豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

放心

2014-07-27 05:39:56 | 日記
おはようございます!

想念の霧を吹き飛ばしリアルな質感に留まることなく在る皆様。


本日は深夜2時に起床した豊田です。

明け方に思いついて、また、1時間の座禅をしました。


この時に、もちろん体のバランスの悪さを感じて一生懸命正そうとしていました。

外から聞こえてくる鳥や虫の鳴き声が、心に流れている。

聞いているというより、心に直接流れ込んでいるような感覚になります。



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また体の感覚が鋭敏になって、呼吸の肌に触れる質感、身体全体に広がるエネルギーを感じます。

全体性を存在させている、質、この名づけようのない、心の質感が、浮かび上がってくる!


座禅を終えると明らかにリアリティが増しています。

この目の前にある様々な音や匂いや視野、身体の感覚、食べ物の味!

自分の中にある、この記録テープのような、滑らかな心の表皮に触れるリアリティの新鮮なこと。

新鮮さ、また、質感が全く違うようになる。


このような効果がなぜあるのか皆目分かりませんが、やってみる価値は大いにありますね。

1時間が難しい場合は15分くらいでも効果があると思います。


この今の目の前にある奇蹟としか呼びようのない多彩なる宇宙の混淆である人間の世界。

この世に生きるというのは史上最高の映画を見るよりも更に、凄まじく、高揚することだ。

苦の滅尽とは我を滅することであるというブッダさんの名言、また座禅という究極の心理整理の時間を伝えてきた仏教徒の方々の素晴らしさは、何物にも例えようがありません!


わが身はやがて朽ち果て意識もなくして打ち捨てられるであろう、それを忘れずに、ただ、この命の共演の中で、他と自己の区別なく、慈悲の心を起こして、生きるとは素晴らしい。

他者と自己が同じになるというのは言い方を変えれば、自己も他者のようになるということだろう。

この愛おしい自己が憎まれるのは、自己だからである、笑

試しに、自分のことを他人だと思ってみてください。

その怒りや欲望や、また、動き、意図した行為、様々にある感覚が自分のものではなく、他者が感じているものだと一時的にだけ感じてみるのです。

すると、なんと可愛げのある奴よのお、となります(爆笑)


そしてこれらの命の輝きは、我が滅したときに、すべての命と同等になるわけです。

同じではないけれども、共通した、この命の流れの中に、風や雲や雨や、また人間や猫や猿や、様々にある生命が花開いている。

この今ここにある永遠の諸行無常こそが神の臨在なのである。

もちろん、高等なレベルにまで辿れば、これは空になり、最少物質、創造の光となるわけですが、その光が、ここに雪崩れ込んでいるわけであって、ここにすべてあるわけです。

様々な波動の違いが、この、世界の様々な段階を形成しているだけです。


我は、この世界を、独自の角度で見ている一瞬の泡のような存在ですが、この神の永遠は違います。

これは形を変えて延々と紡がれていく物語なのですね。

この瞬間に、永遠があるのであって、ここが動いているのは、生死の点滅があるからなのです。

実際は生まれてから死ぬまで、また死んでから生まれるまで、何も動いていないのです。


人間が我と思う、この個別体は、身体から生まれたもの。

体があって、それが成長して、自己保存のために機能としてあるわけです。

もちろん大切な要素ですが、その我が苦しみを生むのであれば、苦しみを解放してあげるのもいいかもしれません。


風が吹けば風になり、雲を見れば雲になり、目の前にあるリアル、このリアルの質感が自分に躍り込んでくることが我を滅することになるのです。


阿部敏郎さんに言わせれば、まあ、単に思念の世界にいるか、ここにいるかだけとなるのですが、笑

そのとおりですねw

ラマナマハルシに言わせれば、想念が落ちて、私は肉体ではないと見ることだとなります。

そのとおりです。

グルジェフさんに言わせれば、自己を思い起こすこととなります。

そのとおりですね。

ブッダさんに言わせれば、認識できる対象はすべて私ではないと離れているということになる。


これらの作為を捨てて、ただ、ここで放心することと僕は思います。

ここにある、この、すべてが、無の中に躍り込む、愛の光、愛の質感、愛の流れなのです。

忘我

2014-07-26 19:16:23 | 日記
こんばんは!

