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名越切通「まんだら堂やぐら群」~神武寺へ

2016年02月27日 | 日本武尊・源平・戦国史跡めぐり
2月27日(土)
今日は逗子に「まんだら堂やぐら群」を観に行って来たよ。
コレは去年の秋公開の時季に知ったんだけど、チョット遅くて…それで春公開(今日~3月21日)に延期して、初日の今日に行ったんだわ。
ま、いつもの通り、ただ目的地に行くだけじゃなく…その周辺の史跡?もハントして来たからね。

まず家を9:00に出て…バス代を浮かすために歩いてJR横須賀駅に行きます。

ココはヴェルニー公園だけど…今日は護衛艦「いずも」じゃなくて「きりしま(DDG-174)」が停泊してるね。

9:30すぎJR横須賀駅に着いて…事前に調べていた9:40発の上り列車に乗るつもりだったのに、新橋で人身事故があって遅れてるってよ。
9:50すぎ逗子で降りた後、10:01発のバスに乗ろうとしてたのに…上り列車が来たの9:53ごろでさぁ、逗子まで約10分だから間に合わないじゃん。
俺は9:40→9:53だけど、来た列車は本来もっと前に来てるはずだったらしいんで、実質30分以上遅れが出てたみたいだよ。
10:05ごろ逗子に着いたけど、バスは1時間に2本くらいしか無いんでさ…実は元々行きは歩くつもりでいたんで徒歩で向かうことにしました。

そしたら途中(久木)に「岩殿寺」の道標を見つけ…行ってみることにしました。

一応、周辺をいろいろ調べてたときに「岩殿寺」もピックアップはしてたんだけど忘れてたわ…あ、ココ山門?で¥100入れて入るのね。
無人だけど神仏にウソはダメよ…でも、細かいの無かったらどうすんの?

コレは「利生堂」です。

「子育地蔵尊」と奥に「鐘楼」がありました。

「爪掘地蔵尊」は伝「弘法大師(空海)」御作だぞ~
この海雲山「岩殿寺(ガンデンジ)」は“関東百八地蔵尊”八九番札所なんだわさ。

「報恩供養碑」だって…「花山法皇」「御(後?)白河法皇」「源頼朝公」「徳川家康公」…錚々たる名前が刻まれているね。

コレは「観音堂」です…“坂東三十三観音札所”第二番で「花山法皇」「後白河法皇」が来山し、『吾妻鏡』には「源実朝」「源頼朝」「北条政子」が参拝したと記されているんだって。
その後、衰退しますが天正19年(1591年)「徳川家康」によって再興されたそうです…それで「報恩供養碑」にその名が刻まれてたのね。
ちなみに坂東の第一番が「杉本寺」、第二番がココ「岩殿寺」、第三番が「安養院」、第四番が「長谷寺」で…それ以降は鎌倉外となります。

コレは「熊野権現社」です。

手前は「弁財天」で…

奥のは「蛇や蔵」だって…

コレは「鏡花の池」です…明治時代には文豪「泉鏡花」が逗子滞在中に幾度も訪れ『春昼』『春昼後刻』は岩殿寺を題材に描かれています。
この池は「泉鏡花」の寄進によるものだそうです。

「観音堂」裏には「行基」が岩に十一面観音を彫ったという「奥の院」があります。

稲荷明神社と猿田彦神社…さらに尾根に通じる道があったけど先は行き止まり?みたいだったよ。

下山します…

こっちは「本堂」です。

寺伝によれば養老5年(721年)「徳道上人」が創建し、「行基」が十一面観音像を造立して安置したという…“古刹”という言葉がピッタリな寺だったよココは来て正解バスに乗らないで(歩きで)良かった~


それから元の道に戻って歩き続け…「法性寺」に着きました。

猿畠山「法性寺」というんだけど…(山門の)山号が書かれた扁額左右には「日蓮」を導いたとされる白猿があしらわれています。
建長5年(1253年)「日蓮」は安房国より鎌倉入りし「松葉ヶ谷」に草庵を構えて布教活動を行っていましたが、文応元年(1260年)『立正安国論』を鎌倉幕府五代執権「北条時頼」へ献じたことをきっかけに、浄土教信者らにより夜間、草庵を襲撃・焼き討ちされました。(松葉ヶ谷法難)
この時、暴徒到着に先立ち「日蓮」の前に白猿が現れ、その導きにより山中の岩窟に隠れて難を逃れたとされ…「日蓮」はこれを山王権現の加護であるとし、弟子たちに報恩を託しました。

山門を入ると舗装された坂道があり、上がって行くと…寺務所?があります。

またさらに上がって行くと…また白猿?

