まさおレポート

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「自己」とは何か? インド哲学と西洋の見方 その2

2018-03-30 | AIの先にあるもの

次のような思いを誰もが子供の時に持ったのではなかろうか。同じような疑問や考えを持つ科学者や心理学者はいるのだ。今後のAIを哲学として基礎づけるものが新たに必要であると思う、新たにではなく古典哲学の新解釈かもしれないが、いずれにしても自己とはなにかを解明すること無く人工知能が独り歩きすることは危険だろう。かつては哲学が科学をリードしたが、現代は科学が哲学とバランスを欠いてきているのではないかとホーキンズなども思ったのではないか、それが彼のAI危険説につながっているのかも。

私は、私を閉じ込めている宇宙の恐ろしい空間を見る。そして自分がこの広大な広がりの中の一隅につながれているのを見るが、なぜほかの処ではなく、この処に置かれているか、また私が生きるべき与えられたこのわずかな時が、なぜ私よりも前にあった永遠と私よりも後に来る永遠の中のほかの点でもなく、この点に割り当てられたのであるかということを知らない。私はあらゆる方面に無限しか見ない。…私の知っていることのすべては、私がやがて死ななければならないということであり、しかもこのどうしても避けることのできない死こそ、私の最も知らないことなのである。
— ブレーズ・パスカル (1670年) 『パンセ』、前田陽一訳

「自己」とは何か? インド哲学と西洋の見方 その1に引き続いてシュレディンガーなどがインド哲学に近い考え方をしていることがわかる。

物理的世界のニュートン力学では、物質から生命が生まれたり、物質から意識が生まれることはありえないとされる。しかし現実に生命や意識がこの宇宙に存在する。この世界そのものが巨大な量子コンピューターであり、本質はプラトン的世界であれば、私たちが生まれる前と死後はそこに戻る可能性がある直感的に生命や意識が我々の物理法則を超越していると思われるのは、その本質がプラトン的世界に存在するからである。我々の意識や自由意志の根拠を量子力学に求める(ペンローズ・ハメロフ アプローチ)

物理法則を超えるような事象(生まれ変わりの記憶、テレパシー、量子力学では時間が過去にも未来にも流れる、生命の誕生、進化、意識のハードプロブレムなど)は、この仮説で説明できる可能性がある。これは次の文に対応してみると面白い。いずれも意識や生命は別の次元だと言っている。

①「ヤージャナヴァルキヤ(紀元前8~7世紀)は、・・・地の中に住し、地とは別ものであり、地が知らず、地を身体とし、地を内部で統御しているもの、これがなんじの自己であり、内制者であり、不死なるものである。

②水の中に 火の中に 中空の中に 風の中に 天の中に 太陽の中に 方角(空間)の中に 月と星宿の中に 虚空の中に 闇の中に 光の中に(ここまでは宇宙的環境をなす要素である。仏教でいえば、器世間 生き物がいきる器としての環境世界をなす要素だといえる。万物の中に 仏教でいえば有情世間)・・・気息のなかに(生命エネルギー) 発声器官のなかに( 行為器官) 眼の中に(感官) 耳の中に(感官) 意の中に(心という内官) 皮膚の中に(感官)・・・認識の中に(感官と心という内官により生じた認識作用) 精子の中に(行為器官)・・・ヤージャナヴァルキヤは、自己は、これらすべてのなかにあるけれども、それらとは異なるものであり、それらを内から照らすものだといっている。「インド哲学七つの疑問」宮元啓一p94

 

