まさおレポート

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NTTデータ草創期メモランダム1  データ通信事業開業当時

2015年11月12日 09時47分25秒 | 回想のNTTデータ 新電電 来るべき通信事業

NTTデータ通信事業開業当時のキーワードはなんだろうか。それはバンキングシステム、国産主義、赤字ではないかと思う。

バンキングシステム

昭和46年、つまり1971年 NTTデータがまだ電電公社データ通信本部・通称「デ本」と呼ばれていた時代のことです。 1960年代半ばから大手都市銀行で始まった本店・支店を結ぶ銀行業務のコンピュータ化及び通信システムとの融合は後年第一次オンライン化の時代と呼ばれることになる。

大銀行から順に本支店間オンライン化が進み、1972年には地方銀行にまでオンライン化が浸透してきた時代だ。当時第一次オンライン化を終えていた都市銀行と呼ばれる大手銀行のオンラインシステムは日本IBMがほぼ独占していた。

第1次オンラインシステム - 1960年代半ばに構築 勘定系システムの構築。本店と支店のオンラインによる結合。左記による現金自動預け払い機(CD)での預金の預け入れ・引き出しの実現。自動引き落しサービス、振り込みサービスの提供など。1965年5月、三井銀行(現:三井住友銀行)で日本初のオンラインシステムが稼動。IBM 1410とIBM 1440をそれぞれ二重化したシステムであった。1960年代終盤には他の都市銀行がこれに追随した。地方銀行、相互銀行、信用金庫がオンラインシステムを導入するのは1970年代に入ってから本格化した。by wiki

第一次オンライン化は勘定系システムと呼ばれる普通預金や為替など単一科目処理をなんとかオンライン端末とホストコンピュータで処理して銀行窓口業務の逼迫を回避しようとする目的で計画された。現金自動預け払い機(CD)での預金の預け入れ・引き出しの実現。自動引き落しサービス、振り込みサービスの提供なども主たる目的であった。

若い世代には想像がつかないかもしれないが、オンライン化が進む以前は通帳で金の出し入れをするために同一銀行でも他店では金を引き出すことはできなかった。もちろんATMや現金自動預け払い機(CD)で金をおろす事も入金することもできない。(私は現金自動預け払い機(CD)の記録をするために確か24回まで2次ファイルに記録ができるように、それ以上は3次ファイルに収容するファイル設計プログラムを担当していた)

自動引き落としもできなかった。そして機械化ができていないために現金のチェックも大変だった。行員は1円でも現金が合わないと合うまで残業させられたという話が当時の横浜銀行の行員からも聞かされた時代だった。

1円でも現金が合わないと合うまで残業させらたというのは過去のものかと思っていたが「教えてgoo」には現在でも次のような回答が寄せられている。一応残業にはなるらしいがめったにないほど改善はされているという。

確実に残業にはなります。差異の原因がわかるまでは帰れません。帰れない雰囲気になります。とはいえ、今の時代、お金を数えるのも出し入れするのも全て機械ですから、そうそう差異は出ませんよ。

当時デ本内で地銀システムと呼ばれた全国地方銀行協会システム(ACS、1968年(昭和43年)稼動開始)での他銀行間決済・交換業務バッチ処理を始めに開発した。群馬銀行も同年にコンピュータシステムサービスを開始し開発の経験を積みつつあった。その後、当時は分類上は地方銀行だが都市銀行の埼玉銀行などよりも規模の大きい横浜銀行のシステム開発の受注をした。

先駆的なコンピュータシステムサービス開発チームのリーダーには北原安定氏の信任があついHさんがついた。このあたりの人事も今思えば相当不思議なものだが当時の電電公社社風を思い浮かべる参考になる。大企業的に優秀な人材は豊富だが新規開発リーダに向いた人材が不足していて、たたき上げのHさんに北原安定氏が目をつけたのだろう。スタッフは全国地方銀行協会システムに携わった施設局の若手を充当した。(全国地方銀行協会システムはデータ通信本部発足前であり、電電公社施設局が担当した)

今にして思えば当時の電電公社は自信過剰ともいえる新規事業への進出ぶりだったのかなと思うこともある。電話以外にコンピュータの経験など皆無の会社が徒手空拳でシステム開発業務に乗り出すのだ。資金力は全く問題ないがシステム開発の人材は地銀・群馬銀行経験者のみで、皆無といってもよい状態だ。

かといって、IBMなど経験豊富な他社から開発経験の豊富な中心人物を引き抜いてくることや有力なシステム開発会社を子会社化することなどはおそらく考えもしなかったに違いない。明治以来の電話技術で培った富士通・日電・日立をはじめとする国産メーカーに対する巨大な購買力を源泉とするファミリー支配力と、通信技術設計の経験、電話系の優秀な人材を抱えているという自信が支えになっていたのだろう。

国産主義

そんな時代の中で電電公社は本来の電信・電話業務以外に第三の柱としてデータ通信に着目し、1966年にデータ通信サービスの認可を受け翌1967年(昭和42年)にデータ通信本部を設立して新ビジネスに乗り出していた。