現象の奇跡の中で寛ぎ、楽しんでいる皆様。


本日はお休みですので寝ていました豊田です。

今は結佳ちゃんと汎花ちゃんが『妖怪ウオッチ』というアニメを見ている横でブログの更新を始めたところであります。

古典妖怪、古典妖怪言ってるw

ゲラゲラポー♪ ゲラゲラポー♪ と満面の笑みで踊る汎花ちゃんの姿は、凄まじく元気にさせますね。

これは、澄んだ空気を飲み込んだときに似ていますね。



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よく森の中でリラックス効果があると言いますが、この新鮮で自然のままの、生命の発露が、心の純粋性が、人の心を癒すのでしょう。

作為のなさです!


無作為の感応であるので、計算が入ってないのですね。

まあ小さな子供は、みんな、怒っても泣いても、笑っても、そこに作為がない。

究極の癒し人になるには、これを見習うしかないでしょうね。


幻の中で生きるとか、ただ今を生き切るとか、様々にテーマを言葉にすることは出来ますが、実際は、この言葉を持ち運ぶことではないのです。

心を込めて生きるというのは極限の表現でしょうが、、、

これを「心を込めて、心を込めて」と頭の中で繰り返して活動しても意味ないですよねw

実際に目の前にある現実が自分に躍り込んできて、ここに心が入り込んでいる、無我夢中になっている

忘我している。

このときに、ただ自己が、そこに含まれているというだけのことなのです。


忘我しているのに自己が残るという矛盾した言葉の意味はこうです。

実は『我』というものには実体がないのですね。

我には実体がなく、どこか自分が反応した部分に張り付いているわけです。

体であったあり、心であったり、頭であったり、恐怖心や欲望であったり、迷いであったり、怒りであったり、そういった諸々の行為が『我』である『我が』行為であるとしているのです。

しかし、この意識や感覚も『我』に含まれているのです。

ですから一度、ここを引き剥がしてしまわなければいけません。

これを自己同一化を解除すると言います。


体、心、頭の活動を見る事、写真を撮ることで、離れていくのです。

この離れていく過程を『対象化』すると言います。

こうすると今までは肉体←→現実であった認識が、我←→肉体=現実になります。

自分の肉体だけ現実から分離された状態でなく、肉体も現実の中のひとつながりの部分と認識することです。

同じように、心、頭も対象化します。


すると、自我は独立しますね、この独立した自我は『観照者』と呼ばれています。

また『超自我』とも名づけられていますが、見ているもの、ただ見ているもののことです。


この見ているものは、もちろん『意識』も対象化できるのですが、どんどん対象化していくと、なぜか『無』であることに繋がっていくのです。


この見る者が『無』であるからこそ様々なものが、対象化されるわけですね。

つまり無←→意識アンド感覚となります。

これが無明によって行がある、行によって識があるという縁起の法則です。


この『無明』『無』また『自我』『自己』『空』等々と呼ばれている状態を滅することが解脱です。

無は今や全体を存在させているのですが、この無には『我』が残っているのです。

我という存在がある。

私は在るの状態にあるわけですね。

私があるということは、分離しているわけです。


この状態で、意識、感覚の対象が、つまり『目の前の現実』が我を飲み込む!

