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『まさ』の気になる記事

スポーツ関係を中心に気になった記事をピックアップ

ありがとうSHINJO!

2006年10月27日 | 野球
【日本ハム4-1中日】さよならSHINJO、そしてありがとう。日本ハムが26日、日本シリーズ第5戦で中日を破り、4勝1敗で前身の東映時代以来44年ぶりの日本一に輝いた。今季限りで現役引退を表明していた新庄剛志外野手(34)は、涙のフルスイングで超満員の地元ファンに別れを告げた。ナインの手で4度宙に舞い、プロ生活17年間を最高のフィナーレで飾った新庄は27日、札幌ドームで引退会見を行う。

 涙が止まらなかった。新庄がウイニングボールをつかんだ森本と1つになった。七色の紙テープが左中間の2人を包み込む。プロ17年間のすべてが終わった。弟分の左肩に顔を伏せ、新庄の号泣は止まらなかった。

 マウンド上で人さし指を突き立てたナインの輪も外野へ向かった。まさに新庄のためにあった日本シリーズ。誰よりも真っ先に二塁後方で4度、宙を舞った。

 「(強運を)持ってるわ、オレ。ほんと、この漫画みたいなストーリー。出来すぎって思いません?今後、体に気をつけたいと思います」

 涙が乾いた記者会見ではすがすがしい笑顔を浮かべて笑いを誘った。

 前日、自打球を当てた左ひざは大きく腫れていた。1―1の6回1死三塁からセギノールの勝ち越し2ランに「凄い」と声を張り上げて稲葉と抱擁。直後の打席では二遊間の打球に全力疾走。内野安打にして両手を広げて万歳した。

 「この仲間とできなくなるという気持ちが強くて、7回くらいからボール見えなかった」

 8回、現役最後の打席。涙でボールはかすんだ。初球を見逃し。マスク越しに中日・谷繁が「泣くな、真っすぐしか投げないから」とつぶやいた。体がねじれるほど振った。こん身のフルスイングこそが、新庄が新庄である“証”だった。空振り三振。最後までらしさを失わなかった姿に、万雷の拍手は1分近く鳴りやまなかった。

 今季の新庄は一挙手一投足がまさに「遺言」だった。投手が打たれて沈痛な顔を見せれば「誰も悲しんどらんよ」、高橋や稲田ら知名度は低くとも明るい野手には「もっと素を出していけ」。かつて身近にいてほしいと感じた経験あるベテランを自ら演じ、強いきずなで結ばれた集団をつくり上げた。「(小学)2年生から34年生までやった」野球人生の劇的フィナーレ。阪神入団1年目、地元福岡・平和台で行われた2軍戦は先発落ち。出番は来たが、ネームボードはペンキが垂れて読めなかった。00年オフ、FAでメジャー最低保証額の年俸20万ドルでメッツ入り。夢を追い、海を渡ってまで足りなかったものを積み上げた。

 17歳の時に7000円で購入したグラブを今まで使い続けてきた。踏まれて破れ、相手につかみかかったこともある。阪神のマークと当時の背番号「63」が縫い込まれた黒ずんだグラブは、補修と毎日の手入れを繰り返し守備力が生命線の新庄を支え続けた。そのグラブ、大腿部に腰、アキレス腱と満身創いの体を休ませる時がきた。日米野球を辞退、アジアシリーズにも出場しない。ヒルマン監督は「これ以上一緒にプレーできないのは残念。でも最高の形でグラウンドを去っていける」と別れを惜しんだ。

 4万2030の観衆、そしてブラウン管越しに日本中のファンが背番号1の雄姿を脳裏に焼き付けた。

 「きょうが最高の思い出になります。背番号1?ひちょりにつけてもらいたい。僕の気持ちはそうです」

 通算打率・254は平凡かもしれない。でも“凡人”とは対極にいたプロ人生17年間。あの時と同じように、スコアボードの名前がにじんで見えたのは涙のせい。永遠に色あせることのない強烈な記憶を残して、新庄が野球人生の幕を引いた。