アルプスの山岳地帯における、とある道端のベンチに君が座っていると仮定しよう。…

君が見ているものはすべて‐われわれの通常のものの見方によれば─君が存在する以前から、少しの変化はあったものの、幾千年もの間ずっと変わることなくそこにあった。しばらくのちに─それはそう長い間ではない─君はもはや存在しなくなるであろう。それでもその林や岩や青空は、君がいなくなったのちも、幾千年も変わることなくそこに存在し続けるであろう。
かくも突然に無から君を呼び覚まし、君にはなんの関係もないこの光景を、ほんのしばらくの間君に楽しむようにさせたものは、いったいなんなのであろうか。考えてみれば、君の存在にかかわる状況はすべて、およそ岩の存在ほどにも古いものである。幾千年もの間 男たちは奮闘し、傷つき、子をもうけ、はぐくんできた。そして女たちは苦痛に耐えて子を産んできた。おそらく百年まえにも誰かがこの場所に座り、君と同様に敬虔な、そしてもの悲しい気持ちを心に秘めて、暮れなずむ万年雪の山頂を眺めていたことだろう。君と同様に彼もまた父から生まれ、母から産まれた。彼もまた君と同じ苦痛と束の間の喜びとを感じた。はたして彼は、君とは違う誰か他の者であったのだろうか。彼は君自身、すなわち君の自我ではなかったのか。…はたしてこの「誰か他の者」とは、明瞭な科学的意味をもったものなのであろうか。…なぜ君の兄は君ではなく、君は遠縁のいとこのうちの一人ではないのか。もしアルプスの風景が客観的に同じものだとしたら、いったいなにが君にこの違い─君と誰か他の者との違い─をかたくなに見いだそうとさせているのであろうか。

— エルヴィン・シュレディンガー (1925年執筆/1961年出版)「道を求めて」 中村量空ら [訳]

 

無中心の宇宙が、その限りない全時空のなかで、よりによってわたしを生みだしたこと、しかもトマス・ネーゲルを生みだすことによってわたしを生みだしたことを信じるのは奇想天外に思える。長いあいだ、わたしというものはなかった。しかし、ある時ある場所で特定の物理的有機体が形成され、突如、わたしというものが、この有機体が生きながらえるかぎり、いる。秩序ある宇宙の客観的な流れにあっては、主観的には(わたしにとっては!)驚くべきこの出来事も、ほとんどさざ波すらたてはしない。一つの種の一成員の実在が、こんな注目すべき結果を、どのようにしてもちうるのだろうか。
わたしであるという唯一無二の特性をもつものを、宇宙がふくむようになったということへの驚きは、かなり原始的な感情なのである。

— トマス・ネーゲル(1986年)『どこでもないところからの眺め』 中村昇ら訳

 

無限の昔から、世界は〈私〉なしに存続してきた。わずか数十年(長くてせいぜい百年)の例外期間を過ぎて、世界はまた〈私〉なしに存続してゆくであろう。数十億の生きた人間、他の天体にも存在するであろう無数の自己意識的な生き物のうち、〈私〉であるという特殊な、例外的なあり方をした生き物が存在している。その例外的な期間とは何であり、その例外的なあり方とは何であるのか。それは神秘としか言いようがない。それを説明する言葉はありえない。
— 永井均 (1988年)『「私」の同一性と〈私〉の同一性』

おそらくこの問いには答えがない。端的にそうであること──これ以外に答えがないように思えるのだ。
— 永井均 (2002年)「私」『事典 哲学の木』

 

心理学渡辺恒夫は、遍在転生観という立場を主張している。渡辺は、永井均の独在論における<私>の特別性を解消するため、私は生けとし生けるもの全てである、という遍在転生観を主張した。渡辺自身は科学者であるが、こうした形而上学的立場の主張に自身のキャリアに基づくような科学的な根拠づけは一切ない、と明言している。つまりこれは科学的な主張ではなく、あくまで形而上学的な主張である。渡辺は理論が持つ主たる意義として主に次の二点を挙げている。まず一点目として、永井均が取るような立場において現れる<私>の神秘、これを遍在転生観であれば破ることが出来るということ。つまり遍在転生観ならば永井の<私>を脱神秘化するが可能であるとしている。次に二点目として、こうした形而上学は倫理的に意味があるとしている。つまりどんなに自分が嫌いな相手であっても、または自分にとってどうでもいいと思える人物であったとしても、あれは昔の私かもしれない、または、やがて私はあいつになる、と思っているならば、そうした人物に対してもより深い共感の念を持って接することが可能になるだろう、としている。渡辺のこの考え方は一見荒唐無稽にも思える。しかし素粒子物理学の領域において一電子仮説のような捉え方が可能であることを踏まえると、完全に荒唐無稽なものとも言い切れないだろう、と渡辺は言う。

