聖書の学び

 このブログでは、主・イエス様の教えを知りたい人の為に書いてます。

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ

2008-09-27 18:19:57 | Weblog
今世の景気もとてもお寒い状況です。

リーマンの破綻、原油の高騰によって、運輸業、漁業は、赤字覚悟の経営をしているよう

です。

そんな中、福田首相の辞任そして、新総理として、麻生さんが、首相になりました。

しっかりと、この国をささえてほしい。

さて今日は、主・イエス様にいのり、隣人を愛するということ自分を知るということにつ

いて、書こうとおもいます。

主・イエス様は、
マルコ:12、31 で、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよと」

おっしゃり、別のシーンでは、良きサマリア人のたとえを通し、私達が隣人を愛するよう

になれるよう、他人に親切にすることおこなうことを主・イエス様は、教えられました。

しかし、私は、おもうのですが、大概の方は、小さなこどもや、かわいい子犬などを見る

と頭ではなく、心でその対象を愛せますが、自分にとって年上の方や同僚を、同じように

愛せているのか、疑問です。

愛とは、心を開き、そして、交わっていくうちに、仲良くなり、いつのまにか、その人を

好きになっていくものではないかとおもいます。

今回私が主に祈り書こうとしていることは、自分を愛するということです。

人を愛することは、大事ですが、その前に自分を知り、人を愛する為に自分を愛すること

は、大事です。

宮沢 賢治 が、書いた小説に銀河鉄道というものがたりがあります。

貧しい主人公ジョバンニと、普通の家庭のカムパネルラは親しいと友達で、この物語は、

ふたりが、夢または仮死状態の中で、天国へ向う列車にのり、星星を旅していくもがた

です。

 
最後、ジョバンニは、夢から覚め、カムパネルラは、友達を助けようとし、溺れ死ぬので

すが、そのときのワンシーンにこういう記事をみつけました。

「おまえの友達がどこかへいったのだろうカムパネルラは本当にとおくにいったんだ。」

カムパネルラと一緒に生きたいとジョバンニはいうと青白いやせた大人は、こういいま

す。「ああ、そうだ、けれども一緒にいけない。そしてみんなが、カムパネルラだ。

おまえが会うどんなひとでもみんな何べんもお前といっしょにりんごをたべたり、

汽車にのったりしたのだ。

だからやっぱりおまえは、さっき考えたようにあらゆるひとの一番の幸福を探し、

みんなと一緒にそこに行くがいいそこで、おまえは、本当にカムパネルラと

いつまでも一緒に行けるのだと。」

作者は、きっと死んだカムパネルラの後に天国へいくには、いつもカムパネルラと

隣人を自分のように愛することこそか゛死んだカムパネルラと目には見えずともともに

いることだといいたかったのではとおもいます。

あらゆるひとと仲良くし、あらゆるひとの一番の幸福をさがすことのなかに、本当の自分

がいる、もしかしたら、カムパネルラ自身主人公と気があったようですが、その中に、自

分をいつのまにか、見出していたのかもしれない。

自分を知るということは、自分の好きな人意外の人にも同じように、接して、その人の

一番幸せを願いいのるときに、本当のキリストによる体をきせてもらい、自分をしれるの

のではないかとおもいます。

幸せを願うから神が与えた恵みのとまことを掟を守り、そして、愛は、上下の関係子供、

大人、牧師、それぞれがその人らしく生きるときに自分をしれます。

思いやりを持ち、人が主・イエス様の恵みをうけ、その人らしく生きることが、そのよう

な気配りを持つときに、主・イエス様の十字架が私達を照らし、そこにあるすべてのもの

が、自分であり、銀河鉄道のカムパネルラと供にいること=隣人として友としていること

になるのです。


    マルコ:12、31 で、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」

 



