10代から20代にかけてさまざまな人の講演を聞いた。升田幸三、紀野一義、加藤登紀子、中根千恵、吉田健一郎、糸川秀夫、幸田文、西堀栄三郎、田中聡子など、それぞれの話は面白くていまだに記憶に残っていて、話を聞いた場所まで一体となって脳裏に浮かぶ。
本田宗一郎
ところが明確に聞いた場所を思い出せない人が一人いる。ホンダの創業者である本田宗一郎だがどこかで講演を聞いたように記憶している。おぼろな記憶では大阪府箕面市の中学校の体育館だった気がするのだが、忙しい盛りの本田社長が郊外の中学に講演にくるなどがありえるのだろうかという気もする。中学生といえば1960年前後で、本田社長が1906年生まれだから54歳前後ということになり、東京で精力的に仕事をしているころになるからどうも不自然である。しかし聞いた記憶がぼんやりとあるのだからいまだに釈然としない。そのうち釈然とする機会がやってくるのかも。(後年、孫正義氏の口から、官庁との攻防では佐川急便の佐川氏とホンダの本田氏のやり方に影響を受けていると聞いたことがある)
幸田文
ネットでなにかの拍子に幸田文の文字が目に入った。すると40年前に聞いた講演が記憶に上ってきた。そのとき彼女は和服を召されて、父がトンツー屋さんから出発して、その後作家になったという話をしていた。トンツー屋さんとはモールス信号の打電と受信の専門家の事だ。
彼女の話の中でトンツー屋さんの父とは幸田露伴*のことで、講演では父、露伴は金沢の逓信講習所と呼ばれた官立職業訓練校でモールス通信の訓練を受けてその職に就いたという。そのほかいろいろとエピソードなどをお話になっていた事は覚えているのだがが、具体的には残念ながらそのトンツー屋さんの話ししか思い出せない。そしてその講演会の語り口と和服の立ち居が粋であったというおぼろげな記憶もある。
浅田次郎に「ぽっぽや」という小説があり高倉健で映画化もされたが、このぽっぽ屋さんという呼び方とトンツー屋さんも似ている。明治の時代には職業をこんな風によぶならいがあったようだ。呼び方はどこかコミカルでかつ適当な尊敬の念も感じられる。
「ぽっぽやさん」では既に名作があり、映画も感動的だった。明治時代のもう一つの雄、「トンツー屋さん」で誰か名作を書いてくれないものか。
吉田健一郎
おそらく睡眠薬が効いたままだったのだろう。眠りながらしゃべっていた。
西堀栄三郎
「なんでもやってみりゃー」が口癖だった。
加藤登紀子
「あら、こんな若い男性に囲まれて恥ずかしいわ」
紀野一義
「嘔吐の一関をくぐる」
升田幸三
「母親に頭を殴られてから特殊な映像記憶力が消えてしまった」