自己喪失させることで、すべてが私になります。

すべてが私、もしくは、私はいない。

この二つの言葉は、我が、この目の前の現実になりきったときのことです。


単純に笑っている時は、こうなっています。

また、小さな子供がゲラゲラポー♪ ゲラゲラポー♪と歌っているときも、なっているのですw

これはまだ自我が確立していないからですね。

大人は自我が確立しているので、これを無くすことはできないので、超越、進化させるわけです。


自己喪失と言っても、この状態は、肉体も感情も思考も消滅していません。

今まであった何一つとして消滅もしていないし、変化もしていないわけです。

無くなったのは『我』だけで、しかも、その『我』はもともと実体のないものだったのです。


忘我している時に自己がそこに含まれているというのは、自己の肉体、感情体、思考体が、自然の中にあるということです。

この時に、これらとは別に存在していた、『我』という偽物が消滅しているのです。



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2014-07-25 18:20:15 | 日記
こんばんは!

人間家業を純粋に楽しんでいる素直で元気な皆様。


本日は珍しく仕事の4時間前に起きたので座禅をしていました豊田です。

1時間するつもりだったのだが結佳ちゃんに30分過ぎに妨害される、笑

今、妹たちが、遊びに来ているのです。

結佳ちゃん「なにしてんの?」

僕「座ってるの」




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結佳ちゃん「なんで座ってるの?」

僕「それがいいって言う人がいるから」

結佳ちゃん「早く、向こういこー」

とにかく座りたかったので待っててを繰り返していたら静かになりました、笑

中断されると一気に集中力がなくなるなあw


でも一瞬、浮かび上がる空間になった。

浮かび上がる夢のワールドは意識の変化だけなんだな、たぶん。


で、1時間やってみて思ったことは、左と右の体のバランスが悪すぎる!

左側の感覚がかなり薄い。

また集中力の持続力が短すぎる。

意識の注力は物理的な作用があると前々から思っていたが、間違いない。

意識のふれあいが、人間の出会いなのだろう。


家へ戻って、ご飯食べようとしたら妹が「結佳がお兄ちゃん地蔵さんになってたと言ってたよ」

じ、地蔵さん?w

なんか、おもしろいな(爆笑)


結局、何があるって空の状態と夢のワールドがあって、すべてがここにあるってことだね。

魂と肉体と感情体と思考体が夢のワールドに浮かび上がる。

記憶は魂に保存されており、ここから、ロードされて、延々と世界が回っていく。

のかもしれない。


肉体は誰でも知っている、この感覚のことですね。

眼、鼻、耳、舌、触、意識の6つの感覚のことを肉体と呼びます。


感情体は呼吸の流れから血液の流れに従って機能している、ほぼ体の形にそっている精妙なエネルギー体です。

中心は心臓の辺りにあって、ここに神経が集中している。

しかし、実際は物理的なものと心理的なものを繋げる役割、不可視のハートを含んでいる。

物質と非物質の間にあるわけです。

しかし、この物質、非物質というのは科学では物質として扱われないという意味での区分ですね。

呼吸をして胸に落ちて、また胸から呼吸が出ていく、この箇所に中心点があって、身体の全体に広がっている確実に感じることが可能な、精妙なるエネルギー体のことです。


思考体はイメージを形成する身体ですね。

これは身体とは全く形が違います。

頭部の後ろ側に、後頭部の後ろ辺りに、少し大きめの円を描いてあります。

この中心点は背骨であって、この背骨からエネルギーが上昇して後頭部の大きい円鏡ができています。

その大本は、もちろん魂のデータバンク、潜在意識のデータ形成です。

この円は目の前に映っている現実や自分、また脳内で働いている比較、想像等々を、この円内で展開させます。

宇宙の光を第三の眼を通して受け取っているのは、この円鏡が意識の光と繋がっている状態です。



そしてこれらの3つの体が人間の全てであるわけです。

世界がすべて自分であったというのは、この円光の反映がすべてここにあるということでありましょう。


しかし、この幻である世界は実は幻ではないのです!