口を閉ざすとき

2008-09-19 18:52:22 | サタンの誘惑について
今日は、一日中湿気があり、雨が降っていた。

夕方頃には、やんだのだが、TVを見たら、どうやら台風13号が、

きているらしい。

この台風最初は、風速60近くもあって、韓国の方で、猛威をふるい、日本にまた戻

ってきたのだそうだ。

今まで、こういう変わった台風は、なかった。

今世の中では、事故米など、人の命や健康よりも、自分のことしか考えない方

達がいる。

今年は、米も豊作であることをねがいます。

不正がおこなわれないようにかかしのかわりでも、つけないと消費者の

為の政治であってほしいです。

さて、今日は、主・イエス様に祈り、モーセの十戒の中のみだりに主の御名をとな

えるなという 教えについて、主・イエス様に祈り書こうとおもう。


昔、中国が唐とよばれていた時代、都の洛陽に杜子春という一人の若者がいまし

た。

彼は、金持ちの息子であったそうです。

その杜子春は、はじめ金持ちでしたが、豪遊して、金を使い貧乏になりました。

そこに、仙人がきて杜子春を不思議な導きで、また金持ちにします。

しかし、また杜子春は、金を使ってしまい貧乏になり杜子春は、おもったのだそう

だ。

お金持ちの時は、皆よくしてくれるのに、金がなくなるとなんと冷たいことかと。

そして、仙人の弟子になります。

仙人は、杜子春を弟子にして、自分のする仕事が終わるまで、峨眉山というところ

で、自分を待つようにいいます。

そして、自分が留守の間絶対に一言も話さないように魔性の者がたぶらかしに負け

たならば、お前は、仙人には、なれんといって、去っていった。

その後杜子春は、虎やへび、神将と神兵や閻魔大王のいる地獄の鬼達の攻撃をうけ

ます。

これらは、悪い者の惑わしで、黙っているとそれは、消えていきます。

しかし、そんな忍耐強い杜子春も、地獄の両親が打たれているのをみて、

思わずこういいます、「お母さん」と・・。

結果仙人にはなれませんでしたが、この物語は、口を閉ざすことが知恵をはぐく

み、悪の誘惑や、思い悩みから、まもる手段であることを教えてくれています。



聖書では、主・イエス様は、箴言17:27 自分の言葉を控えるものは、知識に富

むもの。

心の冷静な人は英知のあるもの 28 愚か者でも黙っていれば知恵あるものとおも

われ、その唇を閉じていれば、悟りのあるものとおもわれる。

とあります。

また、主・イエス様は、思い悩むなと私達におしえました。

マタイ6:25~30 いろいろと人は心配したり、窮地に陥ると、不安に駆られ、

優柔不断になり、つい、みだりに言葉を発してしまいます。

しかし、主・イエス様は、十字架にかかられたときに、何をされてもただ黙って

いました。

口を閉ざすことは、心の不安をなくし、知恵をはぐくみ、冷静にいきることのでき

る。

恵みであると主・イエス様から教わりました。

杜子春が誘惑を受けても黙っていたように、口を閉ざし主・イエス様の十字架の救

いを待ち望むものは、主がインマヌエルとしておられ、その結果、天へとあげられ

ます。


マクシミリアン・コルベ神父

2008-09-18 19:08:01 | 偉人
 1894年ポーランドのスドウィンスカボラというところで、マクシミリアン・コルベというかたがうまれた。


 彼は、貧しいながらも信仰深い父と母のもとで、愛情深くそだてられた。


 彼は、とても堅実で、実直な方で、その貴重面な性格から、キリスト教徒の為の機関紙を発刊した。


 また貧しい家庭にありながらも彼は、フランシスコ会に入り、ローマで神学を修め25歳という若さで、

司祭にもなったひとです。

 この後かれは、皮肉にもフランシスコ会の本部がワルシャワ近くのニエポカラヌフという所にうつされ

そこに、司祭として勤めることになってしまう。

しかも、運命のいだずらなのか、必然だったのかわからないが、彼は、1936年フランシスコ会によって、

最高顧問になりました。

ちょうどこの頃ポーランドは、ナチスドイツの侵攻を受けており、ユダヤ人の迫害がひどく、マクシリア

ン・コルベ神父は、正義感の強い方でしたので、反ナチスと愛国精神を旗印に新聞を掲載しつづけてしま

っていた。


