大道芸人の独白。
夕暮れのベネツィア。私はまた、この街角に立っている。ここに来るのは何度目だろうか。どの街も私にとっては同じだと思っていた。どこへ行っても、私はただの通りすがりの異邦人に過ぎない。
私は今日もパントマイムを演じる。この芸は私にとっての言語だ。誰もが理解できるし、誰もが私を理解してくれる。だが本当は、この静かな動きの中に、私の孤独の声を隠しているのだ。私は故郷の家族、友人、かつての自分を思う。それらはすべて、私が手を伸ばしても決して届かない場所に行ってしまった。
旅を続ける理由があるのか、私は何を探しているのか、自分でもよくわからない。
終わりが近づいてきた。私の演技が終わる頃、少しの疲れが襲ってくるが、それは心地よい疲れだ。私はやっと、自分自身を演じきったような気がする。観客は拍手をするが、その音は遠くに聞こえる。私は帽子を取り、軽く頭を下げる。その瞬間、彼らの顔はまた見えなくなる。
私は明日この街を離れ別の街へ向かう。ベネツィアの風が私の孤独に触れ、ほんの少しの安らぎをもたらしてくれたようだ。
私は静かに道具を片付け、鞄を肩にかける。そして、再び旅路に戻る。私がどこに向かうのか、誰も知らないし、私自身も知らない。今は、このベネツィアの風の中で、しばらくの間、心を休めることができた。それだけで十分だと、自分に言い聞かせる。
キャサリン・ヘプバーンの独白 フィクション。
ヴェネツィアの街角、ショーウィンドウに映るスーツの姿が私の視線を捉えた瞬間、あの映画のことが鮮やかに蘇る。『旅情』―ヴェネツィアでのひと夏の恋を描いた物語。映画の中で出会った彼、ロッシ・ブラジが演じたレナートの姿が、スーツを見つめる私の心の奥に静かに影を落とす。
レナートは私が演じたジェーン・ハドソンが出会ったヴェネツィアの男。彼は、穏やかな笑顔の裏に深い寂しさを抱えていた。その寂しさが、私を彼に引き寄せ、彼との出会いがジェーンの心に新たな光を灯すが同時に複雑な感情が芽生えていく。
彼が纏っていたスーツは彼が見せる外の顔とその背後に隠された内面の葛藤を映し出していた。映画の中で、ジェーンは彼のスーツに夢見た恋の象徴と現実が相剋する切なさを映し出していた。
白いスーツは、彼との初めてのデートの時、彼が見せた穏やかな微笑みを思い起こさせる。黒いスーツは、別れの時の彼が言葉にできなかった感情が詰まっていた。ストライプのシャツは、日常の中で彼が見せた優しさを。
ショーウィンドウから離れる瞬間、私はスクリーンから現実に戻る。
ヴェネツィアの街を歩いていると、ショーウィンドウには、色とりどりのネクタイが柱に巻き付けられ、「どうだ、オシャレだろう?」と言いたげにこちらを見つめている。
ピンクやイエローのネクタイたちが「今日はどれを選ぶんだい?」と私に話しかけてくる。
高校時代の思い出がフラッシュバックしてきた。当時、ネクタイなんてただの首に巻く布切れだと思っていた私に、担任がこう言った。「ネクタイだけは、無理してでもイタリア製を選べよ。全然違うから。映画を見ればわかるよ、その良さが」「なんでネクタイにそんなこだわるんだ? 無理に高いものを選ばなくてもいいよ」
その後一応それなりにネクタイを締める生活を始めた。「イタリア製のネクタイねぇ…」と、つぶやき、価格を見て「おっと、ちょっと高いな」と躊躇してしまう。その後結婚してからは結局、高めのブランドネクタイをみにつけることに。
しかし、今このヴェネツィアのウィンドウ越しに並ぶネクタイたちを見ていると、50年前の先生が背後から囁いてくる。「ほら、これがイタリア製の真髄だぞ!」。ネクタイたちは「ようやく気づいたか」
「無理してでもイタリア製を買え」と言われたあの言葉、今ならちょっとは理解できるかもしれない。いや、ほんのちょっとだけどね。おそらく、あの先生がこの場にいたら、きっと「ほら、だから言っただろう!」と自慢げに笑うだろう。まあ、少なくとも今日のヴェネツィアでは、その懐かしい笑い声が風に乗って聞こえてきたような気がする。
ヴェネツィアの石畳を歩いていると、甘い香りに誘われて足が止まると言いたいところだが実は鮮やかな色合いに惹かれている。「これはちょっと覗いてみるしかないな」
