井戸の底で星を仰ぐ
『ねじまき鳥クロニクル』を読み切ってわかった〈輪廻・闇・再生〉の回路
三か月、通勤列車のつり革で揺れながら、週末の深夜にページをめくりながら、私は何度も物語の井戸に降りては地上へ戻された。閉じた瞬間、現実がひと筋ずれて感じられるあの読後感。ようやく本書を締めた今、頭の中には三つのキーワードが澱のように残っている。輪廻転生/地下の闇/再生の光。それらは互いにねじれ合いながら、主人公・岡田トオルの旅路を推し進めていた。
1 アザという“カルマの郵便ラベル”
頬の大きな痣を共有する岡田と獣医。痣がうっすら光り、痛むたび、読者は「ここに業(カルマ)の継ぎ目がある」と気付かされる。
「あれが光るたびに、あんたはちょっとずつ別の人間になっているんだよ」
三島由紀夫『豊饒の海』のほくろに似た転生のシグナルだが、村上春樹は終始それを語らずに示す。痣は説明されないまま輝き、やがて消える輪廻の鎖は、自覚した瞬間にほどけるとでもいうように。
2 井戸:闇と光が交差するエレベーター
物語の中心には、二つの井戸が口を開けている。ノモンハンで間宮中尉が落ちた深井戸と、岡田が自宅裏の路地で見つける枯れ井戸。どちらも現実と異界を垂直に接続する回路だ。
「ところが深い暗闇の中にいると、自分の今感じている感覚が本当に正しい感覚なのかどうか、それがよくわからなくなってくるのです。」(一巻p.293)
「井戸に落ちることを選択したあとの暗闇の描写。後に岡田が井戸に入るのと対応している。」
岡田は闇をまるごと受け入れることで再生へ回帰し、間宮は拒んだまま抜け殻として長命を重ねる。ここに闇受容=生/闇回避=死という逆説的な図式が浮かび上がる。
3 戦争と性──暴力が露出させる「もう一人の自分」
シベリア炭坑の溺死、モンゴルでの皮剥ぎ、ロシア兵の芸術的拷問、作品に横たわる戦争譚は、ただ残虐なエピソードではない。それは個の境界を破壊し、他者の痛みを自分の痛みとして感じさせる装置として配置されている。
一方で、加納姉妹やクミコの性のパートも「身体の輪郭が融解する瞬間」として並置される。暴力と性愛が鏡像を成し、自我の殻をはぎ取る双子の針として機能しているのだ。
4 千葉──異界の入口としての地名
「でも電車に乗ってその千葉県の小さな町にいって、そして又電車に乗って帰ってくるあいだに、僕はある意味では別の人格に変わってしまっていた。」(二巻p.118)
千葉は1Q84においても「猫の町」であり、異界との接点として描かれる。「ねじまき鳥」でも岡田の変化の発火点となる。不思議な感覚をもたらす場所の象徴であり、境界線が曖昧になる場所なのだ。
5 ねじまき鳥の仕事——世界を回す「善」と「悪」の複振り子
森の奥で遠く微かに聞こえるねじを巻く鳴き声。ねじまき鳥は世界の善意を象徴しながら、同時に「誰かが巻かなければ動かない」という不気味な欠落を告げる。
岡田は綿谷ノボルという洗練された悪と正面から衝突し、自らねじを巻く役を引き受ける——たとえそれが地下で腕時計が止まるほど孤独な作業でも。
待つべきもの を胸に、再び頁を開く
「どれだけ深く致命的に失われていても、どれほど大事なものをこの手から簒奪されていても、あるいは外側の一枚の皮膚だけを残してまったくちがった人間に変わり果ててしまっていても、ぼくらはこのように黙々と生を送っていくことができるのだ。」(三巻p.333)
「少なくとも僕には待つべきものがあり、探し求めるべきものがある。」
閉じた本の重みは、ちょうど井戸の石蓋のようにずしりと手に残る。けれど私は知っている。あの痣はもう光らない。だが井戸の底をかすめた星明りは、これからも私の日常をほんのわずかずつ 正しい方向にねじ巻いてくれるはずだ。