おはようございます!
想念の霧を吹き飛ばしリアルな質感に留まることなく在る皆様。
本日は深夜2時に起床した豊田です。
明け方に思いついて、また、1時間の座禅をしました。
この時に、もちろん体のバランスの悪さを感じて一生懸命正そうとしていました。
外から聞こえてくる鳥や虫の鳴き声が、心に流れている。
聞いているというより、心に直接流れ込んでいるような感覚になります。
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また体の感覚が鋭敏になって、呼吸の肌に触れる質感、身体全体に広がるエネルギーを感じます。
全体性を存在させている、質、この名づけようのない、心の質感が、浮かび上がってくる!
座禅を終えると明らかにリアリティが増しています。
この目の前にある様々な音や匂いや視野、身体の感覚、食べ物の味!
自分の中にある、この記録テープのような、滑らかな心の表皮に触れるリアリティの新鮮なこと。
新鮮さ、また、質感が全く違うようになる。
このような効果がなぜあるのか皆目分かりませんが、やってみる価値は大いにありますね。
1時間が難しい場合は15分くらいでも効果があると思います。
この今の目の前にある奇蹟としか呼びようのない多彩なる宇宙の混淆である人間の世界。
この世に生きるというのは史上最高の映画を見るよりも更に、凄まじく、高揚することだ。
苦の滅尽とは我を滅することであるというブッダさんの名言、また座禅という究極の心理整理の時間を伝えてきた仏教徒の方々の素晴らしさは、何物にも例えようがありません!
わが身はやがて朽ち果て意識もなくして打ち捨てられるであろう、それを忘れずに、ただ、この命の共演の中で、他と自己の区別なく、慈悲の心を起こして、生きるとは素晴らしい。
他者と自己が同じになるというのは言い方を変えれば、自己も他者のようになるということだろう。
この愛おしい自己が憎まれるのは、自己だからである、笑
試しに、自分のことを他人だと思ってみてください。
その怒りや欲望や、また、動き、意図した行為、様々にある感覚が自分のものではなく、他者が感じているものだと一時的にだけ感じてみるのです。
すると、なんと可愛げのある奴よのお、となります(爆笑)
そしてこれらの命の輝きは、我が滅したときに、すべての命と同等になるわけです。
同じではないけれども、共通した、この命の流れの中に、風や雲や雨や、また人間や猫や猿や、様々にある生命が花開いている。
この今ここにある永遠の諸行無常こそが神の臨在なのである。
もちろん、高等なレベルにまで辿れば、これは空になり、最少物質、創造の光となるわけですが、その光が、ここに雪崩れ込んでいるわけであって、ここにすべてあるわけです。
様々な波動の違いが、この、世界の様々な段階を形成しているだけです。
我は、この世界を、独自の角度で見ている一瞬の泡のような存在ですが、この神の永遠は違います。
これは形を変えて延々と紡がれていく物語なのですね。
この瞬間に、永遠があるのであって、ここが動いているのは、生死の点滅があるからなのです。
実際は生まれてから死ぬまで、また死んでから生まれるまで、何も動いていないのです。
人間が我と思う、この個別体は、身体から生まれたもの。
体があって、それが成長して、自己保存のために機能としてあるわけです。
もちろん大切な要素ですが、その我が苦しみを生むのであれば、苦しみを解放してあげるのもいいかもしれません。
風が吹けば風になり、雲を見れば雲になり、目の前にあるリアル、このリアルの質感が自分に躍り込んでくることが我を滅することになるのです。
阿部敏郎さんに言わせれば、まあ、単に思念の世界にいるか、ここにいるかだけとなるのですが、笑
そのとおりですねw
ラマナマハルシに言わせれば、想念が落ちて、私は肉体ではないと見ることだとなります。
そのとおりです。
グルジェフさんに言わせれば、自己を思い起こすこととなります。
そのとおりですね。
ブッダさんに言わせれば、認識できる対象はすべて私ではないと離れているということになる。
これらの作為を捨てて、ただ、ここで放心することと僕は思います。
ここにある、この、すべてが、無の中に躍り込む、愛の光、愛の質感、愛の流れなのです。
想念の霧を吹き飛ばしリアルな質感に留まることなく在る皆様。
本日は深夜2時に起床した豊田です。
明け方に思いついて、また、1時間の座禅をしました。
この時に、もちろん体のバランスの悪さを感じて一生懸命正そうとしていました。
外から聞こえてくる鳥や虫の鳴き声が、心に流れている。
聞いているというより、心に直接流れ込んでいるような感覚になります。
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また体の感覚が鋭敏になって、呼吸の肌に触れる質感、身体全体に広がるエネルギーを感じます。
全体性を存在させている、質、この名づけようのない、心の質感が、浮かび上がってくる!