ショーウィンドウの上段には、赤やオレンジ、黄色の包み紙で包まれた小さな袋が並んでいる。頭に浮かんだのは日本のノウゼン葛の花だ。ノスタルジックになっているのかな。
「この色の組み合わせ、まさにヴェネツィアしてるな」お菓子は、見た目だけじゃなくて、その名前もまた魅力的だ。
「ザバイオーネ・ビスコッティ」。ザバイオーネのクリームを練り込んだビスケットで、その豊かな甘さと少しのアルコールが絶妙だ。「パン・デイ・ペスカトーレ」はその名の通り、漁師たちがよく食べたと言われる伝統的なクッキーで、ナッツが詰まっている。
そして「フルッタ・カンディータ」。キャンディーのようにカラフルで可愛らしい包み紙に包まれたドライフルーツはそのまま食べてもチョコレートにディップしても絶品だと教えてくれる。
「これはちょっと全部試してみたいかも…」なんて思いながらも、冷静にやっぱり浮かれてるのかな?だけど、まあいいじゃないか。ヴェネツィアにいるんだから、少しくらいは浮かれたって罰は当たらんだろう。
この花びらを埋め込んだろうそく、見た瞬間に「おお、さすがヴェネツィア!」と心の中で叫んでしまった。いやいや、こういうのを見ると、つい調子に乗ってしまうのは仕方がない。この地方の工芸品は、どれもこれも「これぞヴェネツィア!」と叫びたくなるものばかりだ。
それにしても、こんな風に花びらを蝋燭に埋め込むとはイタリア特有の美学から生まれたに違いない。もしかしたら作者は地元で名の知れた職人で、いつも「ろうそくは部屋の照明じゃない、心を照らす灯火なんだ」なんて言いながら作っているのかも。
金色のフレームに囲まれた鏡が、この美しさをさらに引き立てている。だけど、思わず考える。このろうそくを実際に使うことがあるのだろうか?火を灯した瞬間にジリジリと溶けていく花びらを見て、「ああ、やっぱりもったいない」と俗な後悔をする己が目に浮かぶ。「この美しさ、やっぱりヴェネツィアだよね」。
このヴェネツィアン・グラスを作った職人は神の手でも持っているんじゃないか。特にこの網目模様の壺、どうやってこんな繊細な模様をガラスに仕込むんだ?きっと小人が夜な夜な現れて、チクチクと編み込んでるんじゃないか。
赤い壺「わたしを見て」と自己主張が半端ない。手に入れるのが難しいって、まるで伝説的な美女みたいだ。見るだけで「かっこいい」と叫びたくなる。
右隣の青い壺は「オレはクールでミステリアスなんだぜ」と。ヴェネツィアの運河を思わせるこの青、コバルトだとかマンガンだとか、もうその辺の化学な話は置いておいて、ただただこの青さに惚れる。これを手に取ったら「実はこの青、イタリアの空と海を閉じ込めてるんだよ」と言われても信じこんじゃうね。
何だこの緑のグニャグニャしたやつは「ボクも花になりたいたいんだ」と自分を花に変えてしまったのか。もしかしてこれ、ガラスが自分の存在意義を哲学して自然と一体化した結果か。ヴェネツィアの職人が「どうだ、この形、オレが作ったんだぜ」と背後でニヤリと笑ってる姿が目に浮かんだ気がしたが。
白い網目模様の壺。正直、これが家にあったら、毎日眺めながらコーヒーを飲む時間が至福のひとときになるに違いない。でも使い方に悩むね。花を飾るのか棚に置いて「これ、イタリアから買ってきたんだ」とさりげなく自慢するのか。
ヴェネツィア・カーニバルが始まると、この街はまるで別世界に変わる。2月の終わりから3月初めにかけて、ヴェネツィアの狭い路地や広場は、色とりどりの衣装と仮面で埋め尽くされる。残念ながらわたしたちが訪れたのは6月だ。この店の親父に2月にはどんな風に変わるのかを聞いてみた。
カーニバルの季節は、私たち地元の人間にとっても特別な時間だ。観光客ももちろん大勢来るが、実はこの時期、私たちも少しだけ現実から解放される「浮かれる」季節なんだ。
カーニバルは、古くから続くヴェネツィアの伝統だ。元々は12世紀に始まったとされていて、当時は社会的な階級や身分を一時的に忘れてみんなで楽しむという意味があった。この伝統は今でも続いていて、カーニバルの間は、街中が一つの大きな舞台になる。