 司祭の最高顧問になり、司祭になり、また彼の素質が、記事を書くことであるという不運がつながり、

彼は、残念ながら、アウシツュビッツの収容所へと入れられてしまう。



彼は、勇敢な方でつかまってからも説教をし、罪の告解を聞き、司祭の職務を果たす。

しかし8月になり、折りから数人の囚人が脱走、報復にドイツ軍は無作為に選んだ10人の囚人を餓死させ

ようとする事件が起きます。

そのうちの1人の若者が「妻子に会いたい。」と泣き崩れ、コルベ神父は身代わりを買って出てその若者

の代わりに餓死刑に処されます。

彼は、このとき若者にいいました。


神父は朝の点呼時に処刑宣告を受けた囚人が家族を想い嘆くのを見て、

「わたしは年老いた修道僧であり、家族を持たないわたしが身代わりになる

と。

そして死刑房で14日間生きたのち、毒殺をされたわけですが、

私は、コルベ神父から、今すべきことを感謝していきることの大切さ愛することの大切さをおぼえます。

なぜならば、私は、上記でコルベ神父に不運が重なったと書きました。

私ならば神がおられるならば、なぜこのときこの場所で最高顧問になり、しかも、新聞まて゛ださなけれ

ば、ならないのか。

もんもんと、思い悩んでしまうとおもいます。

しかし、彼は、いつも、神が死ぬまで供にいてくださり、死ぬにしてもキリスト、生きることもまた益で

あったのではないかとおもいます。ピリピ:2、21

さて、時は変わり現代の世で、ベネディクト16世が、アウシュビッツの収容所を訪れ、説教をしたときの

記事のいちぶにこう書いてるのを見つけました。

あの時、主は何処におられたのでしょうか?何故黙っておられたのでしょうか?なぜ、これほどの破壊と

悪の勝利を黙認され得たのでしょうか?イスラエルの苦悩に対する不平を抱くことを歌った詩篇、第44章

の言葉が思い出されます:“


。。。(あなたは)それでも私たちを打ちのめし、山犬の棲み処に捨てて、死の陰で覆ってしまわれました。。。主よ、奮

い立ってください!なぜ、眠っておられるのですか?永久に私たちを突放しておくことなく、目覚めて下

さい!なぜ、御顔を隠しておられるのですか?私たちが貧しい存在であり、虐げられていることを忘れて

しまわれたのですか。

またこうもいいました。

 私たちは神の啓示に深く入り込むが出来ずにいます。私たちが神と歴史の裁判官になろうとする時、そ

の部分のみしか私たちには見えないので、迷い込んでいます。この方法では人間を守ることが出来ませ

ん。寧ろその反対で、人間を破滅させる原因を作っています。そうではなく、私たちは忍耐強く、謙遜に

なって、しかも、喧しく神に叫びかけねばなりません:起きて下さい! あなたが創造された人間を忘れ

ないで下さい。

 この世では、矛盾することも多くありまた、なぜ神がいるのにということも多々あるかもしれません。

そういうときには、いつもひとは、自分が裁判官になり、たかぶり、サタンの支配化にあるこの世で、自

分達の罪の結果にこのことがおきたことをわすれてしまいます。

しかし、ベネディクト16世にしても、コルベ神父にしても、たった一つのことがわかっていたことによ

り、すくわれます。

それは、あなたの創造した人間をつくられた、主・イエスキリストの十字架による罪のあがないです。

罪のあがないがあるからこそ、コルベ神父は、アウシュビッツの収容所の中でもキリストを述べつたえ、

若者の嘆く声を聞き、神の愛を述べつたえる伝道師として、十字架の主と供に十字架にかかられ、天へと

帰られました。

エペソ2:14 キリストこそ、私達の平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、とあ

ります。

そして、キリストにより、平和と天国による復活はなされます。

先入観と偏見

2008-09-12 18:04:19 | 誓ってはならないわけ
今日はも、とても良い秋晴れだった。

湿度もなく、最近の雷と集中豪雨がうそのようだ。

9月に入ってからは、天気のいい日が続いている。

今年の仲秋の名月がきれいに見え、今年も豊作であること

をいのる。

さて、今日は、主・イエス様に祈って、誓ってはならない理由について

書こうとおもいます。

