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海辺の暮らし

アドリア海に面した海辺の小さな町での生活日記

クルーズ

2010-08-22 | ひと(り)ごと
こばとが海から帰るなり

‘ママぁ、アンナに帽子もらった。クルーズのお土産だって。’



アンナはこばとの同級生。どうやらエーゲ海クルーズから帰ってきたらしい。
パパは魚の中卸業をやっていて普段から羽振りのいいうちだ。
夏休みのピーク時に家族でクルーズ旅行なんて、、相変わらず、さすが。

しかしながら巷の話だと、今年は空前のクルーズブームらしい。

イタリアにもいろんなクルーズ船が運航しており、ここヴェネチア発着も数多くある。
値段も一昔前とはかなり違っているようで、ピーク時を除けば1週間1人500ユーロくらいのものも。
そればかりかどのクルーズ会社も子供(高校生くらいまで!)は無料だ。

とはいえ、開けてみればそれだけですまないのがクルーズ旅行なのだが、、。


‘いいなぁ、アンナ。 こばともクルーズ乗ってみたいなぁ。。’

‘乗ってみたいって、こばと、それ10年早いんちゃう?’


と言って思い出したが、

私が初めてクルーズ船に乗ったのも20代の頃だった。

       でもそれは‘仕事’で。



 
私は20代の一時期、大型客船で働いていたことがある。


英国籍のその船は
   
最新技術&設備をそなえた今のそれとは比べようにならないほどの‘オンボロ’?!
いや、歴史ある船、クルーズ料金も決してお手頃とはいえなかった。
なのでお客のほとんどがその歴史と名声に惹かれてやってくる世界のお金持ち(=老人)。

彼らの案内が主な仕事内容だったが、
今から思うと仕事というよりクルーズ見学させてもらったような日々であった。


実際そこでいろんなことも学んだ。

クルーズというのは出航した(陸を離れた)時からそこが1つの社会になる。
働いてる者とバカンス客とには大きな違いがあるとはいえ、
華やかに見える船の生活にもそれぞれいろんなことがある。

その生活(人間関係を含む)が合うかどうか、がクルーズを続ける上で重要な鍵になる。
2,3日の旅ならいいが、1ヶ月以上にもなると尚更だ。

最初は船旅への好奇心や訪れる国々への興味とで尽きることがないが、
そのうち慣れてくると、変らない景色、日々の単調な流れ、狭い人間関係に物足りなくなる。
(特にそれが顕著に出るのが日本人)

そうして、私もそうだが


その後降りていった者もいれば、そのまま残って旅を続けた者もいた。



あれから20年。。。私がクルーズ船に再び乗ることはなかった。




毎週日曜の夕方、
うちの前の海の彼方にギリシャ行きクルーズ船が通るのが見える。

おかしなもので、

最後はあんなにウンザリしていた船なのに

今、またこうして目前に見るとムショウに懐かしくなる時がある。




こばとには10年早いと言ったものの、、

そのうちクルーズもわるくないかも。。(もちろん近場、オフシーズン+子供タダで!)


という思惑がふと頭をよぎった。





Life

2010-08-06 | ひと(り)ごと
イギリスBBC製作、EARTH‘Life(ライフ)’というドキュメンタリー番組を見た。

どんな内容かというと自然、そしてそこに生きる生物達を捉えたもので、
月日をかけて取材した貴重な映像は構成も技術も素晴らしく目を見張るものだった。

全4回の放映だったが、
毎回見ていて、ある1つのことに気がついた。

それは

そこに登場する‘生き物(植物を含む)’たちがしていることとは、けっきょく、

生まれて、食べ物を探して、繁殖相手を探して、生んで(からすぐ死ぬ=終わるものもいる)、
の繰り返しである。

とはいえ私たち人間同様、すべてがそう簡単にいくわけもなく、
そこにはそれぞれの戦いやドラマがある。

それでも最終の目的、つまり生きるということは‘種族を残す・守ること’なのであった。



これを見たあとふと思ったのだが、

最近、日本のニュースで頻繁に見る‘子殺し’や‘虐待’とは。


私にも子供がいるのでその気持ちは

、、、‘わかる’?! そう、わかるのである。

もう親やめたい、子供いないほうが楽、と思う時はいくらでもある。
今だって10分おきに‘1人になりたい’と思ってる自分がいる。

今の時代、自分の選択で子供を持たない人も多い。
子育てに最初から興味がない、もしくは自信がない、余裕がない、自分を優先したいetc
理由は人それぞれあるだろう。
それに、子殺しするくらいだったら最初から生まないほうがマシだ。


が、これらはある意味で自然の摂理からハズれている・・のではないだろうか?

