21st schizoid mannerism

書き殴り捨てさkdぁえjlうぇfかdさ

建築と断絶

2007-11-19 14:43:52 | Weblog
序文

プログラムや行動やイベントなしに建築はありえないp7

建築形態という過大評価された概念に対抗して、これらの文は「機能」という言葉を再導入する。(中略)だがこれらの文は、形態は機能や利用や社会経済条件に従うという単純きわまる関係を拒否する。形態や利用方法や機能や社会経済条件の間のいかなる因果関係も、成立しないし、時代遅れだ、というのがこの文章の主張である。p8

歴史分析が通常支持していた見方とは社会機構のイメージを地面に投影し、社会の経済政治的構造を建物や建物群に翻訳することである、というものであった。したがって建築とは、何よりも空間を既存の社会経済構造に適応させることなのだった。(中略)こうした結論は、当然ながら自分たちのデザインで世界を変えたいと願う若き建築家たちにとって、快いものではなかった。(中略)「デザインを条件づける」のではなく、「条件をデザインする」には?70年代の初期、AAスクールで私が教えていた講義は、「都市政治」と「空間の政治学」(中略)これらのテキストの一つは、「環境的引き金」と題されていた。つまり、都市や建築は、いかにして社会・政治的変化の引き金となりうるのか?

建築の内的矛盾はずっと存在していた。それは建築の本質の一部ですらある。建築は、相反する二つの概念をめぐるものなのだ。その概念とは、空間とその利用、あるいはもっと理論的な意味においては、空間のコンセプトと空間の体験である。p18

空間とイベントの断絶は、それらが共存せざるをえないという事実とともに、われわれの時代の特徴であること。p20

「プログラム」「機能」「利用」「イベント」などと呼ばれる建築の構成部分の問い直しは、今日大きな重要性を持っている。空間の作られ方と、その中のプログラムとの間には、単純な相関関係は存在しないし、さらにこの現代社会においては、プログラムはその定義上不安定なのである。p23


同時に空間とイベントであるもの、という建築の定義は、政治的考慮へとわれわれを差し戻す。より正確には、社会的実践と結びついた空間の問題といおうか。もし建築が純粋形態でもなければ、社会経済的制約や機能的制約のみに決定づけられるものでもないなら、その定義の追求はどうしても都市の次元に拡張されざるを得ない。現代都市の拡張や縮小を統御する、複雑な社会・経済・政治的機構は、建築やその社会としての利用にも影響を与えてしまう。空間はどうしても領域や縄張り、つまり社会的実践の環境を決定づけてしまう。社会は空間を生みだすが、一方では社会は常に空間の囚人である。空間はすべての活動のための共通の枠組みであるがゆえに、それはしばしば、社会の矛盾を隠蔽するための均質性の外見を与えるように、政治的に利用されるのだ。

最新の画像もっと見る