長野でロハス生活

モダンと古きよきものを大切にした生活を自然に囲まれ送りたい。オースティンの小説のような生活に憧れる日々。

une lettre

2006年08月29日 | days
帰宅するとフランスから手紙が届いていた。
誰からか、分かっていた。
私は、長らくその手紙の主に手紙を書かなかった。
おそらく、向こうも、東洋の一留学生のことなど
いつか忘れてしまうだろうと何処かで思っていたためである。

私が、忙しさに紛れて日々を過ごしている間、
その人は、幾多の論文を書き、本を何冊か執筆していた。

その間、私は何をしただろうか。
一つの論文を最後に、仕事を始め
さらりと書いた文章が雑誌の小さな賞を得たくらいであった。

手紙を手にした瞬間、
私の心はフランスの日々に帰る。
古い石造りの講堂で、講義をするその人の姿が
秋の木漏れ日の中に浮かぶ。

何故、人は、ただ一瞬の数秒の記憶を
何度でも繰り返し、思い出すのだろうか。
それは、突然やってくる。
場所を問わず、東京の人ごみの中でも
信州の晩夏の中でも、ショパンを弾いている時であっても。

おそらくそうなのだろう。
その時、私は現在の中で、美しい記憶と対話することができるのだろう。

秋の七草

2006年08月27日 | 習い事
昨日は、自分で浴衣を着て
お花のお稽古に行ってきました。
いつも帯は母に締めてもらっていたので
自分で帯を締めたのは初めて
しかし、着物を着る事を考えればとても簡単。
着て行ったところ、先生に誉められましたし、
他の方々にも好評でした。

さて、今回生けたのは万作という木の枝と、すかし百合、
リンドウ、小菊、葉蘭です。
ところで、先生に「秋の七草皆知ってる?」と聞かれましたが
全部分かりませんでした

春の七草は、七草粥を作るので知っているのですが
秋の七草は?と聞かれて困ってしまいました。
先生に教えて頂いて、ちゃんと覚えようと思いました。

ちなみに、七つは尾花・藤袴・撫子・女郎花・朝顔(桔梗のこと)
葛・萩だそうです。

今日は、日常で浴衣を着るということも実践しましたし、
秋の七草も覚えられました。
また、先生からお免状も頂き、さらに頑張ろうと思いました

小さな花

2006年08月25日 | book & movie
「羊の歌」を読み終え、
「続 羊の歌」を読んでいます。
これを読むと、加藤周一さんのことがよく分かります。

理性と感性のバランスの取れた方。それが私の彼への印象です。
医学部にいながら、仏文研究室に通ったそうです。

この間の講演会で、何気なく購入した本。
本当に宝物のような本

「小さな花」(かもがわ出版)

『 どんな花が世界中でいちばん美しいだろうか。
春の洛陽に咲き誇る牡丹に非ず、宗匠が茶室に飾る一輪に非ず、
ティロルの山の斜面を蔽う秋草に非ず、オートゥ・プロヴァンスの
野に匂うラヴァンドに非ず。

 (中略)権力の側に立つのか、小さな花の側に立つのか、
この世には撰ばなければならない時がある。たしかに、花の命は
短いが、地上のいかなる帝国もまた、いつかは亡びる。

 (中略)私は私の選択が、強大な権力の側にあるのではなく、
小さな花の側にあることを、望む。望みは常に実現されるとは、
かぎらぬだろうが、武装し、威嚇し、瞞着し、買収し、みずからを
合理化するのに巧みな権力に対して、ただ人間を愛する能力を
証言するためにのみ差し出された無名の花の命を、
私は常に、かぎりなく美しく感じるのである。 』

私は、ここに書いた人の思想の原点を見る。

日常の浴衣 part2

2006年08月24日 | kimono
今年も普段着に着れる様な日常の浴衣を
ユニクロで見つけて購入しました

もう浴衣の季節が終わりそうですが、
柄が私の好きな竺仙のものに似ていたものですから。

最近は、甘い柄ではなく
大人っぽい柄や色に惹かれます。
色で言うなら、藍や紺や白。
夏の深い藍色は、涼しげ。

こちらは、向日葵の柄ですが
色合いで随分向日葵の印象も変わりますね

羊の歌

2006年08月23日 | book & movie
2つの図書館から計11冊も、
加藤周一さんの著作を借りてきました。
とことん、彼のことが知りたい。
今はそんな気持ちです。

読み始めたのは、岩波新書「羊の歌」。
これを二十歳までに読むと、その後の人生が変わると
評している方もあるくらい。
若干その年齢を過ぎてしまったけれど、
まだ効果はあるかしら。

加藤さんの文章は読み易い。
批評家というのは、時代の中で世を見通す目を持ちながら
実際に声をあげないことで非難されることがしばしば。

なぜなら、客観的に「もの」を見なくてはならないから
ある主義や行動の中心にはなれない。
人は、物事の渦中では冷静な判断は難しいものだから。

しかし、彼は違う。
少なからず、彼は一般的な批評家達と違う。
この間、私はそういう人が居る事を目の前にして知った。
批評家が、いつ傍観者をやめたのか気になる。
それは、この自伝的な本の中で見つけられるだろうか。

