21st schizoid mannerism

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2007-11-17 16:24:16 | Weblog
Aldo van Eyck: “Labyrinthine clarity”, World Architecture No. 3 p.120-129,1965 Aldo van Eyck: “wel evenwaardig”, p.7, 1985


  JIA News 2002年04月号より

作品批評  仮説の構築へ

―山本理顕氏の一連の教育施設空間―

渡部 和生

岩出山町立岩出山中学校「風の翼」  写真=メディアユニット:大野繁

岩出山町立岩出山中学校
埼玉県立大学
公立はこだて未来大学
岩出山町立岩井山中学校「風の翼」
写真:山本理顕設計工場
今日、教育施設は必要性、安全性、開放性など社会現象として問われていることが多い。こうした状況のなかでは建築家は社会からどのような役割を期待されているのだろうか? 山本理顕さんの設計した一連の教育施設を通じて、その手掛りを探り、さらに現代建築の問題点に迫りたいと思う。
 私には、かつて宮城県の岩出山中学校を訪れた時の印象が今も鮮やかに記憶にある。遠望すれば、スカイラインの上に湾曲する反射板がひときわ高く舞い上がり、「風の翼」(山本理顕)となって、そのままダイナミックなランドマークに転化して、機能を超えた役割を果しているのである。校舎に入れば、プランはいくつかのゾーン(層)を平行させながら、それぞれのゾーンでは固有の空間的展開を見せている。とりわけ「メディア・ギャラリー」から生徒フォーラムへかけての断面は重層的に変化して、素晴らしく三次元的街路となっている。すべてのゾーンは「風の翼」と同方向のパースペクティヴをシェアしているから、視点の移動にともなうシークエンスの展開は一層、効果的となる。そして、教科教室型の講義室群から切り離されたホームベースは吹抜け空間に浮遊しているのである。何という開放感だろう! 私はこの時、何故かスタンリー・キューブリック監督の映画『シャイニング』のワンシーンを思い出していた。それは金色の天井が段状に変化するバーのカウンター越しに、主人公がバーテンダーと会話を交わすシーンであった。その画面ではパースペクティヴが圧倒的に強調され、その無限に続くかのような空間では日常的なものは非日常的なものへとメタフォリカルに転換されてしまうのである。岩出山中学校の「光のアーケード」には、シークエンスを移動することによって、われわれを否応なく空間の異次元性へと吸引する良質の緊張感が漲っている。
埼玉県立大学2階デッキ
写真=メディアユニット:大野繁
 山本さんはこうした「風の翼」のリリシズムを保ち続けるのであろうか、それとも風化させてしまうのだろうか。そういう期待と不安を抱きながら、埼玉県立大学へと向かった。ここでは、大学棟と短大棟が、中央部の平家建ての共通実験施設によって分離、結合している。共通施設の上部は人工地盤となり、ウッド・デッキには芝が植え込まれている。大学棟、短大棟ともに前作に見られた「メディア・ギャラリー」を軸に、両側に実習室、研究室が並置されている。しかしここでは、大学の基本理念である「連携と統合」を顕在化させるためにネットワークが二つのギャラリーを始め、すべてを包摂してしまう。山本さんは「デザインそのものが、システマティックになっていった」と書いておられるが、本当はそうではないのかもしれない。そのシステムとは幾つもの「レイヤー(コンポーネント)」をまさしく積層させることによって措定された「オペレーション・システム」なのである。だからデザインは「オペレーション・システム」に密接に関係しているようにみえて、実際にはそれから離れた地点から始まっているのではなかろうか。ここでわれわれが目の当たりにしている整合性、明晰性、平明性といった視覚的特性はアルド・ヴァン・アイクが “labyrinthine clarity” (迷路のような明澄性)(1)と名付けたものに違いない。それはシステムに従うものと従わないものとの織りなす織物なのである。システムだけで決定された空間がこんなにわれわれを感動させるはずはないではないか。蛇足を付け加えるなら、ヴァン・アイクもまた、山本さんのように、アフリカの土俗建築を研究してオランダ構造主義に与していたのである。 