まさおレポート

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仏教はペシミズムか

2021-06-16 | 紀野一義 仏教研究含む

追記 2023−10−30

聖徳太子は維摩義疏で「煩悩を断せずして涅槃に入る」と説明し、親鸞は教行信証行巻の正信念仏に「能く一喜愛の心を発すれば煩悩を断 ずして涅槃を得るなり」と言う。親鸞は聖徳太子の考えを受け継いでいる。

聖徳太子の義疏では「不断煩悩面入是為坐とは、もしく 即空にして断ずべきなしと解すれば、これ則ち自ら涅槃を促す、汝、 日に断じて方に涅槃に入らんと存せば、則ち分別を成ず、何ぞ名づけ とせん、此の句は温を証する方便をせざるを詞す」在家仏教の教説と維摩経の教説 


聖徳太子の「義疏」は、仏教経典の内容を詳しく解説するためのテキストです。提供された文は、深い仏教的な思想を持っており、日常の言葉としては難解に感じるかもしれません。この文を分解して、その意味を理解しやすく説明します。

  1. 「不断煩悩面入是為坐」

    • 煩悩を断じずに、そのまま涅槃へ入ることを坐(座ること)と言う。
  2. 「もしく 即空にして断ずべきなしと解すれば」

    • もし、すべてが空(実質的な存在を持たない)であり、煩悩を断つ必要がないと解釈するならば
  3. 「これ則ち自ら涅槃を促す」

    • それは自ら涅槃に近づくことを促す。
  4. 「汝、日に断じて方に涅槃に入らんと存せば」

    • もし、あなたが煩悩を断つことで涅槃に入ると考えるならば
  5. 「則ち分別を成ず、何ぞ名づけ とせん」

    • それは区別や名前を付けることをしない。
  6. 「此の句は温を証する方便をせざるを詞す」

    • この句は、方便(適切な方法)を使わずに真理を示すものである。

煩悩を断つことなく涅槃に入ることの可能性、具体的には、煩悩を断じるか断じないかという二元的な考え方を超えた仏教の理解を示唆している。

12年前バリでスペイン人ホセに「仏教はペシミズムだろ」と問われた答えとして秀逸なのではないか。

そして法華経の常懐悲感・心遂醒悟に通じることが理解できる。

 


初稿 2021-06-16 17:49:58

10年前にバリでスペイン人ホセに「仏教はペシミズムだろ」と言われていらい気になっている。悩んでいるのではない、いやむしろ楽しんでいると言った方が正確ですが。


ブッダ以前の輪廻観とブッダのそれはどう違うのか。その後の南伝、北伝仏教の違いは、そして日本仏教との違いは、さらには各宗派の違いは・・・こんなこと一生やってても到達できない巨大なテーマの気がする。いや気がするどころか、絶対に到達できない。

だからブッダは「無記」といったんだなあ。納得。

もっと直感的、無意識的にわかる方法を用いないと。建築や像、書など視覚的な追及ならピンとくるものがある。さらには人との出会いかもしれない。

そう思いながらも以下のメモを作ってみた。


仏教は世界で多様な見方をされている。仏教は歴史的に多様な解釈がなされてきたことも多様な見方が存在する理由だろう。

日本仏教は中国仏教をへて密教や禅の成果そして法然や親鸞や道元、日蓮により原始仏教とは異なった世界観や人間観を持つに至った。

わたしは西洋の仏教評価に違和感を感じるのはブッダの思想と日本仏教が一見異なっているように見えることが原因だとおもう。

西洋の仏教評価を以下に並べてみると高名な歴史上の哲学者たちは声を揃えて「仏教はペシミズムだ」と合唱しているように見える。バリで出会ったスペイン人の評価は西洋の知識人たちの「仏教は厭世的」と映ってきたことを代弁していたのだ。


