まさおレポート

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回想の孫正義2 忘れられた貢献

2017-08-18 | 通信事業 NTT・NTTデータ・新電電

筆者はソフトバンクADSL事業の真の桶狭間は2001年9月開業からその年の終わり12月までの4ヶ月、50万の顧客が開通するまでだったと思う。後にも色々と大波小波を経験したがこのときに比べれば大したことはない、このときこそが真の経営危機だった。

飛行機が整備不良で、なんとか飛びたったはいいが安定飛行まで上昇できないという危険な状態の4ヶ月で、これでは事業継続や営業努力など話にもならない、しかも時間をかけで整備すればよいというものではない、すでに100万の顧客を待たせているので整備が長引けばどうなるか、顧客保護の名のもとに総務省から業務停止が申し渡されることは目に見えており、一巻の終わりだ。

その自覚と恐怖を味わったものは孫正義氏以外ではそう多くはない、ソフトバンクに残るI氏など数えるほどで、現在活躍している経営陣は安定高度に達したあとに営業や携帯で苦労した人たちが占めている。あるノンフィクションのインタビューに答える人々はそうした人々で、いきおい東京めたりっくやソフトバンクテクノロジーの活躍などは語られることはない。さらにはサボタージュとまで間違った評価をされる、これはちょっとおかしい、そこでこうした縁の下で苦労した人達の働きから一連の回想を書き出すことにする。

その前に当時の組織だが筆者はNTT相互接続と顧客関連オペレーション、情報システムを担当し、管理本部長のMさん、他にCTOのTさんという3名の本部長でスタートしたが、数日してIさんがNTT工事を担当する建設本部長となり、やっと4人になった。さらにもう一人ソフトバンクテクノロジーからTさん、さらにコンサルタントとして日本交信網のIさんが参加して6名になった。桃太郎の鬼退治のように徐々に参加する人が集まってきた。

仮設社長室の入り口のすぐそばに殺風景な長テーブルが置かれ、そこでIさんと筆者、Tさん、日本交信網のIさんが仕事をした。社長秘書達が3名常駐していた。日本交信網のIさんはいつのまにかいなくなった。定年間際の社長車ドライバー氏やプライベートジェットの日航機長がスケジュール調整のために仮設社長室に出入りし、秘書は孫正義氏に食後のサプリメントであるハイゲンキとブラジル直輸入のロイヤルゼリーそれに抹茶入りヨーグルトをお盆に乗せて社長室に運び、ときおり孫正義氏が突然雷を落とす大きな声が聞こえてきた。

 

「コールセンターを作るだと、そんな金がどこにあるんだ」

これはヤフーの故井上社長(当時)が仮設社長室での打ち合わせ時にオペレーション本部長だった筆者に発した言葉で、このころの経営陣達のADSL事業に対する気持ちを代表している、つまりいい出したら聞かない孫正義氏の道楽に付き合っているが、金をつぎ込むのはほどほどにしておけという意味だ。

「ソフトバンクはADSL事業が潰れても大丈夫なようになっているから(心配せずに)」

これは子会社の某社長が筆者に云った言葉で、2001年9月開業からその年の終わり12月までの4ヶ月の間に架設社長室でミーティングに参加した経営陣は故井上社長がたまに顔を見せる程度で、ほとんどが静観していたのだ。宮内現社長が12月頃にたまに顔を出すようになっていた。

オペレーションセンターが無いに等しい、コールセンターが無い、顧客管理システムが無いという無い無いづくしのなかで当時のスタッフ達は孫正義氏の厳しい叱責を受けながら奮闘していた。正規軍がやってくるまで持ちこたえるかり集められた民兵達だ。そのうちに東京めたりっくや名古屋めたりっくの正規軍がオペレーションに参加してようやく持ちこたえることができた、つまりNTT東西に対するADSL工事申し込みやコールセンターもどきの組織を作り動き出した。

ADSLサービスが提供されるまでの一連の作業の概略を説明してみると次のようになる。

①顧客がソフトバンクBBにサービスを申し込む。

②ソフトバンクBBでは申込書の形式チェックの後、NTT東西に局内工事の依頼を行う。これはNTTから購入する専用端末で行い、専用線でNTTと結ばれている。

③NTT東西は局内工事の前に申し込み顧客の名義のチェックや、顧客回線がISDN回線ではないかどうかのチェックを行う。

④その後、NTT東西の局内工事に入る。局内工事はMDFと呼ばれる配線盤を介して顧客のメタル回線と交換機の間にADSL集合モデムをかませる工事だ。これが無事に終了するとソフトバンクBBはNTT東西から工事完了通知を受け取る。

