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さかみち

便り「馬籠宿・御宿/但馬屋」Magome / Tajimaya

一里塚

2009年03月27日 | 馬籠の路傍に残る文学碑等

新茶屋付近の道の両側に「一里塚」が昔の姿で残っています。

江戸幕府は街道整備の一環として一里を三十六町と定めて、一里ごとに道の両側に

土を盛って塚を築き、塚の上には榎又は松を植えて、旅の行程や駄賃・運賃の目安

としたそうです。


正岡子規の句碑

2009年03月09日 | 馬籠の路傍に残る文学碑等
所在地 新茶屋 中山道の路傍
「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな」子規
正岡子規(1867-1902)は明治期の俳人・歌人。本名は常規、松山の出身。明治26年東京大学を中退後俳句革新を唱え、さらに「歌よみに与ふる書」で万葉を理想とする短歌革新を唱えた。
 「かけはしの記」には、この句の前に「馬籠下れば山間の田野照稍々開きて麦の穂已に黄なり。岐蘇の峡中は寸地の隙あらばここに桑を植え一軒の家あらば必ず蚕を飼うを常とせしかば、今ここに至りて世界を別にするの感あり。」と述べている。この碑は昭和54年9月、馬籠観光協会によって建立された。

この場所からの夕日の眺めは一押しです。馬籠から徒歩20分

母を葬るの歌碑

2007年12月20日 | 馬籠の路傍に残る文学碑等
永昌寺境内の小公園にある歌碑です。

母を葬るのうた

きみがはかばに きぎくあり
きみがはかばに かかきあり
くさばにつゆは しげくして
おもからすやは そのむかし
いつかねむりを さめいでて
いつかへりこん わがははよ

島崎藤村の母縫子は明治29年に死去。若菜集に収録されていて昭和47年に住職によって建立されたものです。

芭蕉の句碑

2007年06月21日 | 馬籠の路傍に残る文学碑等
「送られつ 送りつ 果は 木曽の穐」場所は是より北木曽路の碑の近く(新茶屋)句碑が建てられたのは天保13年(1842)で、芭蕉の没後158年にあたります。当時、この地方には芭蕉を祖師とする俳人が多く、この門人たちによってたてられたそうです。藤村の小説「夜明け前」には、この除幕の当日のことが書かれています。