昔、イギリスの哲学者であり、政治家だった、フランシス・ベーコンという方がいた。

彼は、帰納法ということを考えたかたで、物事について、観察や実験をして、多くの属性

のプロセスを振り落すプロセスをとり、その中からふりおとせない、本質を見出した人で

す。

たとえば、厚化粧を無節操とするかどうか、考えたとき、100人の女性と厚化粧の関係

について、考え厚化粧が、本当にすべておかしな行為なのかをしらべたりしました。

この発想によって彼は、人には、偏見と先入観があることを指摘した。

ベーコンは、偏見・先入観について、4つのイドラ=偏見・先入観として私達に教えてく

ださった。

1. 種族のイドラ: 白人黒人問題など、ゆがんだ認識をそのまま正しいものとして認識

してしまう。

2. 空洞のイドラ: 教育や習慣でひとを判断する。 例えば、年をとった人や寝たきり

の老人を自分よりも卑下したり、価値のないものとしてしまう。

3. 市場のイドラ: 実態の正しく伝えていない言葉にだまされ錯覚にとらわれる。

4. 劇場のイドラ: 過去の実証や説を正しいと無批判に受け入れてしまう。

などがあります。

人は生まれた時から、世間の一般常識のようなものを集団生活の中で、知らず

と学んでいきます。

しかし、それが、集団生活の中で、なされないこと柄や、その人の生き様や、さまざま

な世間の人の意識する評価などにより、私達は、主・イエス様に罪を犯すことがあります。

例えば上記で書いた種族のイドラなどにより、インドでも、まだ、人種の差別があったり、

奴隷は、無価値な存在として扱われていたりします。

教会でも、古い誤った風習が多々あっても、劇場のイドラでかかれているように、その風

習をその教会で集団的に常識化した結果に、古い誤ったことを正しいとしてしまうことが

多々あります。

聖書では、主・イエス様が、十字架にかかられ、戒めの律法などを廃棄してくださいました。       
エペソ2:14~16 これは、当時、イスラエルの民は、神の選民となる為のあらゆる

規定をまもっており、その為に神の選民とよばれていました。

しかし、このことにより、異邦人の救いの妨げになってしまう状況もおきました。

割礼や捧げ物のこまかい規定、またヨベルの年や三大祭りなどの日による細かい規定

により、それを守らない異邦人に守らせることにより敵意がしょうじていた。

そこで、主・イエス様は、異邦人の救いの為にこう教えました。

エ:2、14  キリストこそ、私達の平和であり、二つのものを一つにし、

隔ての壁を打ち壊し、15 ご自分の肉によって敵意を廃棄された。

とあります。

しかし、今でもユダヤ教の人達は、主・イエス様を認めません。

なぜならば、空洞のイドラがあるからです。

先入観これこそが邪魔をして、その教えに固執してしまう原因です。

だから、聖書で主・イエス様は、誓ってはならないといいます。

良い誓いもあるのですが、ここでいう誓うとは、先入観や偏見をもたないよう

にすることをさします。

この問題は、羊の門からとおるものは、先入観に捕らわれずにすみます。

一つ一つの出来事について、それが、本質的に罪か、そうでないかを

主に祈り常に心清くあろうとするものは、誓わずにすみます。

マタイ5:34~36
主・イエス様は、私達を一つにする為に前の教えを廃棄してまで、私達を

救う為に神御自身の掟を代えてまでしてくれました。

 
異邦人が、イスエラルの選民のようなことをすることが難しいことを、しっていた

から戒めの律法を廃棄してくれました。

 私達被造物であり、罪びとの私達の為に十字架にかかってくだされました。

だからこそ、主を信じるものは、真理を得て、天国へとみちびかれます。 


アシジの聖フランシスコの祈り

2008-09-07 13:11:11 | 
あなたは、三身一体にして主・神々の神にまします。

 あなたは、善、全き善。
 最高善。
主にして、行ける、誠の神
 あなたは愛、愛徳     あなたは知恵   あなたは謙遜   あなたは忍耐  あなたは美   あなたは柔和   あなたは安泰  あなたは静穏   あなたは喜び  あなたは私の希望と楽しみ  あなたは正義  あなたは穏和  あなたは私達の十全の富、 富の全て

