21st schizoid mannerism

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フランプトン 「現代建築史」興味と引用

2007-11-03 14:17:30 | Weblog
構造主義の視点
実存、現象学の下部構造の存在
主観の規定要因

アルド・ヴァン・アイク
「変化を求めて過去から出発しよう。人間の不変の条件を発見しよう。」

「迷路のような明晰性」

「私は過去に対して感傷的な好古家的態度をとりたくない。また同様に、未来に対して感傷的な技術官僚的態度をとりたくない。」
→双対現象のはざま

「機能は形態に従う」というタイポロジーとの共通性

アイクからヘルマン・ヘルツベルハーへ
「多価値的空間」へ
「われわれが探求しなければならないのは、個人的生活パターンを集合的に解釈する原型ではなく、集合的生活パターンを個人的に解釈できるような原型の形態」(p515)

セントラル・ベヒーアでは、全体にわたって、仕上げの無いコンクリート・ブロックによる間仕切りがあり、これは「無政府的」な空間の占有を誘発しているかのようである。」(p519)

構造主義の原典
レヴィ・ストロース「野生の思考」
浅田彰「構造と力」





アメリカの傑出した建築家
ミース・ファン・デル・ローエとルイス・カーン

「彼らは、この歴史という遺産を解体すること、ならびに、その規範と構成要素を時代の技術的能力にあわせて再集成することに拘り続けた。」

ミースの誤解?あるいは縮小再生産について
「歴史に名を残す「巨匠」と呼ばれる建築家において、ミースとカーンくらい後継者たちから誤解された建築家もいないだろう。ミースが有り難がられたのは、彼が1950年から75年にかけて、アメリカ企業の建築の標準的形態をみごとに公式化したからである。(アーサー・ドレクスラー企画の「企業と政府の建物」展、MoMA、1959年、参照)
(中略)後継者たちは、誰一人として新たな出発点に到達できなかった。おそらく彼等は、ミースの作品の背後に潜んでいるロマン的古典主義やシュプレマティズムの側面を十分に理解できなかったためであろう。同じようにカーンも、「フィラデルフィア派」と呼ばれる弟子たちがいたのだが(ムーア、ヴェンチューリ、ヴリーランド、ジョゴラ)むしろイタリアの新合理主義やオランダの構造主義の中に、遥かに感受性に富んだ後継者を見いだすこととなった」(p526)



レイト・モダンからポストモダンへ
「これまでレイト・モダンの立場をとていた多くの人たちも、グレイブスと同様、ごく最近になってポスト・モダニズムの立場へと転向した。ジェームズ・スターリング、フィリップ・ジョンソン、ハンス・ホライン、ロマルド・ジョゴラ、モシェ・サフディ、ケヴィン・ローチなど。それぞれの作品には、「素材感を喪失した」歴史主義という言説が、意識的に内包されており、事実、近代主義の断片が無作為に混在している。しかしたいていの場合、その結果は要領を得ないものである。現在見られるこうした「著者の消滅」というような現象は、スターリング「シュトゥットガルド国立美術館」に明瞭に見て取れる。
およそ背景画的手法とは無縁だが、全体の表現は非構築的である。つまり、この建物はホフマンやアスプルンドに近い。とりわけ、アスプルンドの1939年の、「森の火葬場」に近い。スターリングの初期の作品に影響を与えた前衛的構成主義の影響は薄い。スターリングとアスプルンドの違いもまた見逃せない。とくにここでは、アスプrんドの自由都市的感覚、言い換えると、彼の平等主義的な市民へのアイデンティティへの思いが、スターリングの「古典主義的大衆主義」に置き換わっている。」(p530)

新前衛主義
アメリカにはアルド・ロッシの追随者が大勢いたが、たいした進化はない
→アメリカの都市は、伝統的なヨーロッパの都市と同じような類型学や形態学による複雑形ではない。「モニュメントの連続性」という命題は、都市の文脈自体が安定していない社会では、とうてい信じられるはずがなかった。

戦前のヨーロッパの前衛ににならった、理論的で芸術的な活動「ニューヨーク・ファイブ」アイゼンマンとジョン・ヘイダックは、それぞれ、ジュゼッペ・テラーニとテオ・ファン・ドゥースブルフをモデルとした。
残る3人、マイケルグレイブス、チャールズグワスミイ、リチャード・マイヤーは、ピューリスム時代のコルビュジエを出発点とした。

ヘイダックの初期の作品には、新造形主義(ネオプラスティシズム)や後期のミースからの精神的刺激が等しく折衷的に影響している。
ヘイダックの挑発的な計画案「ダイアモンド・ハウス」シリーズ(1963~67)わけても「ウォール・ハウス」(1970)

このような20世紀の前衛たちが打ち立てた芸術的、そしてイデオロギー的な前提条件を自らの作品の基盤にした建築家ーOMA、レムコールハースもあげられる。
彼等の都市計画が、イワン・レオニドフのシュプレマティズム建築に基づいていることを断言している。


1983年、パリの「ラ・ヴィレット公園」のコンペ
チュミの一等案は、後に「脱構築主義」の起源と呼ばれる。
その中心的な構想は3つ

①アイゼンマンの「カナレッジオ計画」
②『バウハウス叢書』第9巻で提起されているワシリー・カンディンスキーの「点・線・面」による教育プログラム
③ソヴィエトの前衛的映画監督クレショフが先鞭をつけた、映画の断続的カッティングの技術による「離接的空間の物語性」というアプローチ

→ロシア構成主義から、ロベルト・ブーレ・マルクスやオスカー・ニューマイヤーの初期のランドスケープデザインに見られる「等高線の結婚」に至るまでのさまざまな先例に基づきながら、反古典主義の建築を熱望した。」(p538)



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