以前に、何かの記事で、そのようなコメントをくださった方がいましたが、やっと分かりかけてきました。


悟りと迷いは別物ではないという道元さんの言葉がありますが、幻と実体は、即、その目の前の現実として一体化しているのであって、一方からの視点、体感だけでは全体を表さないのです。

このところ精神世界ブログで、よく不二一元論主義が批判されていますが、この不二一元論が非難される理由が、此の世は幻であるという認識ですね。

苫米地博士も著書の中で仮観と空観のバランス云々と書いている通り、この幻である、空であるという価値観が今、もっとも批判されやすい主張だと言えます。


では、この批判の根本的なところは、人間性の否定というところにあるのではないかと思います。

つまりすべてが幻なら、生に価値がないではないかと導かれるというのです!

これは、実際に空を体験していない人が言う批判なのです!!!!

幻があり、空であるからこそ、人間性の花火に美しさや価値が生まれているのです。


なぜなら空があるとき、それは満ち満ちた空だからです。

現実が幻になるというのは、この幻が、凄まじく新鮮に、いとおしく、愛に包まれた世界になるという事だからです

今、この目の前にある現実の中に『我はない』が体験があるわけです。

生きている限りにおいて、すべてが、体感されていくのだが、それでも、それは幻であって夢である。

夢のワールド、神のプレゼント、なのです!


人間の生を否定するどころか、この生を生き切ることが、この不二一元論の先にあると思うのです。

ですから、これを虚無主義ととらえる人の主張は、どうにも胡散臭いと思います。

認識される対象は我ではないと否定したら、残るのは、この今の、眠り、目覚め、夢見の世界だけでしょう。

各機能が映し出す、この幻は、魂の見る夢。

この夢のワールドの魂とは、神と同根であって、この神は常に顕現しているわけである。

目の前に!

しかして、それは幻なのである。

幻であるからこそ、よりリアルに、繊細に生きることができるのである。




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沈黙の行者になろう

2014-07-24 18:19:18 | 日記
こんばんは!

沈黙の精神を可能にしている皆様。


本日も仕事ギリギリまで寝てしまった豊田です。


どうも苛々とか怒りを制御することが不可能なのですが、なんだろうなあ。

迷い、怒り、欲望の3毒を取り除くことが『幸せであること幸せになること』に繋がる。

他者との関係性の問題が解決されないと、それは難しいですね。

我が落ちるというのは、ホント、ひとりで受動的な時にはなりやすい。




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また開放的な環境にいるとき、笑いあっている時、ストレスのない時もなりやすい。


過酷で環境の悪い状態でも、この、右肩の下あたりから広がる怒りポイントが外す技術? がいるのだろうか。


自分の都合によって怒ったりするわけだが、自分の都合はその時々に常にあるわけだ。

スムーズに思った通りに物事が片付かないことに対する怒りが、あるわけで、これを黙々と忍耐していても意味がない。

その瞬間にどのようにするのか。


ここで嵌っているなあ。

嫁様との喧嘩にしても、まあ、そうであってほしいが原因だからなあ。

怒りを制する者は、解脱するとも言われているのだから、そう簡単にはいかないかw


自我を沈めて諦めの境地、沈黙の中に、普段からいることかもしれないと考える。

ここまでは沈黙の境地、ここからは他者に合わせるとなっているのが、おかしくさせていると考える。

実際には他者も大本では、この沈黙にある透明性の中にいるのだから、自分が行ったり来たりしているのが、いつまでも変わらない原因かもしれないと推測します。

推測ですよ!


