財団法人道路施設協会(現在の高速道路交流推進財団)は、1965年に道路施設の整備と保全を目的に設立された団体で、当初は全国の高速道路上にあるサービスエリア(SA)やパーキングエリア(PA)の管理・運営を一手に引き受けていました。また、高速道路の中央分離帯に光ファイバケーブルを埋設して通信インフラ整備にも取り組んでいました。
しかし、2005年に道路関係四公団が民営化されたことに伴い、高速道路上のSA・PAの管理・運営も民間企業に移管されることとなりました。2006年4月1日付けで、道路施設協会は高速道路交流推進財団に改組され、一部を除いたSA・PAの管理・運営業務はネクセリア東日本、中日本エクシス、西日本高速道路サービス・ホールディングスに承継され、現在は高速道路交流推進財団は、高速道路上での休憩・情報提供サービスの充実や高速道路と地域社会の交流促進などを行っています。
NTT法が適用されるのは持株会社と東西地域会社のみで、旧電電公社の事業を受け継ぐ主要子会社のうちNTTコミュニケーションズ(NTTコム)、NTTドコモ、NTTデータには適用されない。ただし、コムとドコモの通信事業については電気通信事業法など他の法律により一定の規制を受けている。
1982年の臨調答申では、電電公社の民営化が提案されましたが、その理由は一般論であり、電電公社に対して特に問題視されていたわけではありませんでした。実際、民営化の優先度は低かったとされています。しかし、電電公社側は経営の自由を求めて民営化を進めることを望んでいました。
民営化を求める電電公社側の本音は、経営の自由であることが鈴木良男へのインタビューで明らかになっています。郵政省の過度な介入が効率的な経営を妨げているという意見があり、経営の自由を求める声が強まっていました。
また、1982年に報じられた電電公社近畿電気通信局での経理不正事件も、公社体質が原因とされることがありました。この事件に関しては、会計の厳格さから自由に使える交際費がなく、不祥事が起きるという説明がされています。
総じて、NTTの民営化には賛否両論があり、郵政省は反対の立場を取っていました。
1982年4月19日、郵政省は電電公社の経営形態に関する支出増加を発表し、民営化を牽制しました。しかし、電電公社の真藤総裁は1982年4月21日に民営化しても赤字にならないことを強調し、民営化を促進する姿勢を示しました。郵政が民営化を受け入れた理由は、電気通信事業者の規制緩和が見込まれたからだと思われます。
1985年の電電公社民営化は、組織再編成をせずに民営化し、NTTのあり方を5年以内に再検討し、政府に対して必要な措置を講じることを義務付ける三原則に基づいて行われました。国鉄の民営化とは異なり、電電公社の民営化では地域分割が採用されませんでした。
真藤氏は初代社長に就任し、日本電信電話株式会社法が不本意であると感じました。彼は5年後の見直し時に法律の廃止を期待していたと思われますが、1988年のリクルート事件で逮捕され、退任しました。
郵政省は1988年に電気通信審議会にNTTの在り方を諮問し、1990年に答申を得ました。答申では、民営化後に遠距離料金が下がり続けているものの、地域網の競争導入が進展していないと判断し、さらに5年間の様子見を提案しました。1988年に審議会に再検討を諮問すること自体、無理があったと言えるでしょう。
審議会の答申を受けて、郵政省はNTTの民営化後の状況をさらに5年間観察することにしました。この期間中、遠距離料金の値下げが続く一方で、地域網の競争導入が十分に進展しない状況が続いていました。
1995年、5年間の様子見期間が終了し、改めてNTTの在り方について検討が行われました。この検討を経て、NTTの分割・再編成が決定され、同年にNTTが東日本電信電話(NTT東日本)と西日本電信電話(NTT西日本)に分割されました。これにより、競争環境が整備され、サービスや料金の改善が促進されることが期待されました。
その後も、日本の通信市場は競争が進み、新規参入企業や新たなサービスが登場しました。これにより、利用者にとって選択肢が増え、より利便性が向上しました。しかし、一方で、NTTが地域網において依然として強い影響力を持ち続けていることから、競争環境が十分でないとの指摘も存在しています。
