
「大審問官」の物語が持つ力は、まさにその 矛盾と苦悩 にあると思う。キリストは大審問官を明確に否定することなく、ただ沈黙し、最後にキスをする。その行為が何を意味するのか。赦しなのか、理解なのか、それとも単なる愛なのか。読者に委ねられているのがこの話の奥深さだ。
大審問官の主張はキリストの精神を否定するものであり、彼が唱える「奇跡と権威と神秘」の支配は、本来キリストが拒絶したものだった。しかし、大審問官が持つ 「人間への憐れみ」 もまた事実である。彼は、人間が本当に自由であることに耐えられるのかを問い、自由を与えられた人々が結局のところ混乱と破滅に向かうのではないかと恐れる。これは現実に根ざした一つの真理であり、単純に否定できるものではない。
おそらく、キリストは大審問官の誤りを指摘することよりも、彼の中にある苦しみを知り、ただそれを包み込むことを選んだのではないか。そして、そのキスによって、大審問官自身が自らの行為の虚しさに気づかされる。彼は「行ってよい」とキリストを釈放するが、それは彼がキリストの愛の力に打ちのめされたからだろう。
この物語がイワンの口から語られることによって、さらに 一段と鋭い意味を持つ ことは間違いない。イワンは「神が存在するなら、この世界がなぜこのように悲惨なのか」という問いを抱えており、大審問官の言葉は彼の思索と響き合っている。イワン自身、キリストの愛を完全には拒絶できず、それでいて大審問官の現実的な苦悩にも共感している。この 信仰と理性の狭間で揺れる感情 こそが、この物語をより深いものにしているのだと思う。
「憐れみと癒しのキス」それは許しでもあり、悲しみでもあり、そして人間の根本的な苦しみへの応答でもあるのかもしれない。
「奇跡と権威と神秘」という三つの概念は、『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」において、大審問官がキリストに投げかける核心的な批判の柱である。これは、新約聖書に登場する「荒野での悪魔の三つの誘惑」から取られている。
最初の誘惑は、悪魔がキリストに対して「石をパンに変えよ」と求めたことに由来する。これは 物質的充足 を意味し、人々が空腹や苦しみから解放されるなら、神の愛を疑うことはないという論理だ。しかし、キリストはこの誘惑を拒絶し、「人はパンのみにて生きるにあらず」と応えた。これは、人間が精神的な自由と真理を求める存在であることを示唆している。
大審問官はこの拒絶を「誤りだった」と非難する。彼の論理では、「もしキリストが石をパンに変えていたならば、人間は疑うことなく神を信じ、争いもせずに従順になっていた」というものだ。しかしキリストは、「人間は自由であることを選ばなければならない」と考えた。その自由がたとえ苦しみを伴うものであっても、真の信仰は 強制や利益の交換ではなく、自発的な選択でなければならないという思想である。(何だか幼年期の終わりを想起させる)
次の誘惑は「神殿の頂から飛び降りよ」というものだった。これは、キリストが天使によって助けられることで、神の権威を人々に示すことを意味していた。要するに、「人々に強制的な権威を示し、彼らを服従させよ」という誘惑である。
キリストはこの誘惑をも拒否する。「神は試すべきものではない」と述べ、人々が 盲目的な服従ではなく、自由意志によって神を信じるべきである という考えを貫いた。しかし、大審問官はこの決断を誤りと断じる。彼は、「人間は自由に耐えられず、常に強力な指導者を求めるものだ」と考えている。そのため、人々を導くためには 強い奇跡と権威を持つ教会や国家が不可欠だと主張する。
大審問官の論理は、現実主義的であり、政治的でもある。人間は「自由」よりも「秩序と安全」を望むのだとするならば、キリストが示した自由の道は、むしろ 人々を混乱に陥れた という批判になる。現実世界では、人々は権威を求め、従属を選ぶ傾向がある。だからこそ、教会は奇跡と権威によって人々を統制し、安心を与えなければならない、というのが大審問官の立場である。