結局、眠りから覚めて訪れてくる刺激、まあ五感と意識に触れる悉くは、苦の素なのだ。

苦ではないが、ここに、我が注目すると、苦の素になっていくのである。

禅僧や精神的に優れた人たちが一種の存在感を放つのは、この、刺激の中で沈黙を保っているからだろう。

歓喜は束縛であると知って、世から離れている。

これを身に着けなければならないのだろう。


例外を設けている時点で、その例外が自分に襲い掛かってくる、

注意を真我に向けて、心に何かをしようとする態度をやめて、ただ静かにしていることだ。

求めることを止めて、行為の方法を探すのを止めて、ここにいる。

沈黙の透明性の中に、ただいる。

いるとすら考えてはいけない、考えないが、ただ、ここにいる。


目の前を流れるスローモーションの映画は、ただ哀愁を誘うかもしれない。

悲しみが感じられるかもしれない。

この地点から活動することが人に対しての慈悲に繋がっていくかもしれない。

終わり行く存在に対する慈しみの心で接するわけだ。


まあ、今日の記事はほとんど推測ですが、自分はそんな気がします。

試してみなければならない、情熱をこめて、ただやっていかなくてはいけない。

これは別、ここは別、この人は別、あの人は別などということのないようにしよう。

常に真我と繋がっている。

常に至福と共にある。

常に無常で儚き、この世界を見続ける。




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認識外の者は認識されない

2014-07-23 18:47:29 | 日記
こんばんは!

愛情溢れる、心優しき、皆様。


さっき焼肉&焼うどん食べてお腹いっぱいの豊田です。


どうもブログ更新時間が疎かになってますね……。


さて真我についてですが、これは、想定されないものです。

想定されるように思うのは、実際に、効果があったときに、というか起きたときに、いや、明け渡したときに、心が解放される瞬間の昂揚感が残っていて、ここから推測しているのでしょう。



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心の奥は奥であるからこそ、奥と書いているのであって、認識できるのは表面で出てくる箇所ですよね。

しかし見ていると表象してくる、その場所を、直に捉えられれる。

ここで心の動き、パターンを研究して、開放するようにしてあげると、軽くなる。

この軽くなる感覚は捉えられます!


なぜなら、心の奥が軽くなると、表象意識も軽くなるからなのですね。

ですから直接覗くことはできなくても、その実在を伺うことができるのです。


真我は『すべて』なので、見るとか感じるとかできません。

もともと全員が最初からいる場所なので実現しようがしまいが、同じことです。

実現したら、安心できる。

これだけです、安心、この世界が自分と別ではないと知る。

また世界が、ここだけでなく、夢の世界、時間の世界、人間の世界、神の世界、睡眠の世界等々、様々にあって、そのたったひとつだけを我々が世界と呼んでいることを知る。

また過去生があって、このとき、ああしていたという、なんとなくの感覚が夢等によって起こってくる。


しかし、これらのすべては認識ですよね!

非在非想と認識するのもまた対象を置いているわけです。

神でも仏でも美女でも光の次元でも、根源でも、なんでも同じなんです。


それを言いたかったのですね。

まあ仏陀さんが説いていたのを読んで、気が付いたのですがw

すべては過ぎ去る。

これもまた過ぎ去る!

映画のワンシーンのように、過ぎていく、過ぎていく。

死しては生まれ、生まれては死に永遠に輪廻する苦の世界。

苦しみは、我への執着である。

我への執着は想念の妄想である。

想念が落ちた時に、すべてがある!

ここに最初からある愛である大海が認識される!

神が微笑む!


しかし、これらでさえ、すべて無常なのである。

苦の素であり、無我なのである。

果たして、意識と感覚意外に捉えられるものはあるだろうか。

ないのである。

これらの神秘の働きがあるのだが、あくまで、それをとらえて理解するのは、意識と感覚とを通した現在自己意識なのである!

であるから、死後に何があったとしても、我関せずであるw

我は、もう、本質の我となっており、それは現在意識とはまったく違う魂の次元だからだ。


であるからして不死を説くのは無駄である。

苦しみを取り除くことが、人間に出来る、最大の行為なのだ。

自己の苦しみを取ればいいのである。

これは自己を解放すること、心の傷を解放することである。

しかし、これは真我を実現して、ただ、そこに無為にとどまることでしか実現しない。


無為自然!



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