遠藤周作の「深い河」を読んだ。
行き倒れを背負って火葬揚に行くひとはユダヤ教徒でも仏教の信徒でもヒンズー教でも神である。そんな汎神論の神が遠藤周作の神観だ。
もっと怖ろしいことはこの日本人の感覚には基督教をうけ入れない何ものかがあることなのです。私は青年期のはじめ頃からこの日本人の謎のような感覚を自分の周囲のなかに、いや自分の中にさえ発見して愕然としはじめました。遠藤周作「私とキリスト教」
遠藤周作がキリスト信者にとどまったのはさまざまな宗教は同一の地に通ずる道であるとの理解に至ったからだ。深い共感を覚える。
遠藤周作の違和感
「神は人間の善き行為だけではなく、我々の罪さえ救いのために活かされます」この考えは修道会では危険なジャンセニスム的で、マニ教的な考えだ・・・と叱責をうけました。
ぼくはヨーロッパの基督教を信じているんじゃありません。・・・ぼくはここの国の考え方に疲れました。
日本人としてぼくは自然の大きな命を軽視することには耐えられません。いくら明晰で論理的でも、このヨーロッパの基督教のなかには生命のなかに序列があります。
よく見ればなずな花咲く垣根かな
はここの人たちには遂に理解できないでしょう。もちろん時にはなずなの花を咲かせる命と人間の命とを同一視する口ぶりをしますが、決してその二っを同じとは思っていないのです。
私の心の中にはこの基督教に浸されていないもの、むしろ基督教とは相反する感覚が、かくされていたことを、私は青年時代になってやっと気づいたのです。遠藤周作「深い河」
東洋人の宗教心理には「母」なるものを求める傾向があって、「父なるもの」だけの宗教にはとても従いていけぬというのが私の持論である。
多くの日本文学者や知識人がその人生の終りに、東洋的な諦めの世界、つまり汎神論の世界にはいっていく事実を考えました。・・・これこそ基督教とはもっとも相反したものなのです。それは神の代りに大きな自然や、宇宙にそのまま吸いこまれていきたいという感覚です。遠藤周作「私とキリスト教」
汎神論的な感覚
ぼくが、一番、批判を受けたのは、ぼくの無意識に潜んでいる、彼等から見て汎神論的な感覚でした。
ぼくは神父になるために必要な従順の徳に欠け、本当の信仰に必要な原則を見失っているという評価を受けました。・・・ぼくが相変わらずヨーロッパ式の基督教だけが絶対だと思えないと答案に書いたり口にしたからでした。・・・ぼくは人がその信じる神をそれぞれに選ぶのは、生まれた国の文化や伝統や各自の環境によることが多いと、当然なことながら思うのです。・・・ユダヤ教徒にも仏教の信徒のなかにもヒンズー教の信者にも神はおられると思います。(遠藤周作「深い河」191-192頁)
なぜ彼等が他の宗教の徒を軽蔑したり、心ひそかに優越感を感じねばならぬのでしょう。ぼくは玉ねぎの存在をユダヤ教の人にもイスラムの人にも感じるのです。(遠藤周作「深い河」195・6頁)
彼こそ行き倒れを背負って火葬揚に行かれたと思うんです。
玉ねぎがヨーロッパの基督教だけでなくヒンズー教のなかにも、仏教のなかにも、生きておられると思うからです。思っただけでなく、そのような生き方を選んだからです」(遠藤周作「深い河」295-6頁)
マハートマ・ガンジーの語録集「私はヒンズー教徒として本能的にすべての宗教が多かれ少なかれ真実であると思う。すべての宗教は同じ神から発している。しかしどの宗教も不完全である。なぜならそれらは不完全な人間によって我々に伝えられてきたからだ。・・・さまざまな宗教があるが、それらはみな同一の地点に集り通ずる様々な道である。同じ目的地に到達する限り、我々がそれぞれ異なった道をたどろうとかまわないではないか」 大津の好きなこの言葉。(遠藤周作「深い河」306頁)
人間である以上、おれは悪い奴だ、と心の底から思ったら救われると思うのです。
人生と生活の違い
老年でなくても病気をしていると、人は生活から人生の次元にいつの間にか滑りこんでいますね。私は、生活必ずしも人生ではない、と考えています。
生活は私の考えでは自分の心の奥底にあるもの、自分の人生の核になっているものを無視、軽視していなければなかなか成立しないものです。生活は道徳、世間体、外づらを大事にしないと運びませんし、自分の心の奥底にかくしているものを露骨に見せるわけにはいきません(中略)我々は心のなかに抑えこんでおかねばならぬものがたくさんあります。そういう形で成立しているのが生活です。
西洋的な考え方からすれば、人間は人間にしかなれない存在であって、その意味で神に対立している、人間は勿論、神の御手にかえることが出来る、しかし、それは汎神論のごとく、人間が全体に還ると言う受身のかたちではありません。人間は人間しかなりえぬ孤独な存在条件を課せられております。したがって、神でもない、天使でもない彼は、その意味で神や天使に対立しているわけです。つまり、神との闘いなしに神の御手に還るということは、カトリシスムではありません。(「神々と神と」)