 あなたは柔和  あなたは保護者あなたは私達の信仰    あなたは私達の愛徳     あなたは私達の甘美 あなたは、私達の永遠の命
 
 偉大にして感嘆すべき主
 全能の神 慈しみぶかい、救い主

マリアは、愛する弟子の

2008-09-05 21:54:49 | 偶像崇拝
仙人という物語に仙人になりたがっていた農家の百性がいた。

理由は、単純なもので、人が栄耀栄華しても、死んだらそこまで

とおもった百性の権助は、それで仙人に本気でなろうとする。

もちろん、仙人になる方法なんて、誰もしるよしもない。

けれども、医者の妻に狡猾な人がいて、権助の仙人になりたいという

思いを利用し、奉公させる方法を思いついた。

その方法とは、20年奉公すれば、仙人になる方法を教えるということ

だった。
20年ただで、働いた権助は、当然仙人になる方法を医者に聞く。

しかし狡猾な妻は、この権助をさらにだまそうとし、こういいます。

「では、仙術を教えてあげるその代わりどんな難しい事でも私の云うとおり

にするように、そうしないと仙人にもなれず、20年間また奉仕しないと、

仙人になるどころか死んでしまうと。」

この物語では、松の木に登った主人公が、両手を離したとき、落ちずに仙人になれ、

雲の上に登っていったという物語ですが、これは、ただの昔話です。

私は、これと全く逆の話を聖書で、見つけました。

聖書では、ヨセフとマリアの子が、私達の救世主の主・イエスキリスト様であるとかかれ

います。

教会には使徒信条というものがあり、その一部には、こう書かれています。

主は、聖霊によって宿り、乙女マリアによって生まれたと。

カトリックの教会では、マリアのとりなしの祈りというものがあったり像を置く

教会などもあります。

まさに仙人のようです。

しかし、主・イエス様は、十字架にかかられた時、そばの母マリアにこういいます。

ヨ19:26 イエスはそばに立っている愛する弟子とをみて母に、「女の方、

そこに、あなたの息子がいます。」といわれたと・・。

この時、母マリアは、愛する弟子の母親になりました。

上記で書いた物語の逆になったわけです。
 
神の母から愛する弟子の親になりました。

私達人は、被造物といわれています。

神の似姿つくられたと。

しかし、マリア様が、主・イエス様を産み、主・イエス様が誕生した

としても、被造物であることには、代わりないのです。

もちろん、えらい方では、ありますが。

今日では、カトリック教会などに多いのですが、マリアのとりなしの祈りや像など

多々あります。

しかし、主・イエス様が愛する弟子を息子とし、母マリアが愛する弟子の母になったとき

神の母では、なくなりました。

なぜそうしたのかというと、上記の仙人の話をみてみるとわかります。

はじめ主人公の権助は、仙人になる為に住まわせてくれといわれましたが、

変な目でみられ、そういうおかしなことを言う変なひと扱いされていました。

挙句の果てに悪い医者の妻にだまされたほどです。

もし、主・イエス様が人としてこられたとき、仙人のように雲からこられたりした

ならば、奇人や化け物扱いされてしまったのではないかとおもいます。

だから人として、生まれる必要がありました。

そこで、マリアの体を借りてでてこられたのです。

だから、マリア崇拝や、マリアを特別な存在として扱ったり、するのは、

危険に行為でもあります。

聖人にとりなしてもらうのはいいかもしれないけれども、主・イエス様=神よりも、他の

聖人の像や絵が主体の教会は、偶像礼拝=罪になってしまうから注意が必要です。

主・イエス様は、天にあげられました。

だから、天に昇った権助のように、主・イエス様のために奉公するものは、

キリストの体に預かれ、天国へもどれます