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まさおレポート

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ショーペンハウワー「意志と表象としての世界」ニヒリズムからの脱却は可能か その2

2019-03-01 | 小説 音楽

ショーペンハウワーは「意志」を発見する。この意志は現在使われている意志、「なにかを行おうとする気持ち」とはまったくといっていいほど異なるので理解が混乱する。ショーペンハウワーの「意志」は意欲を引き起こす元になり、むしろ奥に控えていている。仏教での無明に限りなく近い、いや同じものではなかろうか。ショーペンハウワーの「意志」に関する文節を拾ってみる。

 意志は盲目的な生の衝動であり、無機物や植物の栄養作用、生殖として現象している。 個体は現れては消えて行くが、この生の衝動は不滅であり、いかなる時間をも知らない。

意志はなにかをしようとする意欲、目標をそなえている。意志は無根拠である。

「生きたい」という意欲は、場所にも時間にもよらず引き起こされる。これは意志が引き起こす意欲である。有機体における自然法則は客観化された意志、すなわち意志の現象だからである。例えば歯・喉・腸は客観化された飢餓であり、生殖器は客観化された性衝動であり、手・脚は様々な目的に対応し、個人の体系は客観化された個人の性格である。

特に、人間はこんな人に成りたい、あんな人に成りたいと決心して変わることは不可能である。意志は自由意志ではなく、生の衝動である。人間は生の衝動であり、その性格は高次のイデアであり、自分自身を経験的性格として追認していくことしか出来ない。

以上のいくつかの文節から意志は本能とは異なった意味を持たせていることがわかる。本能はある程度、いわゆる意思でコントロールできるがそのコントロールするいわゆる意思でさえショーペンハウワーの「生欲の盲動的意志」の現れ(表象)なのだという。運命論を思わせる言説だ。

驚くべきことにショーペンハウワーは意志は人間だけでなく自然界にもあるという。世界はシステムとして合目的的だというのだろうか。梅原猛は日本文化の根底に「草木国土悉皆成仏」という縄文文化以来の伝統があると講演で述べている。ショーペンハウワーの「自然のなかで前進し作用しているすべての力の本質であるところの「意志」である。」と同じことを指している。

 意志は盲目的に作用しているすべての自然力のうちに現象する。世界は直接的な表象=「物自体」によって描写されるべきである。それは、自然のなかで前進し作用しているすべての力の本質であるところの「意志」である。もちろんこれは人間の意志と本質的に同一のものだから、こう呼ぶのである。

自然界のあらゆる客観から表象性を取り去り、それでもなお残るものがあるとすれば、それはわれわれが自らの身体について「意志」と呼ぶものと同一であるに違いない。認識や動機は意志の現象に属すものであり、意志そのものはもっと根源的な別のものなのだ。

世界は単なる表象ではなく、意志でもある。還元論の先に意志はない。意志は究明不可能性であると言える。 意志は数多性をもたず、ただ1つであるもの、そして、宇宙の全ての背後にあるものである。宇宙の全ては表象であり、それは意志の客観化に過ぎないからである。

我々は知っているのは目に映った太陽の表象だけだ。他に「存在」するものがあるとしたら、それは「意志」である。

 自然力も意志の客観化であるが、この意志は、プラトンのイデアである。

人間に無差別な意思決定が可能であるという主張は間違っている。

筆者は無明と本能はどう違うかを考えたことがあるが、上述の文節にショーペンハウワーの回答があるように思う。そしてこの意思なるものは本人には自覚できないというやっかいな性質をもつ。

ショーペンハウワーの言説ははたして運命論、宿命論を哲学的に言い換えただけのものなのだろうか。宇宙は一個のシステムであり個々の人間はその些細なルーチンプログラムに過ぎないという危険な結論が眼前に表れるが果たしてそうなのか。

意志は宮元啓一氏の「インド哲学七つの難問」の「ほとんど自覚不能、制御不能の根本的生存欲」「根本的無明」と類似していることがわかる。それが宇宙にもあるというのが一層の驚きだ。ショーペンハウアーの次の文節は意思を無明、煩悩とは一見かけ離れた意味に使って叡智的性格と言っているが、これは無明に対応するようだ。だから無明は善悪の判断から自由なところにいる。

性格の自由な面すなわち意志を永遠不変な叡智的性格と呼び、性格の根拠の原理に支配された面を経験的性格と呼ぶ。動機がある場合、意志が、つまり叡智的性格が決断し、行動するのだが、それを後から知性が認識し表象となったものが経験的性格である。

