まさおレポート

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講談社学術文庫「龍樹」中村元と立川武蔵「空の思想史」を並べてみた

2018-02-17 | 小説 音楽

講談社学術文庫「龍樹」中村元と立川武蔵「空の思想史」を並べてみたら空の思想は複素関数をメタファとして見ると概念としては理解できそうだ。空のメタファは虚数で縁起のメタファは複素関数だ。


以下は立川武蔵「空の思想史」から引用。

空の思想は行為の思想に他ならない。 p105

迷いの世界という現状から修行という手段を経て空性を体得するに至り、そしてその空性の働きによって迷いの世界が浄化されるというのが空性を求める行為の全体像である。 p109

空とは一つの静的な状態なり、点を言うのではなくて、俗なるものを浄化しながら俗なるものにおりてくる、そういった一つの全体的円環的動態を呼んでいるのである。 p330 

浄化された世界は縁起と呼ばれる。 p321

空によってよみがえってきた世界は縁起の世界である。一方、俗なるものから聖なるものへ至るヴェクトルは否定していくプロセスであり、ここでは言葉あるいは世界は否定される。 p110 

インドの大乗仏教を、言葉と空との関係の歴史であるとさえいうことができるのである。 p59

部派仏教の考え方は、いわば言葉と実在がともにあったと表現することができよう。言葉および言葉の対象は存在するものではない、あるいは言葉と対象とは対応関係にあるのではないと鋭く指摘したのが、大乗仏教の理論的な祖とされている竜樹であった。 p65

縁起という真理にあっては日常の言語活動が止滅していると考えた竜樹 p76 

色即是空 空即是色という表現は、色すなわち物質は真実だということを意味することになる。 p53

五蘊などの世界は一度否定を受けた後、新しくよみがえる。これを仮説と呼んでいる。その仮説された世界に対して聖なるものとしての価値を伏すならば、五蘊など、かつては否定さるべき存在、俗なるものであったものが聖化され、それが空性そのものであると解釈される。 p156

空の思想は・・・大乗仏教の時代、特に7世紀以降になると肯定的側面が強調されるようになる。 P197

如来蔵思想においては、仏性という浄なるものと煩悩等の不浄なるものとの区別がはっきりとしているのであるが、法華経においてはすべてのものが浄なのである。 p270 

俗なる言語活動を否定する過程を、空性を悟ったものが振り返って表現した結果である。迷いの世界にある凡夫が中道を説明することはできない。 P232

ともあれ龍樹の中論における中道とは、言語を超えた空性を悟ったものが、その体験を言葉によって語りながら他者を導く場面をいう。 P234

輪廻する主体はなにか。非我であるという表現と無我であるという考え方とは原始仏教には共に見られるために後世に混乱が生じている。いずれにしても輪廻する主体はあり、それが何かで議論が尽きないようである。一般に原始仏教は無我説だといわれてきた。・・・原始仏教経典にはアートマンが存在しないといっている箇所はないといってよいであろう。以上が中村元氏の考え方である。 p97 

如来蔵思想では空してもなお存在するものが自性で、自性が輪廻する主体であると述べている。そしてヒンドゥー哲学における属性と実体の関係に匹敵するとある。仏教の論の中には、恒常的実体を否定する伝統と、実体的なものの存在を是認しようとする傾向とが存在してきたのである。実体的なものを指し示す用語として自性という語が用いられてきた。 p137自性は常住なる如来蔵個々の人間に宿る仏となる可能性となり、諸要素は客のように偶然にそこに居あわせた非本質な心の汚れとなる。 p144

色即是空が相反する二つのものを無媒介に一つにしようとしていることは明白だ。この一見矛盾に見えることをいかに弁証するかが、その後の大乗仏教の主要な課題の一つであった。p309

原始仏教の第一の特徴は、ヴェーダの権威を認めないということだ。仏教の誕生以前に生まれていたウパニシャッド哲学の中では、宇宙の根本原理としてブラフマンの存在を認めているが、そういった宇宙の根本原理ブラフマンの存在を想定して自己の精神的救済を求めるという方法を、釈迦はとらなかった。釈迦はブラフマンの存在を否定し、さらには個々の人間の中にも、ウパニシャッドがいうような個我の原理アートマンというものを認めなかったのだ p63