カトリック者の本来の姿勢は、東洋的な神々の世界のもつ、あの優しい受身の世界ではなく、戦闘的な、能動的なものです。彼が戦い終って、その霊魂をかえす時にも、神の審判が待っています。永遠の生命か、永遠の地獄かという、審判が待っています。(「神々と神と」
「神とはあなたたちのように人間の外にあって、仰ぎみるものではないと思います。それは人間のなかにあって、しかも人間を包み、樹を包み、草花をも包む、あの大きな命です」「神々と神と」
イエスはその「愛」を最後の死の苦しみのなかで身をもって教えようとしたのです。・・・彼が教えていたのは、地上的な効果ではなくて、もっと違ったものじゃないかという考えが弟子たちの中に芽生えてきます。・・・弱虫であった使徒たちが最後には強虫になって 『私にとって神とは』57頁
司祭は足をあげた。足に鈍い重い痛みを感じた。それは形だけのことではなかった。自分は今、自分の生涯の中で最も美しいと思ってきたもの、最も聖らかと信じたもの、最も人間の理想と夢にみたされたものを踏む。この足の痛み。その時、踏むがいいと銅版のあの人は司祭にむかって言った。踏むがいい、お前の足の痛さをこの私が一番よく知っている。踏むがいい。私はお前たちに踏まれるため、この世に生れ、お前たちの痛さを分かつため十字架を背負ったのだ。こうして司祭が踏絵に足をかけた時、朝が来た。鶏が遠くで鳴いた。 『沈黙』
ガンジス河を見るたび、ぼくは玉ねぎを考えます。ガンジス河は指の腐った手を差し出す物乞いの女も殺されたガンジー首相も同じように拒まず一人一人の灰をのみこんで流れていきます。玉ねぎという愛の河はどんなよごれた人間もすべて拒まず受け入れて流れます。(遠藤周作「深い河」298頁)
「川はきれいなんですか」と日本人観光客に聞かれた時、江波は「日本人から見ると、世辞にも清流とはいえません。ガンガーは黄色っぽいし、ジャムナー河は灰色だし、その水が混りあってミルク紅茶のような色になります。しかし、奇麗なことと聖なることとは、この国では違うんです。河は印度人には聖なんです。だから沐浴するんです」遠藤周作「深い河」
印度の女神
「印度の女神は柔和な姿だけでなく、怖しい姿をとることが多いんです。それは彼女が誕生と同時に死をも含む生命の全体の動きを象徴しているからでしょう。マリアは母の象徴ですが、印度の女神は烈しく死や血に酔う自然の動きのシンボルでもあるんです」(遠藤周作「深い河」218-9頁)
この女神はチャームンダーと言います。チャームンダーは墓場に住んでいます。だから彼女の足もとには鳥に啄まれたり、ジャッカルに食べられている人間の死体があるでしょう。・・・彼女の乳房はもう老婆のように萎びています。でもその萎びた乳房から乳を出して、並んでいる子供たちに与えています。彼女の右足はハンセン氏病のため、ただれているのがわかりますか。腹部も飢えでへこみにへこみ、しかもそこには蠍が噛みついているでしょう。彼女はそんな病苦や痛みに耐えながらも、萎びた乳房から人間に乳を与えているんです(遠藤周作「深い河」220-1頁)
闇の上に別の闇を更にもうひとっの闇を幾重にも重ねて塗りつぶしたような暗黒。仏教でいう無明の世界とはこれだと彼女は思った。
人間の救い主は馬小屋のなかの馬糞でよごれたきたない場所に生まれたというイメージです。それは人間に自らの心の中の馬小屋のようなきたない場所にイエスを探したいという我々のひそかな欲望のあらわれではないでしょうか。我々の心のなかの馬小屋と同じような汚れた場所それは前にも申し上げた阿頼耶識のことではないでしょうか。阿頼耶識には我々のいまわしい欲望がいっぱいつまっていて、馬糞でよごれ、臭気にみちた無明の世界だからです。そこに純真な赤ん坊が生まれ、イエスが生まれる。その臭気や無明の場所を浄化してくれる。
我々は忘れていた別の世界に今から入っていくんです。そのおつもりで印度を旅してほしいんです。もちろん、これは、ぼくの個人的考えですが......(170-1頁)
転生 復活
「少なくとも奥さまは磯辺さんのなかに…確かに転生していらっしゃいます」
玉ねぎが殺された時・・・弟子たちは一人残らず玉ねぎを見棄てて逃げて生きのびたのですから。裏切られても玉ねぎは弟子たちを愛し続けました。だから彼等一人一人のうしろめたい心に玉ねぎの存在が刻みこまれ、忘れられぬ存在になっていったのです。・・・玉ねぎは死にました。でも弟子たちのなかに転生したのです」。(297-8頁)