:16それらの日の後、私が彼らと結ぼうとしている契約はこれであると主は言われる。私は私の律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。
とあるように、信じる私達は、神御言葉が共に私達といてくださるようになり、信じて口で主の救いを伝える人は救われるというように、私達は罪を悔い改め、そして救われたからこそ、主・イエス様の十字架の救いを伝えています。

宗教改革の頃、ルター、ツウィングリなど有名ですが、彼らは、悪に立ち向かい、たとえ何があろうとも、真理を曲げず、信仰の勝利をおさめました。

神は、正しい行いをするならば、必ず、日本国を愛し、そしてこの国にリヴァイヴァルを起こしてくださいます。

リヴァイヴァルとは、キリストを信じる人が増える事です。

私達が平和を愛し、後の子孫の為に正しい行為をする事は、とても大事な事です。
主はこのように、自分の為ではなく世の為に生きる人の事を喜ばれます。
今日は、主にいのり、平和を造る事の大切さについてそして神の救いの恵みについてお話しさせて頂きました。