まさおレポート

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紀野一義研究12 矛盾を矛盾のまま包含する

2021-10-25 | 紀野一義 仏教研究含む

紀野一義の講演を収めたYoutube動画をこのひと月ほど見続けている。発行されたこの人の著作も大方目を通している。講演は重なるところもあるが講演ならではの話もあって実に興味深い。

膨大な講演録をYoutubeアップしていただいている方に深く感謝したい。かなり高齢のお方であり、これだけの膨大な量、おそらく300以上はあると思われる30年以上に渡る講演動画をアップするだけでも相当な労力だろうと思う。同時にネットアクセスの時代に生まれたことを感謝する。

紀野一義は仏教伝道に一生をささげた人だ。わたしはこの方の講演を21歳の時に聞いて以来話が深いところに住み着いて、折に触れ著作を読み返すことがあり、人生の道しるべとしてきた。50年後の今再び熱心に学ぼうとしている。

紀野一義の魅力を一口でいうなら矛盾を矛盾のまま包含する柔らかな宗教心だろう。同時期を同じ学徒動員され生き抜いた司馬遼太郎と近しい宗教観を感じる。両者はいずれも仏教徒だがいずれの宗派にも属さない。

紀野一義の魅力ある矛盾をいくつか挙げてみる。

・法華宗の寺に生まれ日蓮上人とお題目を信仰のベースとしているが、同時に鎌倉仏教の祖師たち、道元、親鸞に深い共感と信仰を抱いている。紀野一義にとって何ら矛盾しないのだ。

・八木重吉の詩に感動し、若い時からキリスト教にも深い共感を持っている。日本人として十字架のキリストよりも明星の下で悟りを開いた釈迦の方が好みに合っていると言う。キリスト教でも仏教でも、あるいは題目でも念仏でもよい、一旦決めたら一生それを貫いていけばその人の成仏の道につらなると言う。

・鎌倉仏教の祖師たち、道元、親鸞、日蓮を矛盾を包含していると述べる。この世界以外に求めるべき寂光土はないと言いながら、一方では霊山浄土で相まみえようとお手紙に認めるなど日蓮は魅力的な矛盾を平気で抱えているという。

・紀野一義自らは戦争の死中をくぐり、両親や兄弟を原爆で亡くす悲劇や生後すぐの長男を亡くすという悲劇にあっている。それでいながら自らは法華経の肯定、肯定、全肯定を説き、強運の人、楽観的な人、陽性であると述べる。

「自分は強運なのでそれを持って帰りなさい」とまで講演参加者に言う。そして戦後は90歳を超える幸せな長寿を全うして亡くなった。

その人が宮沢賢治、良寛、吉野秀雄、西行、折口信夫、斎藤茂吉などの陰性に強く惹かれてしばしば講演では触れている。惹かれる理由を代償行為と説明している。菅原道真など悲劇の主人公が死後まつられる感覚に通じる。

池田弥三郎は折口信夫は歩いていく姿しかイメージできないという。折口信夫は男の子が絶える家系で業が深いのだろうとさらりと述べる。西行も哀しみが深い、宮沢賢治、良寛、吉野秀雄、斎藤茂吉も悲しみが深い、だからこそ良い歌が生まれる。氏のように楽観的な人には歌は読めないとも。


ばあさんの話。息子や嫁に冷たくされて死にたいという母の兄の嫁に息子以上に頼りにされる。写真を仏壇に置き紀野一義大師と書いた手紙を送ってくる。

氏は捨てるということが大事だという。見捨てるということではない。迷うも仏、悟も仏の心境からみると息子たちに執着しないでありのままに、仏のはからいのままに生きるという境地に達することが大事だと氏は言う。

氏はばあさんに、死ぬことはちっとも怖くないよと最大の慰謝を与える。ばあさんは一年後に亡くなった。葬式にも線香をあげにも墓参りにも行っていないという。仏に帰っていったひとには意味がないと述べる。