秋にはまだ少し早い。
でも幾分夜風が今夜は涼しい。

先日、生けたカラーのお花の写真を添えて。
この花のようでありたい。

SAYURI

2006年08月22日 | book & movie
先日、DVDで映画「SAYURI」を見ました。

この話の原書「Memoirs of a Geisha」の表紙に惹かれて
大学時代に紀伊国屋さんで洋書を買ったのがそもそもの始まり。

あの頃は、いつか映画になるとは思いませんでしたが
その後、翻訳が出て、再度読みました。

この映画については、英語で日本のそうした世界を表現している
ということに見る前は抵抗がありましたが、
見て見ますと、それはそれで楽しめました。

今でも、海外の方に、日本と言えば?と尋ねると、
フジヤマ・ゲイシャなどの典型的な返事が返ってきます。
映画もいささか、偏見が混ざっているようにも感じました。

しかし、映像がとても綺麗です。色彩豊か、豪華絢爛

最近、舞妓さんの募集もHPで始めているようですね。
こうした文化の継承者は年々少なくなっている
ようですもの、在り得る話です。

私も人に冗談で「舞妓さんになれば似合うわ~
なんて言われた事がありますが、今でも自分が京都に生まれていたら
数年間舞妓を経験したいな~なんて思います。
でも、高校に行けないとしたら嫌。ダブルスクールのようなら
いいのだけど。。。

だって小さい頃から、歌も踊りも着物も大好きですもの、
好きな習い事が山ほどできるなんて夢のようですわね。
勿論、現実はそんな生易しいものではないでしょうけれど。

映画では、チャン・ツイィーの舞は美しくてうっとり。
皆様も、外国から見た日本の美をどうぞ堪能なさりませ。

金魚の箸置き

2006年08月21日 | tableware
毎日、暑い日々が続いていますね。

少し涼しさが味わいたいと思い、
藤田喬平ガラス美術館で購入した
ガラスの箸置きを使ってみました。

箸置きは、あまり数を持っていません。
小物ですが、なかなか気に入る箸置きを
探すのは難しくて・・・。
でも、ここの美術館にはいくつも素敵なものが
ありました。

写真が見づらいですが、金魚が泳いでいて
涼しげでしょう

ガラスでも、宝石のようでしょう。
ガラスの輝きが大好きです

宝石に似て、宝石に非ず、
されど、我が心をば和ませむ。

瀬をはやみ岩にせかるる滝川の

2006年08月20日 | poem
瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末に逢はむとぞ思ふ
                         崇徳院
和歌が昔から好き
詠むことは最近しないけれど、また詠んでみようかしら。
とふと思った。

百人一首の中では、この歌が昔から好き。

崇徳院の歌です。
本当は政治的な意味もあるらしい。

切なくて、情熱的な歌でしょう

日本には、こんなに美しい和歌がある。
というより、日本語って美しいと思う。

加藤周一の姿勢

2006年08月20日 | study
昨日の講演会は、街の情報誌を見ていた母が気付いて
行く事ができたことに感謝する。

白州正子さんが、本の中でこんなことを述べている。
「母(樺山常子)の遺言ともいうべき、
『人は死ぬまで勉強しなくては』という言葉だけは
忘れられない。」

名も利も求めず、ただ、ひたすら自らを磨き、高みへと
導いた人々の中に著者は母の存在を挙げている。
ここからは、長文になるので読まれる方は覚悟必須。

ところで、昨日の講演会を中座してしまった方も
いらしたようなので、
最後の質疑応答の内容をここに書きたい。

まず、質問は10人から出されたが時間の都合で
信濃毎日新聞の司会者が意見を絞り、
4人の質問に加藤周一氏は答えられた。

質問その1.「病気を治しているのか、寿命と闘っているのか
分からなくなり虚しくなる事がある。(おそらく医師の質問)」

加藤氏「寿命は、人によって伸長があるものである。
    しかし、できる限り生かす。自然の寿命に抗しても
    生かす、というのが私の意見です。これは次の
    安楽死の話と関わってくる。」

質問その2.「安楽死についてどう考えているか。」

加藤氏「安楽死は、本人の意思で決めるべきことである。
    本人がしっかりしている時に確認しておければ
    一番いい。家族や周囲の意見ではなく、本人に
    沿うべきである。しかし、本人の意思も変わる
    ものである。だから、私は自然の寿命に抗しても
    生かしたい。」