この世界の他に神とか根本実在といったものを仏教は認めない。すなわち、もしも聖なるものが存在するならば、この世界が聖化された世界つまりマンダラの中に存在するのである。 p333

法然と親鸞) はからいを捨てることが強調される。このはからいを捨てることは、竜樹の空の思想でいうならば、言葉を否定していく作業であった。 p269

 かたちや香りが無常であるからこそ、それらはわれわれ人間にとってかけがえのないものという諸法実相の考えが日本仏教の根底にはある。無では決してないのである。 p278

現象世界にいながら、真如へといたり、また真如と一体となった現象世界へ帰るというのが仏教であると円了はいう。 p305

彼等は日本的アニミズムの伝統を受け継ぎながら、空の否定的側面を十分に意識しつつ、色つまり現象世界が元来聖なるものとしての価値を有すると考えてきたのである。 p329 

 

以下は講談社学術文庫「龍樹」中村元著から引用  

p5
空観とは、あらゆる事物(一切諸法)が空であり、それぞれのものが固定的な実体を有しない、と観ずる思想である。

p16
大乗仏教は、もろもろの事象が相互依存において成立しているという理論によって、空の観念を基礎づけた。

p17

無も実在ではない。あらゆる事物は他のあらゆる事物に条件づけられて起こるのである。二つのものの対立を離れたものである。・・・空とは、あらゆる事物の依存関係にほかならない。

p58
大乗仏教は利他行を強調した。大乗仏教では慈悲の精神に立脚して、生きとし生けるもの(衆生)すべてを苦から救うことを希望する。諸仏・諸菩薩に帰依し、その力によって救われ、その力にあずかって実践を行うことが説かれた。 

 p62

理想の境界はわれわれの迷いの生存を離れては存在しえない。空の実践としての慈悲行は現実の人間生活を通じて実現される。 

p63
一部の大乗教徒は現世を穢土であるとして、彼岸の世界に浄土を求めた。阿しゅく仏の浄土たる東方の妙喜国、弥勒菩薩の浄土である上方の兜率天などが考えられ、これらの諸仏を信仰することによって来世にはそこに生まれることができると信じたのであるが、後世もっとも影響の大きかったのは阿弥陀仏の浄土である極楽世界の観念である。阿弥陀仏の信仰は当時の民衆の間に行われ、諸大乗経典の中に現れているが、そくに主要なものは浄土三部経である。

 「実は、釈尊は永遠の昔にさとりを開いて衆生を教化しているのであり、常住不滅である。 人間としての釈尊はたんに方便のすがたにほかならない。」 

p73
「中論」は終始、有部、経部、とく子部、正量部などの諸学派を攻撃し、その教理を批判して、これらの諸派と厳然たる対立を示している。この事実をみて近代の研究者は、たいてい、大乗仏教は、従来の仏教とは全く異なったものであると解している。

戦前の西欧における随一の中観研究者であったスチェルバツキーはブッダによって説かれた教えは徹底的な多元論であり、これに対して「中論」などの大乗仏教は一元論であり、「同一の宗教的開祖から系統を引いていると称する新旧二派の間にかくもはなはだしい分裂を示したことは宗教史上他に例をみない事例である」と述べている。 

もしも中観派の所説がブッダの教えと非常に異なるものであるならば、それでは何故に自説をブッダの名において説きえたのであろうか。
この理由を西洋近代の学者は全く説明していない。

 「中論」の主要論敵は何といっても説一切有部であろう。それは事物または概念の「自性」すなわち自体、本質が実在すると主張する人々である。「中論」はこれに対して無自性を主張した。

法の体系を基礎づけるために縁起説が考えられていた、十二因縁が優勢な地位を占めるようになった。

p116

「中論」における論敵排撃(破邪)の論理は、概念や判断内容の実在性を主張する論理(法有の立場)を排斥しているのであり、概念や判断の内容を説明しているのではないから註釈者によって著しく異なった解釈がされるということはなかったのである。  

p139
すなわちいかなる個人存在もまたいかなる事物を永久に存在する(常住)と考えてはならないし、また反対にただ消え失せてしまうだけである(断滅)と考えてもならない。「不断不滅」は仏教徒にとっては絶対の真理である。

p155
その最後の目的は、もろもろの事象がお互いに相互依存または相互限定において成立(相因待)しているということを明らかにしようとするのである。すなわち、一つのものと他のものとは互いに相関関係をなして存在するから、もしもその相関関係を取り去るならば、何ら絶対的な、独立のものを認めることはできない、というのである。

