Drマサ非公認ブログ

看取りと夫婦愛

 前回西部邁『保守の真髄 老酔狂で語る文明に紊乱』(講談社2017年)を取り上げ、宿命の意味に「触れて」みた。

 「触れて(ふれて)」とあえて書いた。ちょうどコロナで人の接触が制限されているので、少し「触れて」みたい。

 「触る(さわる)」と「触れる(ふれる)」はニュアンスが違う。

 「さわる」は物理的な接触を意味する。「ふれる」はそういう意味をも有するが、非物理的な意味を伴う。「心に触れる」「琴線に触れる」など物理的ではない精神的な領域も含む。噂を「触れ回る、触れ歩く」という。噂を触ったりはしない。言葉も「さわる」のではなく、「ふれる」ものである。

 ということで、ハグしたり、握手しなくても、人の心には「ふれる」ことができる。離れていても、心を察したりできる。察するには「ふれて」いる必要がある。直接的、物理的接触だけが人間のコミュニケーションではないという当たり前の事実だ。

 さて、そこで西部著である。その中で「触れて」くる言葉があった。それをこのブログで報告だ。

 西部先生は奥さんの看病を8年間もしたという。そういう看病をしたことに自らも満足しており、見送られた奥さんもまた「一応の満足を覚えているように見受けられた」という。

 そこで夫婦の関係を次のように言う。

「夫婦関係の根底には、相手の死を看取るという暗黙とはいえ強固な契約が据え置かれているように考えられるのである」

 僕は腑に落ちた。「なるほど!」と思えた。西部さんの文章の意味に「触れる」ことができたと思った。ちなみにキリスト教で婚姻の際、神の前で誓いの言葉を行うのは同様の意味だとも。

 さて、僕たち夫婦関係はそうなっているだろうか?多くの人々はどうだろうか?「最期は見とらねば」と行動する人は多いし、「看取れなかった」と後悔する人も多い。西部先生は夫婦に限定される「暗黙とはいえ強固な契約」としているが、もう少し広い関係性のような気もする。

 愛するということが、死を抱えることを知ったような気がした。妻に言ってみたところで「何言ってんの?」という顔をされるだろうけど。

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