質問その3.「アメリカの医療をどう思うか。」

加藤氏「アメリカの医療水準は高い。これは先程も述べた
    通りである。しかし、その医療は社会の弱者に
    対しては遅れている。
    市場主義で行くと、お金はある人はいい教育を受け、
    いい医療を受けれる。だから、私は社会主義が必要だと
    思う。なぜなら、勝てる人はいいが、勝てない人も
    いるからである。解決策・・・、私は政府が介入し
    医療と教育だけは平等に近付けるようにすべきだと
    考える。」

質問その4.「敗戦後、日本で民主主義は育ったと思うか。」

加藤氏「これは、質問自体が的確ではない。なぜなら、
    民主主義は、かつて育ったことはないからです。
    民主主義というものは、年中完成されたことは
    ない。いつ、民主主義ができた、という時はない。
 
    なぜなら、民主主義は過程である。方角である。

    民主主義というのは、目標そのものでなく、目標に
    向っていくことである。目標に向って進むことで
    ある。

    しかし、育ったというのなら育ったと言えるでしょう。
    それは歴史的な意味です。主権の位置を考えて下さい。
    現在は、どこにあるかを。
    だが、歴史的考察においてもそう言い切るのは難しい。
    なぜならば、1920年代と1930年代においては違うからです。

    1920年代と現在ならば、1920年代の方が民主的であった。
    現代以上に、言論の自由があった。
 
    1936年以降と現在を比較するならば、明らかに今のほうが
    民主的です。自由はあります。
    だが、何を持ってして民主的というかは難しいのです。
    アメリカは、国内ではもの凄い民主的ですよ。
    海外では、全く違いますが。ヒトラーの頃のドイツは、
    国内も国外も侵略的でした。ムッソリーニは、同じ
    ファシズムといえ、ヒトラーと同じではない。
    スペインのフランコ将軍を考えて下さい。彼は、国内では
    徹底的なファシストでした。自分でそう呼んでいるんです
    から・・・。しかしね、対外的には、一度も戦争をして
    いないんですよ。ただの、一度もです。
    国外に対しては、民主的でしたよ。
    ですから、民主主義もあらゆる組合わせがあるわけです。
    内外が、必ずしも統一的ではないんですよ。

    北欧の医療とアメリカのがどう違うか、ということですが、
    これも難しく一概に言えないのですよ。
    北欧をスカンディナビアとしましょうね。彼らの歴史は、
    其々違うんです。ただ、王権は民主的ですよ。
    王はいますが、非常にその在り方は民主的です。」

という事でした。私は、自分の浅はかな知識を振り絞ってまで
質問などとてもできないと思われたのでこの質疑応答から
加藤周一の「基本的なスタンス」を感じる事ができて良かった。

彼は、最後に主催者の方の御礼の言葉があるのに、
話し終えると帰ろうとしていた。
舞台の中央を離れ、端の方まで来て、慌てた主催者側が
端に椅子を持って来て差し出した。
そうした事は、どうでもいい事のようだった。
私は、その一コマを見ていて彼の人柄に心打たれた。
その姿に、87年間、人間を問い、どんな存在でも愛したであろう
一人の人間の美しさが感じられた。
私は、ただただ、泣きたかった。どうしてそんなに
涙が出そうになるのか分からなかった。

加藤周一との出会い

2006年08月19日 | study
この夏、私にとって深く心に残る出来事があるとすれば
それは、今日という日に他ならない。

旅行でもなく、お稽古事でもなく、
仕事上の研修における研究でもなく(それは相当興味深かったが)
ただ、今日の一日の中のほんの数時間という時間、
それがかけがえなく心に響く。

加藤周一、その人の名を目にしたのは高校生。
現代文の問題だったか、受験問題にその人の評論が
載っていて問題と文章に格闘した記憶がある。
梅原猛との対談の本も読んだ気がする。

このような片田舎の地元に、その加藤周一が来る事を知って
狂喜して出掛けたのは、単なる私の文学・哲学者好き故である。

加藤周一は、東大理三を出た医学博士であるが
それ以上に、文学者でもあり、評論家でもある。
今日の講演のお題は「社会と医療の未来」であったが、
彼の語ろうとする事は、もっと本質的な人間存在に
関わるものであったと思う。

何故、こんなに心が震えたのか分からない。
このような経験をすることは少ない。
しかし、確かにそこに戦前・戦争中・戦後の日本を
生きた偉大な知識人の「人間という存在への問いかけ」が
私に「生の意味」をひしひしと感じさせた。
また、私に高校時代・大学時代に哲学や批評を主とする先生や教授達と
対話した充実した空間を思い出させ、
今回の講演の最後に話された「Le médecin de campagne 」
という概念はフランスでの大学時代を思い出させた。

こうした空間が持てれば、
それは何よりも幸福な時間になる。
加藤氏の話を聴いて、サルトルではないが
engagementという姿勢を自己の内に持とうと思った。

近頃、Times等新聞にレバノン国民の酷く傷ついた姿の写真が載る度に
胸が痛んでいたので、平和の何たるかを考える大切さを
講演の向こうに垣間見せる加藤氏に感銘した。