Drマサ非公認ブログ

ニーチェの道徳論からの雑感⑷

 ここで道徳の系譜を本当に手短かにラフスケッチしてみよう。

  まず原初の人間は本能や欲求に支配されている。これは先に述べた通り理念型に過ぎないかもしれない。ホッブスの自然状態のようなものである。本能や欲求であるから、人間行動の規範は道徳という水準には至っていない。

  次に想定できるのは、部族社会を構築し、Realな共同性に生きる人々の生活がある状況である。この時、この共同性が要求する行動規範や禁止の体系が存在するにちがいない。この行動規範は欲求を禁止するものとして現れる。ある部族の研究では、自己の欲求を制限することが徹底化する。

 人間の本能や欲求に支配されている場合、他者との関係性を考慮することなく、貪欲に満たそうとする。簡単に言えば、独り占めしようとする。そこで、独り占めしようとする欲求を禁止するのである。自己の分け前さえも他者に与えることが推奨され、その規範を身につけていく。この規範は贈与体系を生み出すことになる。欲求の禁止は他者との共同化という規範になるが、この時、道徳が散種されている。

  次に共同性が拡大される。農耕による富の集積を背景に、この富を集積し、あるいは宗教的な権威のある者が生じてくる。古代国家である。古代国家においては、当然Realな共同性に人々は生きてもいるが、拡大された共同性は現実の生活とは異なる水準で人々の生活に影響を与える。その象徴は王である。王の意向は守るべき、あるいは守らなければならないとの力を有してしまう。なぜなら、権威を有するからである。ここに支配—被支配という関係性が実体化される。

 実際には見たこともない存在が王であることもあるから、それはVirtualな存在なのだが、人々はVirtualであるなどと差別化することもない。この王や宗教、権威が命じる事が道徳として人々に与えられる。人々はこの時、強制されているなどとは思わない。特に宗教の力は、その命じた法、律法、戒律などを遵守することを正しい行いと信じさせるに十分な力をもつからである。今ここで道徳という人々への強制の体系が、自然化する。

  共同性の拡大は具体的に目で確認できる領域を乗り越える。国家の拡大はVirtualな領域を拡大させていく。古代国家から中世を経て、近代国家になっていくと、王が撤退していく。つまり民主化である。国家権力の源泉が王から国民へと変更すると、権力の現実的な目に見える存在が失われる。大統領はその代行でしかない。

 そうすると、権力自体の源泉がVirtualになっている。このVirtualは我々国民自体であるとの偽装を有する。なぜなら国民は多様であるから、ひとつの方向性にまとめられることは、実際はありえない。それを制度や手続きに基づいて、ひとつの方向にまとめ上げるという跳躍を行う。そうすると、そこから要求されることが道徳性を持つのだが、それが正しい信念のような見かけをもつ。これは民主主義という点だけではなく、資本主義、そこから生じる価値規範へと広げられる。例えば、成功であるとか、金持ちになるとか、国家に奉仕するとか、そういうもう少しばかりの具体性を生活領域に浸透させる。

  これが現代の道徳のありようである。ニーチェはこのような現代の道徳のありようが持つ虚構性を見事に暴露している。そもそも道徳とは自由を奪っているのだと。

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