図を見ると分かるように、渡辺の考え(図中c)は、物理的な時間を前後して転生というものが行われている。この問題を解決するために、(それにそって転生の体験が起きるような)新たなもうひとつの時間軸の導入が必要だろう、と渡辺はしている。渡辺の遍在転生観に対し、哲学者の三浦俊彦は、こうした新しい時間軸の導入などを行なっても、その新しい時間軸上の中でなぜ今この位置にいるのか、これが結局説明されないのであるから当初の問題は何も解決されていない、つまり解答として成立していない、と批判している。

by wiki

心理学渡辺恒夫は、遍在転生観という立場は面白そうだ。

通常の理性では信じがたいことかもしれないが、君──そして意識をもつ他のすべての存在──は、万有のなかの万有だということなのである。君が日々営んでいる君のその生命は、世界の現象のたんなる一部分ではなく、ある確かな意味合いをもって、現象全体をなすものだと言うこともできる。…
周知のように[古代インドの]婆羅門たちはこれを、タト・トワム・アスィ(Tat tvam asi=其は汝なり)という、神聖にして神秘的であり、しかも単純かつ明解な、かの金言として表現した。──それはまた、「われは東方にあり、西方にあり、地上にあり、天上にあり、われは全世界なり」という言葉としても表現された。

— エルヴィン・シュレディンガー(1925年執筆/1961年出版)「道を求めて」 中村量空ら

タト・トワム・アスィ(Tat tvam asi=其は汝なり)これは梵我一如のことらしい。

君は大地のように、否それにも増していく幾千倍も金剛不壊である。確かに明日大地が君を呑み込むとしても、あらたな奮闘と苦悩に向けて大地は再び君を産み出すことであろう。それはいつの日にかということなのではなく、いま、今日、日々に大地は君を産み出すのである。それも一度のみならず幾千回となく、まさに日々君を呑み込むように、大地は君を産み出す。なぜなら、永遠にそして常にただこのいまだけがあるのであり、すべては同じいまなのであって、現在とは終わりのない唯一のいまなのであるのだから。
この永遠のいまという(人々が自らの行いのなかでめったに自覚することのない)真理の感得こそが、倫理的に価値あるすべての行為を基礎づけるものなのである。

— エルヴィン・シュレディンガー(1925年執筆/1961年出版)「道を求めて」 中村量空ら

 

 メモ

私たちは寝ている時に見るリアルな夢と現実の区別が付かない。同じように完璧なシミュレーションと現実を見分けることができないだろう。

シミュレーション仮説が有名になったのは2003年、オックスフォード大学の哲学者Nick Bostrumが主張し始めたとのこと(実際にはプラトンの洞窟の比喩が始まりでしょう)。

MITの物理学者Zohreh Davoudi:「計算リソースが有限であれば、どこかで節約するはずだ。時空が連続ではなく、不連続であるのはこのためだ 

時間の流れの観察に成功した者は誰もいない。マサチューセッツ工科大学の哲学助教授、ブラッド・スコウ博士をはじめとして、過去から未来への時間の流れを否定する人たちがいる。時の流れは熱力学ではエントロピーの増大、量子力学では確率(+の確率は過去から未来、-の確率は未来から過去)と言った間接的なものでしか表せない。

「自己」とは何か? インド哲学と西洋の見方 その1


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