ヴェネツィアには、カーニバルのための仮面や衣装を売る店がいくつもある。ここもその一つだよ。静かな店先も、この時期になるとにわかに活気づく。仮面のデザインにはそれぞれ意味があり、選ぶものによってその人の性格や心境が表れると言われている。たとえば、「バウタ」という仮面は、全顔を隠す伝統的なスタイルで、ミステリアスさを象徴する。一方、「モレッタ」は女性専用の小さな仮面で、かつては無言を守るために口にくわえていた。
写真の中のライオンの仮面をかぶった男性と、豪華な仮面をつけた女性の衣装は、その象徴的な例だ。ライオンはヴェネツィアの守護神であり、権威と力を表している。一方で、女性の仮面と衣装は、18世紀のヴェネツィア貴族のファッションを彷彿とさせるデザインだ。
ヴェネツィア・カーニバルが単なるお祭りではなく、私たちが大切にしている文化の一部であることを少しでも感じてもらえたら嬉しい。
1868年のヴェネツィア。この小さな鋳物の橋を目にしたとき、その年のヴェネツィアの風景がふと頭をよぎる。今とは違い、ガス灯が運河を照らし、ゴンドリエーレの歌声がもっと静かな街に響き渡っていた頃だろう。イタリア統一が進む中、ヴェネツィアは新たな時代の幕開けを迎えつつあった時だ。
この橋が架けられた1868年、ヴェネツィアの街はまだオーストリア帝国の支配から解放されて間もない頃。長年にわたる支配を経て、イタリア王国の一部となったばかりのヴェネツィアの人々は、希望と不安が入り混じった日々を過ごしていた。
当時のヴェネツィアは漁師や商人が運河を行き交い、働く姿があちこちに見られた。彼らもこの橋を何度も渡り、日々の暮らしを営んでいたのだろう。
細かな装飾の一つひとつに、彼らの技と誇りが込められ150年以上の時を経てもなお、ヴェネツィアの街並みに美しさを保ち続けている。
それにしても橋の下を流れるとろりとした水面に映る絵柄は何という面白さだろう。この小さな橋を渡りながら1868年のヴェネツィアを思い浮かべるのも大きな旅の楽しみだ。
狭い路地に足を踏み入れた瞬間、ああ、ここでも例の光景か、と心の中で密かに思う。カフェに寄りたいと思っていたのに、案の定、つれあいの目はすでにキラキラと輝いている。彼女の「買い物モード」が全開だ。
周りを見渡すと、同じようにキラキラとした目でウィンドウショッピングに夢中になっている御婦人方が目に入る。その真剣な表情、まるで世界中のセール品を一つ残らず見逃さないぞ、と言わんばかりだ。
赤いポロシャツのわたしは彼女とは少し違う。「あっちのお店も見たい!次はあそこに行くよ」と目を輝かせるがわたしはゆっくりと歩く。
狭い路地がまるで迷路のように感じるこの場所で実際に買い物をしているのは女性ばかり。男性はやれやれという顔で立ち尽くしているか、おとなしく後ろをついて行く。カフェで一息つけるのを楽しみに。
ちょっとカフェで休憩するか。ヴェネツィアのこの狭い路地にあるカフェに腰を下ろすと、周囲の雑踏が少し遠くに感じられるから不思議だ。観光客が絶えず行き交うこの場所で、ほんの少しの休憩が贅沢に思える。
観光客に目をやると少年が背番号5をつけている。この頃は2006年のワールドカップ の真っ最中でファビオ・カンナヴァーロのファンなのだろう。彼はイタリア代表で、2006年のワールドカップ優勝キャプテンだ。この写真でイタリア紀行の年月まで読み取れる。
カフェのテーブルに置かれたエスプレッソが、静かに蒸気を上げている。その湯気をぼんやりと眺めながら、ふと、ここに座ること自体がヴェネツィアの楽しみ方の一つなんだと感じる。何をするでもなく、ただ通り過ぎる人々の顔を見つめたり、古びた建物のファサードに目をやったりするだけで、この街の一部になったようだ。
建物の窓のバルコニーに花が飾られているのが見える。どこの街でもありそうな風景なのに、ヴェネツィアだとちょっと特別に感じる。人々がせわしなく歩き回る下の通りと、その上で静かに揺れる花々のコントラストが落ち着きを与えてくれる。
カフェのウェイターが忙しそうに動き回っていてどれだけ観光客が溢れようとも、ここではごちゃごちゃ感が許容される。
カップを手に取ると、エスプレッソがちょうどいい温度に冷めていたので飲み干し冷たいミネラルウォータを手にもう少しここに座っていたくなる。