この一連の手続き処理をソフトバンク側で行う部門をオペレーションセンターと呼び、ソフトバンクのNTT東西へのADSL申し込みオペレーションセンターは開業当時、江東区亀戸にあり、センターではソフトバンクテクノロジーからきた情報処理担当部長と大手ソフトウェア会社CSK派遣のスタッフが数名であたっていた。いわば武器も満足にない民兵が巨大な敵と戦っている状態であり、彼らのみで100万件まで膨れ上がり、積滞しているNTT東西に対する申し込み処理をこなしている、いやなんとか押し込んでいる。

扱うオペレーションの質と量に比べて極めて不十分と言ってよく、同業他社のオペレーションセンターの人数、コンピュータシステム設備を知るだけに本当に驚いた。同業他社は本格的な業務処理システムを購入し、あるいは自ら開発したが、ソフトバンクではそうした当たり前の準備がなく、汎用データベースに100万件を越すデータを投入しているだけで、後処理はデータベース言語を入力して必要なデータを作成するバラック建築である。

ヤフウから届くデータに同一顧客の解約と再申し込みが重複して、名寄が全くできていないデータベースで、データの洗い出しから始める必要があるが、そのような作業期間をとることは孫正義氏が頑として許さなかった。

なぜ同一顧客の解約と再申し込みが重複したか、積滞が長引き苛立った顧客が解約と再申し込みを繰り返したためで、ヤフウから混乱したデータを受け取りNTT申し込み処理がされたので突き返される申込みも多く、遅延に拍車をかけた。2chでは放置民という言葉が踊った。

「一体なにをやってるんだ、A!なぜ日にこんな数しか申し込めないんだ、たいがいにしろ」

亀戸ではほぼ毎日のように孫正義氏がA部長を叱責する声が響く。日本橋箱崎から亀戸のコンピュータセンターまでほぼ毎日のように社長車で同行する。筆者はNTTデータでシステム開発チームを率いた経験があるので準備もなくシステムもない状態で苦労している彼らの辛さはよく理解できたた。

このシステム部門にはソフトバンクテクノロジーの執行役員や部長が責任者として参加していたが、いつも孫正義氏の厳しい叱正を受け、はた目にも気の毒であった。いわば竹槍で戦車軍団に立ち向かえと叱咤激励されているようなもので、たまったものではなかったと思う。その上顧客からのメール対応も行っておりそれでも彼らは愚痴をこぼさずに頑張っていた。今では彼らの存在と頑張りはとうに忘れられていて、手際の悪いスタッフと片付けられているだろうが、筆者は今でも彼らの縁の下の功労を思う。

この当時の孫正義氏は通信会社の組織運営やオペレーションを全く知らなかったと言ってよく、TさんやHさんの言うことを鵜呑みにしていた。のちに日本テレコムやボーダフォン、スプリント買収を進めるが、この当時のオペレーションの大変な思いの反省から来ているのではないかと思っている。巨額の買収は顧客を一気に引き受けることと合わせてオペレーションをそのまま引き取るという点に大きな利点を見ているに違いない、もちろん巨大なリスクも併せ持つが。

「世界は戦争になるぞ」「俺は子供の時から台風の後に外に出るのが大好きだった」

2001年9.11のあと孫正義氏はこのような言葉を発して殺気立っていた。この直後に東京めたりっくと名古屋めたりっくのスタッフが箱崎常駐となり正規軍として東西NTTへのADSL工事申し込みや顧客データの不備を修正するコールセンターの一部業務を担うようになった。

東京めたりっくはNTT東へ、名古屋めたりっくはNTT西へのADSL工事申し込みを担当した。NTT東西では申込みの方法が違い、それぞれが習熟しているオペレーションを担当してもらった。同時に顧客管理システムの運用も彼らが開始してようやく体制が整った。大阪めたりっくにも声をかけたが社風の違いによるのかソフトバンクには移ってこなかった。捌いた量では東京めたりっくが、ついで名古屋めたりっくとなるが、いずれにしても当時の混乱収集に大きく貢献した。

 回想の孫正義


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