種族を残す道を自ら絶つということは、自然が存続の道を絶つ=自滅するのと同じこと。

人はいつから本能より自分の欲望を優先するようになったのだろう。
皮肉にも‘豊かな国’ほどその傾向が強いのも現実だ。



life・生きるという過程で、
親になるというのは大昔から自然の摂理に組み込まれたプログラムの1つなのである。

なのでそれによって起こる喜びや悲しみ、幸せや苦しみも
すべて生きてる証と受け止めなければならない、のかも知れない。
 
(*注 いきなり何かの宗教勧誘?!、、なわけありませんからご安心を)


今は早く1人になりたいと思っている人もいるかと思うが、1人になる日だってそう遠くはない。
 
あせってはいけない。(子供を殺したいと思ってる人たち!?!)

自分はlifeという自然プログラムの過程(猿だって鯨だってやってる)と思って身を任せるのが

‘自然の成り行き’なのかも。。



と、‘一瞬’思わせてくれた番組であった。


    





ことばの壁

2010-08-05 | ひと(り)ごと
‘言葉の壁’というと、

まず最初に思い浮かぶのは外国語がうまく通じず困ったときのことであろう。

でも今日書くのは逆の場合、(いや、考えようによっては同じなのかも知れないが)

(自分の)言葉の力に頼りすぎて、知らずに壁をつくってしまっている場合である。


それは英語を話す人達に多いと思う。


英語が今の世界で一番広く使われている言語であるのは言うまでもないし、
それに沿って各国でも英語教育に力もいれている。

かくいう私も学生時代をアメリカで過ごし、その後も英語をともなう仕事に何年も関わってきた。
なので(私はさておき)まわりには英語を流暢に話す人も多いのだが、、


彼らに1つ共通していえるのが   

‘外国語オンチ’

つまり‘他の言語’‘英語を話さない相手’への勘がすこぶる鈍いのである。



それがなぜだか考えてみた。

で気付いたのが、、‘英語’が壁になっているんではないかということ。

これだけ英語が世界で通用されている今、
英語が通じて当たり前という潜在意識が彼らのどこかにある。



英語が母国語でない国にて、そんな光景を何度も見た。

レストランで、空港カウンターで、買い物先の店で、
うまくいってるときはいいが、何か支障があると声高々に早口で浴びせる英語のシャワー。
それを受けて不快感を見せる、困惑する、または唖然とする現地の人。


本人は気付かないかもしれないが、
端から見てるとその傲慢な態度がすでにまわりと‘壁’を作っている。

そしてその壁によってそのあと‘それなりの扱い’しかされてないことが多いのである。



もちろん、その国の言葉を勉強してから来いと言っているのではない。

ただ、その国の言葉、人(の気持ち)に歩み寄る姿勢があれば、この壁はカンタンに崩せる。



私はその後、仕事やプライベートで英語圏以外の国で暮らす機会が多くなり、
気付いてみれば、英語圏でない国で暮らす年月の方が長くなった。

だからというわけではないが、‘英語を話さない人’との英語の話し方が少しわかるようになったと思う。


これから英語圏以外の国にて英語で旅する人に、少しだけアドバイスするとすれば、

話すときはゆっくり、短かく、わかりやすい言葉・言い回しを選んで、‘あなたの言葉は話せないんだけど’
という謙虚な気持ちを持って接すれば、自分にもその国の人にも気持ちの良い旅ができると思う。