また駒苫と早実がみられる 37年ぶり2度目再試合…第88回高校野球選手権

2006年08月21日 | 野球
第88回高校野球選手権決勝・早実1-1駒大苫小牧(20日、甲子園) 球史に残る激闘が、繰り広げられた。夏3連覇を目指す駒大苫小牧(南北海道)と夏初Vを狙う早実(西東京)との決勝戦は、8回に両校が1点ずつを挙げて延長戦に突入。ともに勝ち越しの好機を作るも、決定打が出ずに延長15回、3時間37分に及ぶ熱戦の末、引き分けた。決勝では1969年の松山商(愛媛)-三沢(青森)以来となる37年ぶり2度目の引き分け再試合。死闘の第2ラウンドは21日午後1時、プレーボールとなる。

 西へ傾き始めた太陽が、激戦の主人公たちを照らした。延長15回裏2死一塁、駒大苫小牧のエース右腕、田中将大が、歯を食いしばって165球目を放った。早実の4番・後藤貴司のバットからフラフラと舞い上がった打球は、3時間37分の死闘に“水入り”を告げる遊飛。マンモス球場を埋め尽くした5万人の大観衆は皆、両軍ナインが引き揚げるまで席を立って温かい拍手を送り続けた。

 伏兵のひと振りが、均衡を破った。8回だ。駒大苫小牧の三木悠也が、早実・斎藤佑樹の真ん中低めのストレートをすくい上げた。バックスクリーンまで届く公式戦3号。「入るとは思わなかったから驚いた」一塁を回ったところで、ようやく自分の大仕事に気付いた背番号6。今春、不祥事でセンバツの出場辞退を強いられたときには「もう野球をやめようかって同級生と話し合った」。何とか思いとどまり、「悔しさを全部、夏にぶつけるつもりで」練習を重ねた“脇役”が、スポットライトを一身に浴びた。

 しかし、甘くはなかった。その裏だ。1死から早実の3番・桧垣皓次朗が、左中間を破る二塁打。左翼手の渡辺準輝からの返球が、連係ミスで外野の芝生に転がる間、一気に三塁へ。三塁側アルプス席へ向かって何度もガッツポーズだ。「覇者、覇者、ワ・セ・ダ!」早大第一応援歌、「紺碧の空」が、超満員の球場に響き渡る。地鳴りのような大合唱に後押しされ、続く主砲の後藤が、同点の中犠飛。寄せては返す波のように試合の流れは、両チームを行き来した。

 死力を尽くした選手たちに笑顔はない。駒大苫小牧の田中は「簡単に点は取れないと思っていたけど…」と、泥まみれのユニホームに視線を落とした。延長13回2死二塁のチャンスでは、平凡な三ゴロ。タイミングは完全にアウトだったが、一塁へ公式戦初のヘッドスライディングを敢行した。「あれは無意識にやった」北の怪物が、3連覇への執念をさらけ出した瞬間だった。

 栄冠の行方は、21日のリターンマッチに持ち越された。駒大苫小牧の香田誉士史監督(35)は「投手が力を振り絞ったナイスゲーム。もう一度、甲子園でできるのはうれしい」と、前を見据えた。「うちは強くなったと確認した。去年の秋(神宮大会準決勝で3-5と敗れた時)に比べて力をつけたよ」と、早実の和泉実監督(44)も手応えを口にする。4112校の頂点に立てるのは、1校。だが、勝利の女神は、ほほ笑む相手を最後の最後まで迷うに違いない。

交流戦開幕セ4勝、パ2勝 阪神はロッテに雪辱

2006年05月10日 | 野球
 導入2年目を迎えたプロ野球セ、パ両リーグによる交流戦が9日、北海道から福岡まで全国各地のナイター6試合で開幕し、セが4勝、パが2勝のスタートとなった。
 阪神は地元甲子園球場で、昨年の日本シリーズで4連敗した交流戦の初代王者ロッテに7-2で快勝し、雪辱を果たした。セの首位を快走する巨人は敵地スカイマークスタジアムに乗り込んでオリックスと対戦し、8-4で退けた。
 交流戦は6月18日まで予定され、各チームが計36試合を戦うためペナントレース争いの影響も大きいといわれる。ヤクルトの古田敦也兼任監督と楽天の野村克也監督の“師弟対決”にもファンの関心が集まっている。