コレは「日蓮」の高弟「日朗」の「日朗菩薩御廟所」です。

コレは「祖師堂」です。

「祖師堂」左側の岩山に石窟があり、これが「松葉ヶ谷法難」の際に「日蓮」が避難した場所であると伝えられています。

その岩山「山王権現祠」に上がってみました…頂上には五重塔がありました。

見下ろすと墓地の奥にも石窟(やぐら)が見えるね。

遠くには洋館みたいのがあるね。

下りて、さらに奥に行ってみます。

こっから「名越切通」に通じてるんだな。

お、山道突入…「まんだら堂やぐら群」は左やな。

広場に出たぞ…

けっこう本格的な切通に入ったぞ…

こんな岩が埋まってるし…

「まんだら堂やぐら群」は、この先だね…逆に行くと鎌倉方面みたい。

お、着きました~

期間限定公開なので、このような柵があるんだね。

まず展望広場に上がって見てみました。

150穴以上の横穴に多数の五輪塔が納められています。

「やぐら」とは崖に四角い横穴を掘り、主として内部に石塔を建てるなどして納骨・供養する施設です…火葬跡だって。

梅の花も咲いてました。

13世紀後半ごろから16世紀ごろまで使われ、鎌倉及び鎌倉と縁の深い地域や寺院などにのみ分布する特殊な遺構と言われています。

ココは発掘中?

これだけまとまった数のやぐらを良い状態で見ることのできる遺跡は鎌倉市内にも少なく、とても貴重なんだって~

さて…亀が岡団地口まで行きます。

やっぱ、この第1切通は迫力あるなぁ。

上から見てみました。

こんなトコに伏兵がいたらヤバいぞ。

「名越切通」は三浦半島方面に通じる幹線道路として明治の初め頃まで長い間使われました。

亀が岡団地口に着き、住宅街を少し歩くとバス停「亀が岡団地北」があるんだけど…何と運が良く、ちょうどバスが来たんだよ。
1時間に2本しか無いからさ…行ったばかりだったら歩いて逗子に出ようかと思ってたんだもん…でも、このブログ記事作成中に時刻表見たら、バスは5分くらい遅れて着いてたんだよ、今日は“持ってた”な。

12:20ごろJR逗子駅に着き…歩いて京急「新逗子」方面に行きました。

その途中にある「亀岡八幡宮」です。

境内にある「萬榮稲荷大明神」です。

この参道に変なオッサンいたんだけど…何やってたんだろう?

「亀岡八幡宮」の境内では骨董市みたいのやってたよ。

鎌倉にあるのは「鶴岡八幡宮」だよね…それに対抗して逗子は「亀」にしたのかね?
調べると「亀岡」という名称は境内地がなだらかな丘で、亀の背中のようであったというところから、鎌倉の「鶴岡八幡宮」に対し「亀岡八幡宮」と付けられたといいます。

ココは「延命寺」です。

コレは「金剛霊殿」です。

コレは「厨子弁財天」です。

コレは「三浦道香主従七武士之墓」です…1513年(永正10年)「北条早雲」によって住吉城が落ちると、三浦道寸の弟「三浦道香」は、ココ「延命寺」で自刃したと伝えられています。
「三浦義同(道寸)」の娘婿が太田道灌の子「太田資康」です…地元の大明寺に墓があるよ。

「弘法大師」がココに立寄り、延命地蔵菩薩の厨子を造ったことから、この辺が「厨子」と呼ばれるようになり…近年になって「逗子」という字が使われるようになったといい、現在の「逗子」という地名の発祥と伝わっています。