「仏教は無神論だ」「仏教は哲学であって宗教ではない」「仏教は汎仏論、ないしは汎心論にすぎない」「ユダヤ教やキリスト教などの普遍宗教に達していない」

ヘーゲル ヒンドゥイズム「幻想の宗教」

仏教「自己内存在の宗教」

マックス・ウェーバー「仏教には社会性が欠けている」
ベルクソン「仏教が神秘主義であるとするのに躊躇しない」

ニーチェ 仏教にはペシミズムやニヒリズムがあるが世界や社会に貢献しようとしない消極的すぎる

ショーペンハウアー「ミットライト・ペシミズム」に仏教との共通性。


古代インドにおいてはサンサーラ(輪廻)とカルマ(業)が大半のインド人にとっての通常観念。

輪廻の原型 当初は「五火説」

死者は月にいったんとどまり

雨となって大地に戻り

植物がこれを吸収して雑穀となり

雑穀を食べた男の精子となって女と交わって胎児になり

生者として誕生(再生)するという考え方

生きとし生けるものがもつカルマのせい「因果応報」
サンサーラの循環にあること「苦」の本質 根底的な離脱をはかっていくことにした。それが仏教の最初のコンセプト「一切皆苦」

輪廻の主体になっているアートマン アートマンにもとづいて確立したかに見える「我」できるかぎり想定しないようにしなければならない。
ブッダは「無我」(アナートマン)を持ち出した。「非我」ともいう。

「我がない」のではなく「無我というものがある」

「我」のルーツともいうべきアートマンに別れを告げた。

輪廻の悪夢から脱却する難問 ブッダは「苦行抜き」で実現したかった。

ブッダ当時のインド バラモン教(ヒンドゥー教)我の実在の有無論争

初期仏教 縁起 無常であり変化し続ける 我執を打破してアートマンを実現すべき 非我。


ジャイナ教の祖マハーヴィラ
前549年~477年ごろ、シッダールタと同年代

バラモンのヴェーダにみられる形式的な儀式から脱却し、自己を徹底した苦行の道に投じ、霊魂の浄化を求めた。


ブッダはインド六派哲学の考え方に与さない。

ヴェーダ思想や六派哲学が持ち出した「我」を否定し「無我」「非我」に徹する。

ブッダは五蘊にとらわれるなと(ショーペンハウアーは「意思と表象としての世界」でこの考えに近づく)

五蘊は「色・受・想・行・識」知覚作用と意識作用すべての総体
色蘊は認識の対象となる総称

受蘊は肉体的で生理的な感覚がとらえる感受作用 苦楽の印象をもたらす。

想蘊は表象作用 概念が想起させるものすべて

行蘊は意志作用

識蘊は区別によって得られるすべての認知作用

ヴェーダ以来のインド哲学の基本


『般若心経』

「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄」観音が「五蘊はみな空なり」と照見し「一切の苦厄を度したまう」玄奘の翻案力

観音菩薩 舎利弗に語ったメッセージというスタイル

般若思想では「無我」が「空」と表現された。

マントラ(真言)を断片的に集めた「タントラ」編集したものが「スートラ」
五蘊皆空 五蘊をそれぞれそのつど空じてみると一切の苦厄から解き放たれる


「四諦」苦諦、集諦、滅諦、道諦

苦諦 一切を苦(ドゥッカ)と感じる

集諦 煩悩や妄執や渇愛が集まって苦の原因

滅諦 執着を断ちなさい

道諦 諦められる心

三宝印・四宝印

「一切皆苦・諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」


以上の初期仏教が日本仏教としてどのように発光色を変えたか。中国仏教をへてどういう世界観や人間観をもつにいたったか。

仏教はインドで廃れ

東南アジアでテラワーダ仏教

中国化した五時八教

日本化して専修念仏化

ヨーロッパに定着しなかったのか
 
ブッダの思想は密教や禅の成果そして法然や親鸞や道元、日蓮の日本仏教となって結実している。

わたしがスペイン人ホセに反論するにはこうしたことを説明しなければならないが、相手はますます面食らうだろう。そしてこう反論するだろう。

「日本仏教って本来の仏教じゃないと思うんだけど」素直な感想だろうと思う。


ああ、説明することは絶望的に難しい。ならばどうするのか。こういう場合は寺院建築や仏像という視覚芸術に頼るのも有力な一つの方法かも。

法隆寺をみろ、金閣寺、銀閣寺をみろ、タイの寺院をみろ、ボルブドールの寺院遺跡をみろ、どこにペシミズムの片鱗があるか。


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