北山・京の鄙の里・田舎暮らし

北山、京の北に拡がる山々、その山里での生活を楽しんでいます。

京北・魚ケ淵の桜など・「高瀬のつり橋としだれ桜」栗山滋さんの案内

2014-04-29 14:47:51 | 自然・風景


昨平成25年2月に、京北周山町 栗山 滋さんに最近訪れる人も多い、京北の魚ケ淵地区の紹介記事を京都府立ゼミナールハウスの「友の会たより」に特別寄稿いただき、4月1日発行の春号に掲載させて頂きました。

まずは次の栗山さんの案内記事をお読み下さい;

-------------------------------、 

 上桂川の清流が橋下を流れるつり橋のたもとに咲き乱れるしだれ桜。橋の向こう側に家屋と北山杉が見え隠れして、日本の原風景を感じさせる、情緒豊かなところです。また、鮎の釣り場としてシーズン中は、釣り人が絶えない人気スポットでもあります。

 つり橋のたもとの「しだれ桜、そめいよしの」は戦後間もない昭和32年に、地域の壮年会の創設記念樹として植えたものです。今年で樹齢56年の若木に相当する桜です。当時、普通のさくらとして植樹しましたが、成長するにしたがい根元から三本の幹分れとなり、それぞれの幹が伸びるにしたがい調和のとれた美しい枝振りに成長しました。
 しだれ桜は、胸高の幹囲328cm、樹高約12.6m、枝張り幅は22mに広がりました。そして、つり橋に垂れ下がる枝の長さは4m程の長さとなりました。4月桜の季節を迎えると、垂れ下がる長い枝につぼみをつけ、一重の珍しい花が美しく咲き誇ります。今日まで人の手をかりることなく、自然に立派な体形木に成長を続けています。

高瀬・桜


 清流に架かるつり橋は、地域の要望により、昭和24年に昔の丸木橋からつり橋の改修工事が行なわれました。その後、度重なる風水害により破損流失の被害を蒙りましたが、昭和38年、橋桁・揺止等の工事、平成17年には、主塔の改修工事が行なわれ今日に至っています。
 つり橋は、地域住民の生活に欠かせない役割を果たしています。昔から川向に家屋と農地があり周山へ通じる生活道路橋でありました。今は、しだれ桜の引き立て役であり、山行き、鮎釣り客など京都市トレイルコースにも利用されています。
 昔からこの橋の向かい側を「大字柏原、小字高瀬」の地名から、橋の名称を「高瀬橋」と呼んでいました。今日も地元では「高瀬のつり橋」と云われています。

高瀬・吊り橋と桜


 かって、つり橋の下を流れる清流にのり木材を運ぶために、京北から都への筏流しが古くから大いに活用されてきました。当地は筏流しの中継所でもあり昭和13年頃は8名の人が筏に携わっていました。操業期間は稲作の用水が終り、堰(いぜき)を除去することができる「10月から翌年の4月末」と決められていた。筏流しの冬期操業は、河川の凍てつく厳しい時期での仕事であり、体力との闘いであったと言い伝えられています。昔、筏流しの服装は、袢纏、たち掛け、差し込みの足袋、わらじ姿で、筏が急流を下ると波しぶきが上り、足元が濡れていたそうです。筏流しは、早朝から休憩時間もなく、筏の鼻木と棹一本で操る特殊な作業であるため、高い賃金が支払われていました。
 上黒田の上流から流してきた筏は、夕方になると集落の近くの留浜(つり橋からちかいところ)に着けて休みに筏の浜に着けて休み、(つり橋から近いところ)翌日には、川下へと流され保津峡を経て嵯峨嵐山の筏留浜へと運ばれていきました。

高瀬・鮎釣り


 梅雨の時期を迎え、しだれ桜が新緑に姿を変える頃になると、つり橋に上から川の中を覗きこんだり水面を指さしたり、地元の人だけではなく、他府県など遠方から今年の鮎の生育振りを談義する格好の場所です。つり橋の上流は、上桂川の中でも有数の急流域で、大小さまざまな川床と岩場が見られる人の手の加わっていない景勝流域です。鮎のシーズンになると、釣り人が絶えない形の良い鮎の釣果が得られるところです。

筏流し


 高瀬のつり橋としだれ桜は、豊かな自然に抱かれて年を重ねるにしたがい、春を彩る花名所であります。この貴重な観光資源を大切に守るために周囲の環境の保全と橋の維持管理に努めなければならないと思います。

-------------------------------

桜の樹の位置はこの地図を見てください。高瀬の桜

紙面に限りのある中、栗山さんには凝縮された記事に仕上げて頂きました。

・今春になると綺麗に咲き誇る桜の植樹の経緯から説明されています。
私がこの桜を案内するとき、「この樹は私より若いのですよ」というと大概の人は、「うそ~」と信用して貰えません。昭和32年(=1957)に植樹されたのですから、昨年で樹齢56歳なのです。

・ここはシーズンになると鮎釣り師さんの恰好の釣り場です。

・また昔は筏の浜があり、多くの筏師さんを排出された地区でもありました。

栗山さんにこの記事をここでも公開させて頂く許可をいただいたのですが、私の心の中にはこの桜が植樹されたときのことなどしっかりとした生き証人に書いて頂いたものを残しておきたいからです。

黒田百年の命名について等いったん間違った情報が何かに書かれると、それがいろいろと拡販されいろんな説があるようにインターネットで伝わってしまうからです。その教訓からも僅か半世紀前の事実については正確な記録をネット上に残したく思いました。

なお、この魚ケ淵という地名に纏わる話は、このブログで 2006-11-15に「京北の地名:八津良神社の話からから派生して、、」と題した記事で少し触れています。時間があれば目を通してください。





最新の画像もっと見る

コメントを投稿