「問いかけ地蔵さま」にあるコトを問いかけてみるも…ノーコメントでした。

願かけ地蔵尊と動物愛護慰霊之碑です。

コレは「永代供養墓」です。

「延命寺」に安置されている「阿弥陀三尊」は、さっきの「亀岡八幡宮」のご神体だったモノなんだって。

次は東逗子に行くんだけど、逗子駅に戻るの面倒なんで(1駅だし)歩いて行っちゃいました。

ココは東逗子駅の近く「海宝院」です…もとは横須賀にあって「徳川家康」の世に三浦郡の代官だった「長谷川七衛門長綱」によって創建されました。

茅葺の「四脚門」です。

鐘楼と本殿です…銅鐘は伝説では「北条早雲」が新井城の「三浦道寸」を攻めるときに陣鐘として使用したもので、長谷川長綱が徳川家康より拝領したモノと伝えられています。

境内奥に長谷川一族の墓があります。

コレが「長谷川長綱」の墓です。

JR東逗子駅の先から右に行くと「神武寺・鷹取山登山口」があります。

何だよ…舗装されてるのかよ…と思ってたら段が終わった先から山道になったぞ~

やっぱプチ秘境探検はこうじゃないとね…東逗子駅~神武寺は「表参道」です。

切通みたいなイイ感じになってきたでしょ~

コレは「総門」です…この先に「神武寺」があります。

『相模国三浦郡神武縁起』によると医王山「神武寺」は724年(神亀元年)「聖武天皇」の命によって「行基」が十一面観音・釈迦如来・薬師如来を彫刻し祀ったことがはじまりだといわれています。

この「神武寺の晩鐘」は“逗子八景”の一つに数えられています。

コレは「六地蔵」です。

コレは「楼門」です。

なんじゃもんじゃ?樹齢四百年といわれるホルトの木のことです。

いろいろ石碑や御堂がありました。

何かパワースポット感があるね。

この「薬師堂」は慶長3年造立上葺棟札のある建造物で、神奈川県の重要文化財です…本尊は薬師三尊(逗子市重要文化財)です。
1590年(天正15年)「豊臣秀吉」の小田原攻めの際に諸堂が焼失しますが1598年(慶長3年)に「薬師堂」が再建されました。

『吾妻鏡』によると「源頼朝」は1192年(建久3年)8月9日、妻「北条政子」が産気づいたことから「鶴岡八幡宮」と相模国の神社仏寺27ヶ所に神馬を奉り経をあげさせました。
そして無事に産まれたのが後の三代将軍「源実朝」で、1209年(承元3年)ココ「神武寺」と「岩殿寺」を参詣しています。

この先に行くと「鷹取山」なんだけど、以前行ってるんで今日は行きません…見てないけど「女人禁制」の石柱があり、修験者がこの山で修行していたことが分かります。

まぁよくこんなトコに寺建てるよな…

京急「神武寺」駅方面に行きます。

神武寺駅~神武寺は「池子参道」(裏参道)というようです。

全然キツくない山道なんでハイキングにピッタリだよ。

スゲェ…崩れたらペチャンコになるな。

下ったトコには介護施設と逗子中学校があります。

それから神武寺駅近くの「東昌寺」に行きました。

コレは「弘法大師ご修行像」です。

コレは「本堂」です。

コレは国の重要文化財に指定されている「五輪塔」です。

1221年(承久2年)「北条政子」は息子である三代将軍「源実朝」の菩提を弔うために「運慶」に丈六阿弥陀如来像を彫らせ、池子の大上阿弥陀ヶ谷に建立した阿弥陀堂に祀ったと伝えられています。
池子が英勝寺の支配下に入ると命令によって、この「阿弥陀堂」がココ「東昌寺」に移されました。

神武寺駅に戻る途中の庚申塔?

この「神明社」は1192年「源頼朝」の創建と伝えられ、1180年(治承4年)の旗挙げの3年前の1177年(治承元年)に密かに三浦に向かったときの伝説が残されています。

上がってみると太平洋戦争の?慰霊碑がありました。

1820年(文政3年)には「徳川家斉」によって社殿が再興されたという…徳川家の信仰も厚かった神社みたいです。

京急「神武寺」駅に入ると…

コレは米海軍関係者専用の改札口なんだって~

今日は15時過ぎちゃったけど家に帰って昼ゴハン食べたよ…今日は杖をついて出掛けたけど、これくらいの山道なら問題無いね。
もう途中でコート脱ぐほど暖かくなってきたね…これから春になり、史跡ハント日和になるぞ~
また機会があれば今回行かなかった名越「大切岸」や神武寺→鷹取山の方へも行ってみたいね。



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