今さらだが、いくら言葉が上手に喋れても相手に通じなければ意味がないわけだから。。




最後にもう1つ、

私の友人で世界各国を‘あやしい英語’で旅行してた人がいる。

しかし、どの国に行っても地元の人に親切にされ、いろんな経験をして帰ってきた。



この人に‘ことばの壁’がなかったのはいうまでもない。












おふくろの味

2010-05-09 | ひと(り)ごと



イタリア人が食道楽なのはいわずと知れた話。
すでに世界中、日本にもかなりの料理が渡っているが、
本当のイタリア料理の真髄は家庭料理にある。

と何かの本に書いてあった。

各家庭ではおのずと知れた‘おふくろの味’があり、
それは時代を超えて代々引き繋がれていく伝統の味でもある。

と私も思っていた。

たしかに厨房におけるイタリアン・マンマの威厳たるものは
他の誰をも寄せ付けないほど凄いものがある。

しかしどこの家庭もそうなのかというと、

そんなことはない。たとえば、

私の姑は料理が大の苦手。
そのせいか私の夫には‘おふくろ(マンマ)の味’がない。

‘ほんとにないのか?’とあらためて追究しても、
‘あのカボチャのリゾットは最悪だった’
‘1週間同じもの食べさせられた’
と聞けばきくほど悲惨な答え。

こういうわけで、我が家の‘マンマの味’は、
たまに会うトリノの義姉の手料理か、友人宅でご馳走になったもの、
私が外で食べたり本でみて覚えたものなどで賄っている。

イタリアに嫁ぎながら(死語ですね)
かくも名高い‘マンマの味’を伝授してもらう機会がないことを、
残念だなと思ったこともないこともないが、

実はそれはそれでかえってよかったかもというのもホンネである。

なぜなら、この‘マンマの味’こそ
家庭の平和を脅かすクセモノと化すことが多いからだ。

実際、私のまわりでも何人の嫁たちがこの‘マンマの味’に振り回されてることか!

それにひきかえ私の姑、テーブルに出たものはすべてニッコリ平らげてくれる。
当然、夫にも料理を比較(イタリア夫によくある)されたこともない。

思うに、嫁の立場だったら
おいしいものを作る姑がいるより、
おいしく食べてくれる姑がいてくれた方が得かもしれない。

おいしいものは、どっかでも食べれる。


ところで思い出したが、
そんなうちの姑にも1つだけ、いや2つ得意料理があった。
‘ポレンタ’と‘ブロード’

ブロードはこのプログにも何回か顔を出すいわば‘コンソメスープ’
肉の塊と香味野菜を煮る、だけ。

ポレンタはベネト州を中心とした北の食べ物で
とうもろこしの粉を練って作った、料理のお供に食べるもの。

これらを作らせたら姑の右に出るものがいない。(とは誰も言ってないが?!)


しかし、
ブロードはさることながら、私もこばともポレンタはいまいち。
それで育ったハズの夫も‘そればかり食べさせられたんで’と苦い顔。

どうやら我が家においての‘おふくろの味’は絶滅の道をたどっているかもしれない?!



VIVA le mamme !!






ひとりごと

2010-05-04 | ひと(り)ごと
          今日の‘みどりの日’にちなんで、というわけでもないですが、

             
                 目が覚めるような一面黄色の菜の花畑                  
                                        
                              
藤の花もいたる所で咲いてきてます。             近所の公園にて

私は青い花が大好きなので、
自宅に藤棚があったらどんなに素敵だろうと夢見ているものの、
大好きなイヌが飼えない理由と同じく、庭(木)を持つ生活になれるのはいつのことやら。。


で、代わりにということで

クレマチス、買っちゃいました。
(前記であれほど花はヤメルと言ってたのに)
チューリップも終わりに近づいてるし、ま、春ですから、ね。


で、春といえば

最近、ひとりごとを言ってるひとによく出会う。

街で服を見ていたら、、、‘どれも痩せてる人用の服ばかり!太ってる人のことは考えないのか’

スーパーで生クリームを探していたら、、、‘1パックの量が多すぎる!もっと小さいのも作ったらいいのに’

道を歩いてたら、、、‘イヌの糞が多すぎる!飼い主にモラルはないのか’

いや、もっと正確に言うとこれらは独り言ではなく、彼らは誰にともなく話かけているのである。

ただ、最初から返事を期待することがないだけのこと。

こういう人を多く見かけるようになったのは‘春’だからか?

それともストレスを持ってる人が多いのか?

もしくは1人ぼっちで孤独を抱えてる人が、、、



なんだろう、ねぇ、、、と呟く自分、、ひとごとではない予感。。。