清原和博仰木氏の恩義に報いる

2005年12月21日 | 野球
 前巨人の清原和博内野手(38)が20日、都内のホテルで会見し、オリックス入りを正式に表明した。「おまえの最後の花道はおれがつくってやる」とオリックス入りへラブコールを送り続けてくれた仰木彬前監督(享年70)が15日に死去。その恩義に報い、地元大阪、パ・リーグ、そしてプロ野球ファンのために、オリックスでプレーを続けることを決断した。1年、年俸2億5000万円(推定)の条件提示を受けているが、26日に最終交渉を行い入団会見する。

 男の約束です-。清原はそう言いたかったはずだ。オリックス決断へ、仰木氏の言葉、そして命をかけてグラウンドに立ち続けた姿が、大きく影響したのは間違いなかった。

 清原「とにかく大阪に帰ってこい。おまえの最後の花道は、オレがつくってやる。その言葉が心の中に一番残ってます。大阪でプレーすることを天国の仰木さんにご報告したいです」。

 仰木氏の“遺言”に、男・清原が浪花節でこたえた。巨人から8月下旬に戦力外通告を受けた。オリックスに続いて、楽天とも極秘に接触した。条件次第でセ・リーグ球団も水面下で調査した。だが、清原は恩義を忘れることはできなかった。

 体調が良ければ仰木氏は監督を続けるはずだった。昨年オフ、巨人残留か移籍かで揺れた際、仰木氏は心から消えることのない言葉を残した。「最後はオレと一緒に地元大阪でやる。いいかキヨ、これは男の約束だからな」。その恩師が15日に肺がんのため死去した。ハワイで訃報(ふほう)を聞いた清原に、迷いはなくなった。

 清原「昨年から、仰木さんから熱心なお誘いを受けた。その中でいろいろ心に響く、温かい希望に満ちた言葉をいただいた。本当に感謝しています」。

 巨人から戦力外通告を受けたショックで心の整理に時間が必要だった。小さいころから巨人でプレーすることを夢見てきた。96年オフにFAでその巨人へ移籍。9年間プレーした。不本意なシーズンが多かったが、体を張って日本一にも貢献してきた。あこがれの巨人を追われるのは自らの責任と自覚しながらも、一時は引退も考えた。清原は「(戦力外通告に)身も心も切られた思いだった」と振り返った。

 巨人からは慰労、感謝の言葉はなく、文句の1つも言いたかったはずだが、清原はそんな思いは封印した。「本当に巨人ファンの方には、誰よりも大きな声援をいただいた。心から感謝してます」と頭を下げた。来年8月には39歳となる。39歳時の最多本塁打は、王貞治氏(現ソフトバンク監督)の33本塁打。「まずはその記録に挑戦したい」と目標を語った。阪神・淡路大震災から10年の区切りの年に、オリックスへ移籍するのも何かの縁か。

 清原「もう1度、野球をやりたいと心に決めて、地元大阪、手を差し伸べてくれたオリックス、育ててくれたパ・リーグ、プロ野球ファンのために、来季は大阪で精いっぱいプレーしたいと思います」。

