昨日は、台風15号の影響で、あちらこちらで、木が倒れて、車が破損したり、被害があった。 私の家の、前の家の瓦が、昨日の台風の影響で、私の家の2Fまで、飛んできたのには、さすがに吃驚させられた。
私たちは、災害の前には、いかに無力であるか思いしらされたのと同時に、主・イエス様の御守りに感謝します。
さて、今日は、聖書で信仰の父アブラハムの箇所をから考察がなされている、モルトマンの本で「希望の神学」から、私の信仰のありかたを、主・イエス様からおそわった。 まず、信仰の父アブラハムは、初めから信仰の父アブラハムと言う名であったわけではなかった。 彼は、当時の海運都市ウルに住んでいた。 彼の住んでいた、ウル、ニッパル、シッパル、ラガシュ、などは、とても豊かで、図書館などもあり、平和で、幸せな日々をおくっていたのではないかと、推測される。 ところが、 創世記12章で、アブラムは、神からの導きで、神が与えるという約束の地のカナンへと旅立つ。
何もない、広大な岩山があり、 危険で獰猛なサソリや、ジャッカルがいるような中、通る地方によっては、水さえ手に入るかわからない、そんな中で、アブラムは、信仰の父アブラハムへと成長していく。 父テラと共に、ウル、バビロン、マリ、カランと旅をし、様々な人と出会い、またカランで父の死、また、甥ロトとの別れ、又、ロトを奪った王達との戦い、そして、高祭司:メルキゼデクの祝福などにより、励まされ、最後カナンの地を相続する。
これがアブラハムの物語で、このアブラハムは、新約聖書では、なく聖書の旧約聖書にかかれています。 さて、祭司制度では、レビ族の中から祭司は、生まれることになっていました。 神がそのようなされたのですが、唯一の例外が上記にあげたメルキゼデクです。 ヘ7:によると、かれは、義の王、サレムの王つまり、「平和の王」と記述されています なぜ、神がこのような事をなされたのかと、言うと、新約聖書のあらたなキリストによる福音と約束と大きく関係します。 新約では、福音と約束が主体として、かかれているのに対して、旧約で神の選民となるには、律法と行いが重視されてきました。
神との契約や戒めの律法を守ることによって、当時イスラエル、神の民は、義とされてきました。 だから、律法を守らない事、についてのユダヤ人、律法学者と、主・イエス様を延べ伝える使徒達との争いや論争が絶えませんでした。 そこで、パウロは、救いの主・イエスの約束について、メルキゼデクをヘ7:で登場させます。 なぜならば、ヘ7:11 ところで、もしレビ人の系統の祭司制度によって、人が完全な状態に達することができたとすれば、民は祭司制度を与えられているのですから、いったいどうして 、アロンと同じような祭司ではなく、メルキゼデクと同じような別の祭司が立てられる必要があるでしょうかと、パウロが言うのは、 これは、主・イエス様もメルキゼデクとおなじ、祭司制度から生じた祭司ではない事をさします。 その理由は、モルトマンが言っている福音と約束の話の中に答えがあたえられました。 パウロは伝承されたアブラハムの約束を生命の約束と結びつけ、死から生命ロ4:15、17を引用しいいます。 また、ガラテヤ3:18 であるように、もし相続が、律法に基づいてなされるとするともはや約束にもとづいたものではない。 といいます。
パウロは新約の書簡の中で、ユダヤ教と戦いますが、パウロ律法と福音の中に於いて、約束を中心にかたっていた。 大事なのは、律法がなくなってしまうわけでも、信仰の義行いが途絶えるわけではなく、福音の中にこそ、神の約束があり、約束から、律法や信仰による義が生じなければ、ならないと言うことです。
約束の神は、レビ族でない、踏襲された、律法制度を私たちにさずけたのではなく、 知恵や知識、律法による賢人達からではなく愚かな宣教によりすべての人々を福音と約束によって包摂的にすくわれたのです。
今日のキリスト教会での過ちが歴史に於いてなされてきたとしたならば、それは、信仰による義や律法などを悪い意味でのグノーシスとしてきた所でしょう。 知識や行いによって人は救われるのではなく、福音と約束から、信仰による義、救いの知識がうまれる。 この事が、私たちが過ちを犯す点だと私は思います。
私たちの信仰とは何か。
キリストの十字架の贖いと赦しによる感謝からくる信仰の義と救いの知識、福音と約束について、かかせていただきました。 主・イエス様を信じる事が永遠の命です。