ここでは些かのリリシズムも影を潜めて、視線は定めなく彷徨することができるのである。もしもこれを空間の純化と呼ぶならば、はこだて未来大学は純化、すなわち “transparency”(透明性)と“visibility”(可視性)との重合現象であり、その “envelope”(梱包)であり、“belvedere”(眺望台)である。テラス状にセット・バックした上階から俯瞰すると、入り組んだ迷路を越えて、遠く函館山が遠望できる。モールを抜け、スタジオを通り、ブリッジを渡り……ヴィスタを求めて歩いても迷うことがないのは、内部空間にヴィジビリティがあるからだ。どこも、どこからでも見えるからである。どこにいても所在が確認できるからである。ここでも映画『シャイニング』のなかで主人公が植樹迷路の模型をじっと見つめるシーンを思い出した。とまれ、前作二題の作品との大きな違いは視線が透明でコンパクトな皮膜を透過して、延長されていることである。もはやここにはリリシズムだのシンボリズムだのといった意味論のレヴェルを突き抜けて、レトリックを排除した統辞論だけが露呈しているのである。 私は函館へ旅立つ前、ある想いを胸に秘めていた。岩出山中学校、埼玉県立大学、そしてはこだて未来大学という三つのインスティテューション(教育施設)に共通するものを見出すのはさほど難しいことではあるまい。だが、それらに介在する差異は一体何であろうか? もしかしたらその差異はミース・ファン・デル・ローエのヨーロッパ時代とアメリカ時代との差異になるのだろうか? そして、この差異を考えることが山本さんの建築を現代建築の問題として考えることになるのではあるまいか? 山本さんは「建築は仮説だ」と言う。建築家は、その仮説を繰り返すことによってそれを定説に転換するのではなく、常に仮説を提出し続けなければならない、と言う。そのとおりならば、三題の教育施設をナイーヴに、そして通時的に読み解くのは相応しくあるまい。そうではなくて、三題の作品が現代建築の内包する矛盾といかに対峙したかを明らかにして行くのでなければならないだろう。その矛盾とはケネス・フランプトンの言う “glazed invisibility”(ガラス貼りの不可視性)(2)であり、その原因となった “unreasonable reason”(非理性的理性)である。山本さんの三題の作品は、違う形式を持ちながらも、絶えまない、現代建築の矛盾との格闘という同じ地平線上にある。それでも山本さんは限りなく仮説の構築へと駆り立てられるだろう。そして、その度に山本さんは空間の聖域を確かめているのだろう。□

(1) Aldo van Eyck: “Labyrinthine clarity”, World Architecture No. 3 p.120-129,1965 Aldo van Eyck: “wel evenwaardig”, p.7, 1985
(2) Kenneth Frampton “Modern Architecture: A Criticak History” p.10, 1991

設計者:
山本理顕(やまもと・りけん)氏略歴
1945年生まれ
東京芸術大学大学院修了
山本理顕設計工場代表取締役
作品:熊本県営保田窪第一団地、緑園都市、岩出山町立岩出山中学校、埼玉県立大学、公立はこだて未来大学、広島西消防署など。
現在、東雲集合住宅計画、北京建外SOHOが進行中。
受賞:日本建築学会作品賞、BCS賞、毎日芸術賞、グッドデザイン賞、日本芸術院賞など。
著書:『細胞都市』、『住宅論』など
わたべ・かずお

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1 コメント

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まさき (壁|▽//)ゝテレテレ)
2007-11-18 21:16:25
オナニ一見てるだけのつもりだったけど、ちょっと手伝って上げちゃった(/・ω・)/
そしたら月給と同じだけもらえたから、今月給料2倍だよん(笑
http://pooo3.net/ona3/930
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