最後の誘惑は、「世界のすべての国々とその栄華を与えよう」と悪魔がキリストに持ちかけたことだった。これは、キリストが 世俗の王として世界を統治する ことを意味する。しかし、キリストはこれも拒絶する。「汝の神をのみ崇めよ」と述べ、世俗的な支配を拒んだ。
ここでのポイントは、「人間は不確かさを恐れる」という大審問官の考えである。キリストの教えは 人間に選択を委ねるものであり、必ずしも明確な答えを与えるものではない。しかし、大審問官はこうした「不確かさ」を、人々が受け入れられないと考えている。彼は、「人々は明確な答えを求め、神秘と権威によって安心を得ることを望む」と主張する。
歴史や現実に目を向ければ、多くの宗教は 神秘的な奇跡や教義によって信者を惹きつけてきた。人々は難解な哲学的思索よりも、神秘と権威の単純な信仰を好む。だからこそ、大審問官は 教会が神秘を操ることで、人々に信仰の拠り所を与えているという。彼にとって、「選択と自由」は危険であり、むしろ「支配された幸福」の方が現実的な解決策なのだ。
キリストが拒絶したものは、「人々を支配するための手段としての奇跡、権威、神秘」である。彼は、パンを与えて信者を増やすことも、権威を示して人々を従わせることも、神秘によって盲目的な信仰を強いることも拒んだ。なぜなら、それは 本当の信仰ではなく、操作された信仰 になってしまうからだ。
しかし、大審問官はその「自由」が現実には耐えがたいものだと考えた。人々は真に自由になれば不安になり、むしろ 支配されることを望む。だからこそ、教会は「奇跡と権威と神秘」という道具を用いて人々を導くべきだとする。彼の考えは、一見して合理的で現実的だが、同時に 人間の本質をどう捉えるか という根本的な問いを投げかけている。
キリストはこの議論に 何も答えず、ただキスをする。これは大審問官の論理に対する「否定」ではなく、「憐れみ」だったのではないか。キリストが与えた自由に人々が耐えられず、大審問官のような「支配する者」が必要とされてしまうこと自体が、人間の持つ深い悲しみを表しているのかもしれない。
ドストエフスキーの思想は、単純な二元論では捉えられない。「キリスト=善」「大審問官=悪」として片付けてしまうと、この物語の深みは消えてしまう。むしろ、大審問官の論理つまりイワンの方が説得力を持つ場面すらある。
釈迦は、奇跡や権威や神秘を否定した。彼は「自灯明・法灯明」を説き、個人が自己の内なる智慧によって解脱を目指すべきであり、外的な神秘や権威に依存してはならないとした。奇跡を求める人々に対しても、「法を知ることこそが最も偉大な奇跡である」と説いた。
しかし、大乗仏教の興隆とともに、仏教は奇跡や神秘を大いに取り入れた。阿弥陀仏の浄土信仰、観音菩薩の救済、大日如来の宇宙的権威、曼荼羅による神秘の体系化、こうした要素は、本来の釈迦の教えとは大きく異なっている。
その理由は、「自由を与えられた人間はそれを扱いきれず、結局は奇跡と権威と神秘を求めてしまう」という大審問官の論理と重なる。釈迦が与えた自由、すなわち「個人の悟りへの道」は、一般の民衆には難しすぎた。厳しい修行をし、深遠な思想を理解することなく、もっとシンプルな形で「救い」が欲しい。そこで生まれたのが、奇跡を持つ菩薩たちの信仰であり、宇宙的な仏の権威であり、神秘的な修行法だった。
キリスト教において「大審問官」が支配の手段として「奇跡・権威・神秘」を必要としたように、大乗仏教もまた、民衆の精神を安定させるために、それらを取り入れたのだろうか。
受け入れられるように変容していく。それこそが真理なのだ。ドストエフスキーはそう言いたかったのではないか。