執着を捨てて、かつ祈る。すると祈りは叶う、この一見矛盾した境地を氏はしばしば講演のなかで述べている。

身をすててこそ浮かぶ瀬もあれも同じ含意か。(空也上人作とする説が有力)

「 山川の末に流るる橡殻も 身を捨ててこそ浮かむ瀬もあれ」
(山あいの川を流れてきたトチの実は、自分から川に身を投げたからこそやがては浮かび上がり、こうして広い下流に到達することができたのだ)(『空也上人絵詞伝』)という歌が出典。
「浮かむ瀬」は原歌では、仏の悟りを得る機縁、成仏の機会の意。
自分を大事と思って、我に執着していてはなかなか道は開けてこないというのである。


矛盾をそのまま大肯定する、今の教育ではなかなか困難な理解だが今後の混迷の世界に非常に大事な思考方法ではなかろうか。


生まれてくる親は選べない。だから人間に自由なんてない。


お坊さんだけが仏法を説けるわけじゃない。在家も(いな在家だからこそ説けるといいたそう)


自衛隊 戦うのか戦わないのか アジアの中で金儲けばかり熱心でそういうことを考えない。そういくことでそねまれたりねたまりしてどこまでいけますかね。


UFOが地球に平和をもたらすと考えているひともいるし、わたしもそう考えていると述べる。よびかけをそのようにとらえることができる。

応えないわけにいかない。わが名を読み手たまわれ。

星を見ていると  村上昭夫

星を見ていると
人類が最も下等である世界が
ありそうな気がする
この地球上のアミーバのように
其処では人間が厚みのない光のレンズでのぞかれているだろう
さまざまの罪悪が色彩別にされて
塵ひとつない透明な壁に
標本のように刺されているだろう
つまみ出されたみにくい欲望の数々が
暑さも寒さもない炎の輪のなかで
美しく結晶を始めているだろう
星を見ていると
まるで神経の感じられない
ひとつの巨大な目に
もうずっと以前から
のぞかれているような気がする 


人生の輝く塔が立っていると悠々と死んでいける。宮沢賢治

死ぬときも 死んでからも おなかの中でも三宝を唱え奉れ

「わたしもそうしたい」 紀野氏は言う。


法華経を信じたものは太陽の如く月の如く光明でよくこの世の闇をを照らすことができる。

陽でパーだった。こういう人でなければ成功しない。こういう態度で仕事をすることを忘れない。


おばあさんは自分の子に頼るということを仏の中に捨てた。自分の子を捨てたわけではない。頼ろうという気を捨てた。何かを捨てることによってなにかを拾う。


礼拝されるばっかりのお坊さんが礼拝する側に回る、転換がある。東南アジアのお坊さんをみているとたいした修行もしていない僧たちが朝から晩まで人々に礼拝される。これはどうかと思いますね。

面倒を見てもらう側から面倒を見る側に変わっていく。愛されてまがりいる人が愛する側に変わっていく。教えてもらう側から教える側に変わっていく 救ってもらうばかりのひとが救う立場に変わっていく

石を投げられたら届かないところまで逃げてまた礼拝する。右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ よりも合理的ですね。


紀野一義 二人の子供の兄弟げんかを見かねて叱る。「お互いに尊重しないのならお前たちは他人だ。他人ならお互い殺しあうまでやれ。みていてやるから」このしかり方は凄いね。


この人の死を潜り抜けた結果の宗教観、肯定、肯定、絶対肯定の死生観、肯定の先に見える光明、一見悲劇的にみえる人も全面的に肯定するその凄さよ。陽、陽、陽。

永遠の生命を信じ、転生を信じ、生まれたときからの題目と場合には念仏を唱える凄さ。道元、日蓮、親鸞を共に仰ぐ凄さ。信管1750発を抜き、周りの船が撃沈されるなか、不思議と死なないとの確信が芽生えた体験に裏打ちされた開眼。


 

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