座禅を終えると明らかにリアリティが増しています。
この目の前にある様々な音や匂いや視野、身体の感覚、食べ物の味!
自分の中にある、この記録テープのような、滑らかな心の表皮に触れるリアリティの新鮮なこと。
新鮮さ、また、質感が全く違うようになる。
このような効果がなぜあるのか皆目分かりませんが、やってみる価値は大いにありますね。
1時間が難しい場合は15分くらいでも効果があると思います。
この今の目の前にある奇蹟としか呼びようのない多彩なる宇宙の混淆である人間の世界。
この世に生きるというのは史上最高の映画を見るよりも更に、凄まじく、高揚することだ。
苦の滅尽とは我を滅することであるというブッダさんの名言、また座禅という究極の心理整理の時間を伝えてきた仏教徒の方々の素晴らしさは、何物にも例えようがありません!
わが身はやがて朽ち果て意識もなくして打ち捨てられるであろう、それを忘れずに、ただ、この命の共演の中で、他と自己の区別なく、慈悲の心を起こして、生きるとは素晴らしい。
他者と自己が同じになるというのは言い方を変えれば、自己も他者のようになるということだろう。
この愛おしい自己が憎まれるのは、自己だからである、笑
試しに、自分のことを他人だと思ってみてください。
その怒りや欲望や、また、動き、意図した行為、様々にある感覚が自分のものではなく、他者が感じているものだと一時的にだけ感じてみるのです。
すると、なんと可愛げのある奴よのお、となります(爆笑)
そしてこれらの命の輝きは、我が滅したときに、すべての命と同等になるわけです。
同じではないけれども、共通した、この命の流れの中に、風や雲や雨や、また人間や猫や猿や、様々にある生命が花開いている。
この今ここにある永遠の諸行無常こそが神の臨在なのである。
もちろん、高等なレベルにまで辿れば、これは空になり、最少物質、創造の光となるわけですが、その光が、ここに雪崩れ込んでいるわけであって、ここにすべてあるわけです。
様々な波動の違いが、この、世界の様々な段階を形成しているだけです。
我は、この世界を、独自の角度で見ている一瞬の泡のような存在ですが、この神の永遠は違います。
これは形を変えて延々と紡がれていく物語なのですね。
この瞬間に、永遠があるのであって、ここが動いているのは、生死の点滅があるからなのです。
実際は生まれてから死ぬまで、また死んでから生まれるまで、何も動いていないのです。
人間が我と思う、この個別体は、身体から生まれたもの。
体があって、それが成長して、自己保存のために機能としてあるわけです。
もちろん大切な要素ですが、その我が苦しみを生むのであれば、苦しみを解放してあげるのもいいかもしれません。
風が吹けば風になり、雲を見れば雲になり、目の前にあるリアル、このリアルの質感が自分に躍り込んでくることが我を滅することになるのです。
阿部敏郎さんに言わせれば、まあ、単に思念の世界にいるか、ここにいるかだけとなるのですが、笑
そのとおりですねw
ラマナマハルシに言わせれば、想念が落ちて、私は肉体ではないと見ることだとなります。
そのとおりです。
グルジェフさんに言わせれば、自己を思い起こすこととなります。
そのとおりですね。
ブッダさんに言わせれば、認識できる対象はすべて私ではないと離れているということになる。
これらの作為を捨てて、ただ、ここで放心することと僕は思います。
ここにある、この、すべてが、無の中に躍り込む、愛の光、愛の質感、愛の流れなのです。