 26日の大安吉日に大阪市内で最終交渉を行い、プロ野球人生で3度目のユニホームに袖を通す。

<仰木彬監督死去>驚き、別れを惜しむ声、声…

2005年12月16日 | 野球
 近鉄、オリックスの監督時代に野茂、イチローというメジャー選手を育て上げ、選手の個性を生かした「仰木マジック」で両チームを優勝に導いたオリックス・バファローズのシニア・アドバイザー、仰木彬さん(70)が15日、逝った。95年の阪神大震災の年、オリックス監督として「がんばろう神戸」を合言葉に優勝を飾り、被災者に勇気と感動を与えた名将。突然の悲報に、関係者の間には驚きと早過ぎる別れを惜しむ声が広がった。
 ◆被災した神戸ファンにも力を与えてくれた
 仰木さんは震災直後、98店のうち93店が震災による火災で全焼した神戸市長田区の大正筋商店街に、イチロー選手を連れて励ましに訪れた。
 同商店街振興組合の上田司郎理事長(71)は「いつも、励ましの声を掛けてくれた。今年も3月に谷佳知選手ら大勢の選手を連れてイベントに来てくれたばかり。これからも頑張ろうとおっしゃっていただいたのに……」と、突然の訃報に驚きを隠せない様子。
 震災前からほぼ毎試合スタンドから声援を送り、96年の日本一をともに喜んだ同区の会社員、南原達志さん(27)は「ショックだ。震災後、『がんばろうKOBE』のワッペンを付けてくれて、それまで神戸のチームとしてまとまっていなかったファンとチームに一体感が生まれた。仰木監督は被災した神戸のファンにも力を与えてくれた偉大な人」と惜しんだ。
 大阪ドーム近くにあり、商店街ぐるみで近鉄、オリックス両チームを応援してきたナインモール九条商店街(大阪市西区)で喫茶店を経営する安田和志さん(43)は「チームの合併でこの1年間、並大抵の苦労じゃなかったはずだけど、笑顔を絶やさずやってきた人だった……」と絶句。「解説者をしていた時は球場の近くで何度か見かけた。商店街の激励会で春先に商店街に来てくれたのが最後。中村監督になったので、調子が悪いのかと思っていたのですが、そこまでだったとは」と声を落とした。
 大リーグの野茂英雄投手の父静夫さん(66)は「まだ若いのに、残念です……」と驚いた様子。「英雄の結婚式で一度、お会いしました。あいさつをしてもらい、話も温厚。笑みを絶やさない、当たりのいい人だなあと思った。ご冥福をお祈りしたい」と話した。
 ◆『男の本懐だ』と仰木さん
 近鉄時代、長年、コーチとして仕えた仰木さんに、監督として帝王学を授けた西本幸雄さん(85)は、再びオリックスの監督を務めることになった昨シーズンのオフに触れ、「『ユニホームを着て、もしものことがあっても男の本懐だ』と言っていた。でも、いくら仰木君自身が覚悟していたといっても、一緒にやってきた者としては残念だし、ショックです。こんなこと夢にも思っていなかった」と力を落とした。ベンチに入った今季も体調面の不安はぬぐえなかったという。「テレビの中継を見ていて、時々画面に映らなくなっていた。でも、ベンチに戻ってからは、そういう気配を感じさせなかった。その辺りが彼のけなげさだろうか」と話した。
 西鉄時代からの盟友で、仰木前監督が近鉄監督時代にはコーチとして一緒にチーム作りをした中西太さんは、仰木前監督の訃報に「彼はよく働き、よく遊んだ。よき友を失った。誰よりも兄弟みたいな関係だった」と声を落とした。最後に言葉を交わしたのは10日ほど前。仰木前監督が入院先から中西さんの自宅に電話を直接かけてきたといい「来春のオリックスのキャンプ(での技術指導)をよろしく頼む」と話したという。
 チーム強化を考え、巨人を自由契約になった清原和博選手の獲得を望んでいたという。中西さんは「彼は死ぬまで野球のことを考えていた。球場に人を呼びたい、だから看板も欲しかったんだろう」と胸中をおもんぱかった。
 ノンフィクション作家の後藤正治さんは「3年ほど前に仰木さんの野球人生を取材したが『遅咲きの監督』という印象だった。近鉄の監督に就任する前に18年間もコーチを務め、しかも打撃や走塁、守備、ヘッドなどあらゆる種類のコーチを歴任した苦労人の蓄積が、監督時代に生きた。抜群の戦力ではないチームを率い、毎年優勝争いに持っていく手腕があった。味わい深い監督だったと思う」と惜しんだ。
 ファン歴40年で、阪急時代から応援団長を務める神戸市須磨区の河内毅さん(63)は「震災の年に優勝、翌年に日本一になってくれた。祝勝パーティーで同じ壇上に上がったとき、握手をして『大変やったなあ』と声をかけてくれたことは、決して忘れない。心からありがとうと伝えたいです」と話した。
 また、三菱重工神戸野球部は、オリックスが日本一になった翌年の97年に日本選手権大会で日本一になった。大川広誉監督(34)は「震災後、野球を通じて神戸を盛り上げてくれた大先輩。野球を続ける励みになった。本拠地を神戸に置くチームとして、監督と同じ思いで野球を続けていた」と語った。