元来空観は仏教の根本思想であり、たんに大乗においてのみこれを説くのではない。仏教成立の当初から空の立場は一貫して存続している。

p247
近年の研究(宇井伯寿博士や西義雄博士)によれば、小乗においてさえも法空が説かれているという。通常いわれるように小乗は個人存在の空(人空)のみを説いていたのではなくて、法空をもすでに説いていた。

p248
ところが「般若経」の始めの部分が成立したころに、反対派の人々はその主張を聞いて、空を無の意味に解し、空観を虚無論であるとして非難するに至ったのであろう。そこで後になると、空の意味を一層明らかにし誤解を防ぐために、最初期の仏教以来重要であった「縁起」という語をもってきて、それを「相互限定」「相互依存」の意味に解して空および無自性とは縁起の意味であると説明するに至ったのであろう。

p249
「中論」が著されるよりも遥か以前にすでに大乗仏教は空を説いていたのであるが、空に対して「疑見を生じ」る人が現れ、「種々の過ちを生ずる」に至ったので、決して反対者の誤解するような意味ではないということを「中論」によって蘭名したのである。 

p254
空は有と無という二つの極端(二辺)を離れていることとなる。故に空は二辺を離れた中道である、ということになる。  

p283
「諸法実相」の原語は多数ではあるが、結局は同一の趣意、すなわち、諸法が互いに相依り相互に限定する関係において成立している如実相を意味し、「縁起」と同義である。

われわれは生存に執著して、妄執によりあくせくしてはならない。しかしまた非生存(断滅)にとらわれて、人生を捨てて虚無主義になってはならない、と原始仏教が説いていたことは事実である。

相互に相依って起こっている諸事象が生滅変遷するのを凡夫の立場からみた場合に、生死往来する状態または輪廻と名づけるのであり、その本来のすがたの方をみればニルヴァーナである。

p294
輪廻というのは人が束縛されている状態であり、解脱とは人が自主的立場を得た状態をいうのである。両者は区別して考えられやすいけれども、その根底をたずねるならば両者は一致している。 

p304
この縁起の如実相を見る智慧が<明らかな智慧>(般若)である。「大智度論」においては、諸法実相を知る智慧が般若波羅蜜であると説明されているが、結局縁起を見る智慧を意味していることに変わりはない。

p310
法の領域においては諸法は相関関係において成立しているものであり、その統一関係が縁起と呼ばれる。その統一関係を体得するならば無明に覆われていた諸事象が全然別のものとして現れる。この「縁起を見る」こと、および縁起の逆観はすでに最初期の仏教において説かれている。 

p435
ナーガールジュナの著した「十住毘婆沙論」の浄土教関係の部分は、後世の浄土教の重要なささえとなり、またさらに密教も「華厳経」などの影響を受けてはいるが、ナーガールジュナの思想の延長の上に位置づけることもできよう。 

p445
<空>の教義は虚無論を説くのではない。そうではなくて「空」はあらゆるものを成立せしめる原理であると考えられた。それは究極の境地であるとともに実践を基礎づけるものであると考えられた。

p446
宗教的な直観智による認識は、鏡が対象を映すことにたとえられる。大乗仏教、とくに唯識説では、われわれの存在の究極原理であるアーラヤ識が転ぜられて得られる智を大円鏡説と呼んでいる。

「空」の真の特質は「何もないこと」であると同時に、存在の充実である。 それはあらゆる現象を成立せしめる基底であ。空を体得する人は、生命と力にみたされ一切の生きとし生けるものに対する慈悲をいだくことになる。慈悲とは、<空>--あらゆるものを抱擁することの、実践面における同義語である。

 

空と救済あるいは憐憫 ランバート・シュミットハウゼンの論文から


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