今後、日本の通信業界はさらなる競争促進や規制緩和を通じて、利用者の利便性向上やサービスの充実を目指すことが求められます。また、新たな技術やサービスが登場することで、業界全体のイノベーションが進むことが期待されています。
政府は、電気通信審議会答申を受けて、1990年3月末にNTTのあり方を見直す決定をしました。本来、「講ずる措置」とは、NTTの再編成と一緒に行われるべきものですが、政府は「講ずる措置」だけを実施することにしました。これは、政府特有の文書作成スタイルで、異なる解釈ができるように書かれています。
1990年3月30日、政府は以下の決定をしました。
- NTTは、長距離事業と地域別事業制を導入し、その収支状況を開示するようにします。これにより、接続料金の基礎データが整備されます。
- NTTから移動体通信業務を分離し、完全民営化します。これを受けて、ドコモの前身であるエヌ・ティ・ティ・移動通信企画(株)が設立されることになります。
- 接続の円滑化のため、POI(ポイント・オブ・インターコネクション)の設置を改善します。最終的には、任意の加入者交換機にPOI設置が認められるようになります。
- 内部相互補助の防止。NTTの長距離事業部門と地域事業部門、あるいは異なるサービス間での相互補助を防止します。
- 情報流用の防止。NTTの顧客情報データベースを、長距離事業部が利用できないようにします。これにより、公正な競争が保たれます。
- デジタル化の前倒し。電子交換機D70やクロスバー交換機によるID送出機能を早期に実施します。1993年7月26日には、全NTT交換機のID発出機能化が完了します。
これらの決定により、公正な競争が促進され、NTTの経営も透明化されることが期待されます。しかし、企業倫理に関する課題も残っています。
NTTの経営改善と規制緩和を通じて、国民および利用者の利益を増進しようという取り組みは、政府圧力があってこそ実現できたものであり、その歴史的評価には疑問が残るものの、一定の改善が見られた。
しかし、経営トップが労働畑に偏っていたことは、顧客のニーズよりも労働組合の利益を重視する傾向があったと言える。その後のNTTの経営者は労務畑の出身であったが、団塊世代の余剰人員問題はやはり大きな課題であった。
必要な規制緩和は、当時の電気通信全体の均衡ある発展を図るために政府が求めていたものであり、また、株価の維持に関しては、株主の納得や協力が得られる前提で、NTT再編成問題の先送りによって株価が低迷することを避けるための宣言であったと考えられる。
政府とNTTの本音や思惑については推測の域を出ないが、政府は完全民営化を防止するために分離分割問題を慎重に扱っていたとも考えられる。また、郵政は完全民営化を嫌っており、そのためにNTT法の廃止を含む完全民営化に消極的であった可能性がある。その結果、1999年の持ち株会社方式による決着は、政府とNTTの妥協の産物であり、政府のコントロール下にNTTを維持することに成功したと言える。
郵政省がNTTの内在的制約を強調していたことは、政府がNTTを完全民営化することを望まず、一定の管理下に置きたかったことを示唆しています。この点で、JRの完全民営化との対比が興味深いです。
JRは、特殊会社から民間会社への移行が比較的スムーズに進んだ一方で、NTTの場合は、政府との関係がより複雑であり、完全民営化への道のりは遠いままでした。JRの完全民営化が達成された後も、国土交通省は一定の権限を保持し続けており、これは、政府がインフラ関連の事業に一定の影響力を維持したいという意図があると考えられます。
これからのNTT民営化や再編成の評価・研究において、JR民営化との比較が有益であると言えます。NTTの場合、政府との関係がより密接であり、完全民営化への道のりが遠いという状況があるため、その課題や成功要因を見極めることが重要です。
また、政府の規制緩和や競争環境の整備に努めることが、NTTの経営や市場環境の改善につながると考えられます。政府とNTTが協力し、市場競争力の向上や規制緩和に対応する取り組みを進めることで、国民や利用者の利益を最大化することができるでしょう。
今後、NTT民営化や再編成に関する評価・研究は、JR民営化との比較を通じて、さまざまな視点からの検討が求められます。その結果、NTTの経営改善や市場環境の改善に役立つ知見が得られることが期待されます。