城島がマリナーズと契約 3年で総額23億円

2005年11月22日 | 野球
 日本人捕手で初めてとなる大リーガーが誕生する。プロ野球ソフトバンクからフリーエージェント(FA)宣言した城島健司捕手(29)が3年契約を結んだと、米大リーグ、マリナーズが21日、発表した。
 城島は22日に福岡市内で記者会見する。契約は3年総額で最大1900万ドル(約22億6000万円)とみられるが、AP通信によると、3年間で年俸分は1650万ドル(19億6400万円)で、残りは出来高払いになる。
 日本人捕手がメジャー契約を結ぶのは初めてで、城島は日本人野手第1号のイチロー外野手とチームメートになる。大リーグの1球団に日本人野手が2人所属するのも初めて。
 マリナーズのリンカーン最高経営責任者(CEO)は「城島はマリナーズにとって、大きな財産になる。マリナーズのファンは彼のプレーを楽しむだろう」と述べた。
 大リーグ移籍の夢を追ってFA宣言した城島は、球団施設や生活環境を視察するために家族を連れて7日に渡米。ロサンゼルス入りした後に、シアトルでマリナーズ幹部と2日にわたって会食し、当初予定していたニューヨーク行きを取りやめて19日に帰国した。

松井秀喜、4年62億円 ヤンキースと契約延長

2005年11月17日 | 野球
米大リーグ、ヤンキースの松井秀喜外野手は16日、当地のヤンキースタジアムで記者会見し、4年契約でのヤンキース残留を発表した。年俸総額は5200万ドル(約61億8800万円)で、平均年俸1300万ドルは、イチロー外野手(マリナーズ)を抜き、日本人選手最高額となる。
 ブライアン・キャッシュマン・ゼネラルマネジャー(GM)、代理人のアーン・テレム氏とともに会見に臨んだ松井秀は「僕にとって最高の幸せです。ピンストライプのユニホームを着て、またこの球場でプレーできる幸せを今すごく感じている」と話した。
 ヤンキース残留を優先した理由については「常に高いところに目標を置いているチーム。そこに身を置いて、自分も高い目標を持って戦う」と説明。また「言葉では言い表せないくらい大きな存在」という、ジョー・トーリ監督の残留も要因だったことも明かした。 契約にはトレード拒否条項も含まれ、4年後までヤンキースの一員でいることが保障された。
 松井秀は、2003年に総額2100万ドルの3年契約でヤンキースに入団。今季終了まで、連続試合出場を続け、成績も着実に伸ばしている。

清原和博 今季限りで巨人退団へ

2005年08月17日 | 野球
 巨人・清原和博内野手(37)の今季限りの退団が濃厚となった。16日、清原は川崎市のジャイアンツ球場で球団の医療スタッフと話し合い、左ひざ半月板損傷の手術を行う決意を固めた。しかし、清武英利球団代表(54)は東京・大手町の球団事務所で、手術と来季以降の再契約が「無関係」と断言。今季限りで契約の切れる清原に事実上の“戦力外通告”を突き付けた。
 来季に備えて手術を決断した清原の表情は険しかった。「(チームが)治療してくれということなので、それに従って手術をすることを決めました」。あくまでチーム方針に従ったことを主張したが、球団の対応は冷ややかだった。
 首脳陣が清原を登録抹消にした理由は「治療に専念してほしい」だった。この“治療”を清原は“手術”と受け止めたが、清武球団代表は「治療と手術は直結しない」。手術はあくまでも清原の意思であるとした。認識の食い違いを見せる、両者の溝の深さは明白だった。
 さらに清武代表は今年で4年契約の切れる清原との再契約について「契約は契約、手術は手術」と突き放した。「構想にかかわるので(再契約は)ゆっくり考える。残り39試合ある最中でそういう段階ではないが、最終的に決断する時期は来る」と再契約の意思がないことを暗に示した。
 低迷するチーム改革のため滝鼻オーナーの大号令のもと、若手への切り替えを断行している。登録抹消の前日12日には、足が万全でなかった清原に代表自ら「若い人に機会を与えてほしい」と伝え、この日も「(若手起用は)来年につながるコンセプト」と今後も改革を継続することを明かした。
 昨オフも去就問題がぼっ発したが、契約が1年残っていたことで残留が決まった。だが契約最終年の今年、3億8000万円の高年俸に見合った働きのできなかった清原に球団が大ナタを振るうのは必至。18日に38歳になるベテランが、今オフに引退か移籍かの窮地に立たされるのは確実な情勢だ。