宮元啓一氏の「インド哲学七つの難問」では性格の自由な面すなわち意志をほとんど自覚不能、制御不能の根本的生存欲と呼んでいるが同じ意味だろう。

ゴータマ・ブッダは大きな発見をした。すなわち、輪廻のメカニズムの起点は欲望ではなく、さらにそれをもたらす、ほとんど自覚不能、制御不能の根本的生存欲が奥底に控えていることを発見したのである。輪廻のメカニズムは、つぎのように改められた。・・・輪廻←善悪の行為←欲望←根本的無明 「インド哲学七つの難問」宮元啓一p114

認識主体は認識対象とはなりえない、という意味で自己はしりえないといっているのである。p99

紀元後8世紀の不二一元論(幻影論的一元論)の開祖シャンカラが・・・なぜなら、(認識しようとする欲求が)認識主体を対象とすると、認識主体と、認識しようとする欲求とは、無限後退するという論理的過失に陥るからである。p99

ショーペンハウアーの次の文節「意志は究明不可能性であると言える。 意志は数多性をもたず、ただ1つであるもの、そして、宇宙の全ての背後にあるものである。」とシャンカラは通じ合っている。ショーペンハウアーがシャンカラの影響を受けているのかもしれない。

シャンカラ(8世紀)は・・・自己が存在することは否定できないから、「に非ず、に非ず」といって・・・「これはわたくしではない、これはわたくしではない」といったふうにして、自己に到達するのである。p103

さて一見底なしのニヒリズムだが脱却の方向を示した人は鈴木大拙だろう。

鈴木大拙の霊性や夏目漱石は意志はショーペンハウアーの意思を理解するのに参考になると思われる。鈴木大拙の霊性は不純なもの、即ち自我の残滓を意思からふるい分ければニヒリズムから脱却できるが夏目漱石の意志は「下司な念」と断じてニヒリズムから脱していない。

意志は阿頼耶識を連想する。阿頼耶識は我々の意識し得ない心の領域があり、それは生死を貫いて存続し続ける、そこに情報は貯えられるとされる。次の鈴木大拙の霊性から見ると意志は霊性に裏付けられていることによって初めて自我を超越したものになるとし、無根拠なものとは一歩進んでいるように思える。

「精神の意志力は、霊性に裏付けられていることによって初めて自我を超越したものになる。いわゆる精神力なるものだけでは、その中に不純なもの、即ち自我(いろいろの形態をとる自我)の残滓がある。これがある限り「和を以て貴しとなす」の真義に徹し能わぬのである。」鈴木大拙の霊性

意志にとって認識の全ては表象であり、意志の本質は自分の中にしか感じられないこと。 次に、自分が消えれば、あらゆる認識主観を失ってしまうことである。

夏目漱石は意志については述べていないが「文芸の哲学的基礎」で意思について次のように述べているが意志とそう変わらない意味で使っているようだ。

我々は生きたい生きたいと云う下司な念から物我の区別を立てます。

夏目漱石が意思を下司な念というところに無明と同じ響きを感じる。

世界は我と物との関係。私の正体がはなはだ怪しい。 意識の連続して行くものに便宜上私と云う名を与えた。意識の連続を称して俗に命と云う。煎じ詰めたところが私もなければ、あなた方もない。物我を区別しようがない。 あるものはただ意識ばかりである。

 これなど意識と言い換えているがショーペンハウワーと同様に意志を捉えている。なお、夏目漱石がショーペンハウワーを読んでいたことは「文芸の哲学的基礎」で次のように参照していることからも明らかだ。

ショペンハウワーと云う人は生欲の盲動的意志。意識には連続的傾向がある。

そして意志の肯定の行き着く先は地獄だという。なんというペシミズムか。

意志の肯定の先にある世界は、必然性に支配されている。思い通りにならないことが多く、苦悩も大きい。この究極は、動物の、弱肉強食の世界であり、地獄である。

苦しみは世界の意志のそもそもの発露。

世界がリアルであると見るかぎりは、苦悩が去ることはない。幸福がいつまでも続くとはかぎらない。

世界の”意志”の純粋な認識のみが、彼の人生の目的となっていく。しかし、それは一瞬苦悩を忘れさせてはくれても、人生という不断の苦悩の前には、永久の解脱にはなりえない。

 

ショーペンハウワー「意志と表象としての世界」ニヒリズムからの脱却 その1

ショーペンハウワー「意志と表象としての世界」ニヒリズムからの脱却は可能か その2

ショーペンハウワー「意志と表象としての世界」ニヒリズムからの脱却 その3

ショーペンハウワー「意志と表象としての世界」ニヒリズムからの脱却 その4

ショーペンハウワー「意志と表象としての世界」ニヒリズムからの脱却 その5

ショーペンハウワー「意志と表象としての世界」ニヒリズムからの脱却 その6 完


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