北原安定氏は1966年に電電公社施設局長としてデータ通信サービスの認可を受けるために千葉の保養所でデータ通信事業の計画を練っている。(こうした泊まり込みの作業はカンズメと称されて、集中的な作業が必要なときによく行われた。上司からデータ通信本部設立の起草を練った伝説は何度も聞かされた)

1960年代当時の日本の巨大な通信産業を電電ファミリーと称して電電公社は支配下に置いていた。北原氏は電電公社の技術系経営陣として大きな力を持っていた。NTT調達の通信機器の納入には東芝、松下といった家電大手でさえも一切参入できず日本電気、日立、富士通を御三家とした電電ファミリーと呼ばれるメーカーが占有していた。北原安定氏はこの巨大電電ファミリーの実質的トップに君臨し、電電ファミリーの名のもとに国産メーカーを擁護し米国の産軍複合体の日本参入を阻止していたと思う。東芝、松下といった家電大手でさえも一切通信機器に参入できなかったことは民需は通信事業では使えないという強固な信念のあらわれだろう。支配力の強さも同時に伺える。

NTTのネットワーク部長などを歴任した石川宏氏が情報通信学会発行のマガジンで、氏が入社当時に日本には軍産複合体が無いので電電公社がその任を負うのだと先輩から言って聞かされる逸話が紹介されていた。私がNTTデータ通信本部で働き始めた1970年代の初め頃、当時の上役も同じことを常日頃から部下に言っていた。この上役は北原安定氏のもとにふろしきに説明資料を包み、よく日比谷の本社まで近況などの説明に伺う姿が脳裏に残っている。

この上役もまた開発するデータ通信システムの機種選定には国産コンピュータそれも富士通のみを使う生粋の国産派であった。機種選定の候補にIBMでも提案しようものなら徹底的に絞り上げられた。当時の都市銀行が盛んにIBMを使ってシステム開発を行っていたがNTTデータ通信本部でIBMを使った開発を行うことは少なかったのではないか。当時のNTTデータ通信本部は赤字続きであったが電話部門からの潤沢な金が使えたので御三家の国産コンピュータの発展には相当寄与したことになる。富士通がスーパーコンピュータで世界一の座をとれたのもその基礎はこの当時の潤沢な金にあったのかもしれない。1968年に富士通では国産大型機FACOM 230 60が完成している。このことが北原安定氏をしてデータ通信事業に乗り出す要因のひとつになったのではなかろうか。

1959年、社長に就任した岡田完二郎はコンピュータに対する関心が高く、池田を始めとした若手エンジニアが専門知識の講義を行った[20]。池田は1961年にトランジスタを用いた大型コンピュータであるFACOM 222Aを完成させ、製造業や大学などに採用された[21]。1962年に岡田はコンピュータ事業に注力することを宣言し[22]、ハード開発・ソフト開発に人員を割り当てた[23]。1964年[要出典](情報処理学会コンピュータ博物館[24]には「1968年3月に完成」とある)に池田はICを用いたFACOM230-60を完成させた。 世界初の2CPUを実現したFACOM230-60は130台以上を出荷し[25]、1970年に富士通は日本のコンピュータメーカーでシェア1位となった

赤字

データ通信本部発足後も赤字が続き、8年後の1975年当時は相当な赤字が累積していた。(1988年、NTTから分離するまで赤字が続く)当時の私は電話帳システム開発チームにいた。データ通信本部の周辺にはあるうわさがあった。電電公社本体はデータ通信本部の赤字を大層重荷に考えていて、事業部門の廃止も考えているというものだった。彼らはデータ通信本部をデータ村とあたかも過疎の村を呼ぶようにやや軽い侮蔑とも感じられる名をもって呼んでいた。このうわさもまんざらでたらめでないなと思ったものだ。

データ村と軽い侮蔑をもって呼んでいたある一例。私の中央学園で同室であった友人がデータ通信本部総括部で電電公社本体との予算配分の仕事を担当していたが、彼等との予算の額が大きく異なるので電電公社本体側から見てデータ村がいかに小さな存在であるかを思い知らされると、港区新橋周辺の酒場でよく話して聞かされた。

うわさには事業部門の廃止後の当時数千人に登るデ本職員のあらたな雇用対策まで尾ひれがついていた。データ通信本部の各職員(当時は社員ではなく職員と呼ばれていた)に教員免許を与えて全国の中学・高校でコンピュータを教えることにする。当時からコンピュータ教育の必要性は議論されていたのだがそれを教える人材が不足していることから誰かが考えたのだろう。全国の中学・高校ともなれば職員の雇用は完全に確保され、職員は路頭に迷うことは無いといったうわさであった。根も葉もない単なるうわさなのか、あるいは何らかの根拠があったのか知りたいものだが。このあたりの真相は当時の幹部に聞いてみないとわからない。(しかし当時の事情を知る人はいなくなっていき、年々それも難しくなっていく)

  回想のNTTデータ

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2 コメント

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Unknown (匿名)
2021-11-29 09:24:00
F230-60はIBM互換では無かった。IBM互換はM190から。
Unknown (masao)
2021-11-30 09:11:21
ご指摘ありがとうございます。

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