岡田監督 オレ竜なんぼのもんじゃい!!

2005年08月09日 | 野球
 落合竜は落ちる―。阪神・岡田彰布監督(47)が8日、中日との首位攻防3連戦(ナゴヤド)を前に強気な姿勢を示した。「(中日の勢いは)周りが騒いでるだけで、そんなんは続かへん」。昇竜の勢いも我が眼中になし。真の勝負は先と言い切る虎の将は、己の野球だけに専念し、首位をガッチリと堅持する。
 炎暑の中、松山から名古屋への移動。前夜(7日)の敗戦、今岡の途中退場。その揚げ句が2位・中日の大接近。疲れが重なる要素が満載だったが、岡田監督の顔には笑みがあった。
 「涼しいところでできるから、ええんちゃうか」。6月10日以来、守り続けてきた首位の座。球宴明けから5勝6敗と1つ負け越しているものの盤石の投手陣をはじめ、チーム力に絶対の自信を持っている。
 すさまじい勢いで迫り来るオレ竜にも動じるそぶりもない。焦りも気負いもない。4戦連続逆転勝ちと劇的な進撃を続ける中日だが、それは一時の勢いにすぎない。
 「(中日が)すごいペースで来てるから周りが騒いでるだけで、そんなんは続かへん」
 11連勝に連敗を挟んで4連勝。驚異的な猛追を見せるのオレ竜に対し「続かへん」と言い切った。強気とも取れる発言だが、監督就任2年目ながら、選手、コーチ、2軍監督として25年にも及ぶユニホーム生活が、確信を持ってそう話させる。
 敵地・ナゴヤドームは、97年の開場以来、阪神にとって鬼門と呼ばれ続けてきた場所。だが、これが岡田阪神にとっては救いの“オアシス”になるかもしれない。
 金本、矢野らベテラン勢が主力を張るチーム。甲子園―横浜―松山と続いた屋根なし球場の暑さから、エアコンの効いたドーム球場に移れるだけで、疲労の度合いは随分と違う。「ナゴヤドームで勝てないとか言われたけど、3勝3敗やろ。(ここまでの)流れとかも関係ない」と、対等以上の戦いができると見ている。
 世間の注目も集まるカード。それでも「オレはなんとも思ってないよ。まだ40何試合あるんやから。(勝負は)まだ先やろう」と気にするふうは全くない。選手に対しても「周りの声なんかに惑わされんでええ」と自然体を強調した。
 もちろん勝つためにベストを尽くすことに変わりはない。7日の広島戦は胃腸炎で途中退場した今岡もスタメン出場する。先発はエース井川に福原、安藤と万全のローテが予定されている。
 その上で「中日の1勝なんかどうも思ってない。明日から(の3連戦)で終わりちゃう。まだまだ続くんや」。己の道を行くだけ。オレ竜を上回る自然体で、真夏の尾張決戦に挑む。

聖光学院、投打で圧倒=高校野球・聖光学院-佐賀商

2005年08月08日 | 野球
 聖光学院が投打に佐賀商を圧倒。エース舟田はあわや無安打無得点試合の快投だった。1回に敵失から一死二塁とし、舟田、川戸の適時打で2点先取。4回は4安打を集中し、相手守備のミスにも乗じて5点を奪い、主導権を握った。舟田は9回一死後、中山に初安打となる二塁打を許したものの、1安打完封。佐賀商は打線が力負け。4失策と守りも乱れ、これが大量失点につながった。