初めましての方は、目次も見てみてね!
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
おはようございます。
客観知性と聖なる感受性の意味を理解する、地上における天使であられる皆様。
ただいま、風邪で倒れそうな中、ブログの更新を始めました豊田です。
体中が疲れている。
時計の針の音が今日もカチカチしている。
鼻水が詰まっていて、呼吸の感覚に違和感がある。
咳が出るし、喉に異物があるのが感じられる。
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どうも、今日は2つの時計の音が感じられて、ひとつが、カチッと動くと、もう一つが、タイミングよくカチッと鳴らしている。
外は晴れているが、寒い。
家の前の道を走る車の音がブーとしている。
ブーの時とスーの時があり、違いが面白いww
とにかく体が疲れていて、それに引きずられて気力もない。
ここで無理に元気になろうとしないことである。
疲れている時は、疲れ切った方がいいのだし、悲しい時は悲しんだ方がいいのだ。
抵抗を無くして、あるがままに、降参していく。
さて、本日は11時半ごろに起きてきました。
悠聖が寝ている傍に来ていたので、それで起きたのかもしれない。
千鶴さんも声をかけてくるので、起きてしまった。
昨日と同じように懐中電灯の光を点けて、僕に発射してくる悠聖。
おいおい、やめてくれよ今日はww
疲れた体を引き摺って起き上がると、洗面ですね。
悠聖はバタバタと僕の方へ来たり、居間へ戻ったりしていたと思う。
千鶴さんと会話したかなあ。
あ、そうだ、大台ケ原の番組が、地元ケーブルテレビの『ZTV』でやっていて、三重県最高峰やで、みたいに話したな。
まあ、彼女は知っていたみたいだがww
『酔縁』というバーが紹介されていて、かなりお洒落で、行ってみたいと思ったが、まあ、どこにあるんだろうww
イケメンの店長さんが出ていました、笑
悠聖が蜜柑を持ってきたので、歯磨きの途中で、皮を剥いてあげる。
「さっき1個食べたよ」と千鶴さんが指摘する。
まあ、でも、美味しそうに食べていたからいいだろう。
自分で食べられるように成長したのが、嬉しい。
「毎日、すごい勢いで覚えていくよね?」と千鶴さんに言い「男子、三日見ざれば括目して見よだなあ」とか意味不に呟く僕、笑
悠聖は、僕にも、蜜柑をあげると「ん、ん」と差し出してくるが「座禅終わらないと食べれない」と言う。
そのあとで座禅40分ですね。
まあ集中力の続かないこと!
どうも、コツみたいなのが、分かってきたのですが、この体の霧のようなものが、空想、不快感に連結しています。
それで、意識的に、そこに戻ろうとしても、どうしても、この体の意識の方が上なので、難しいのです。
最初に、この不調和を勘づいたら、こう、ポイントを移行させないと無理だ。
この不調和が、影響を及ぼせないポイントへ、スーッと、落ち着かせていくと、浮き上がってくる。
このジタバタしている、僕ではない、体の中の、我がままな、動きたち。
そうして、そこから離れて、静かに、落ち着いていくと、徐々に晴れやかな感性がもどってくる。
糸のように細い、その繋がりは、簡単に切れてしまうが、恐らくこれは、集中力の問題だ。
鍛えるには、まあ、毎日の継続しかないかもしれない。
座禅を終えると、読書ですね。
コーヒーを入れて玄関わきで『奇蹟を求めて』を読みます。
煙草も吸う。
千鶴さんが「ご飯出来たよ」と声をかけてくれたが、生返事で読む。
悠聖は、外へ出てきて、僕が齧っていたポテチを食べて、大満足の表情。
どこかから、軟式野球のボールを拾ってきて、投げる。
僕が拾って、テラスの上にいる悠聖へ投げ返すと喜んで、拾い、また、地面へポイッ。
読書をしながら、それに付き合います。
水素論の章は超絶なる核心に迫ってきました。
ド、シ、ラ、ソ、ファ、ミ、レ、ドの食物オクターブは、シの地点、つまりシ12(性)で止まる。
空気オクターブは、これの、ミ―ファ間に酸素(受動的要素)としてショックを与えるが、そのあとミで止まる。
この空気オクターブのミ48は頭部に送られた酸素(受動的要素)だ。
そして、このミ48に、印象オクターブのド48はヒットしない。
つまり思考が目覚めていないので、印象が昇華されず、印象オクターブはドの地点で止まっている。
そのド48を、ミ48のショック点に送るのが、自己想起だ。
これは誰でもできることだが、全体を見ている自己に、自己を含めるということである。
瞬間なら、誰でもできるだろう。
つまり、普段は、自己→対象の、対象しか意識されていない。
それに、自己対象をヒックルメテ見ているということである。
見て、感じているということである。
私―対象が両方、思考で知覚され、感受せられているのが、この印象のドを、ミ48に頭部で接触させるのだ。
すると、この活発になったミ48は、ソ12の動作中枢を見出し、その間に、ファ24が胸部で認識できる。
これは、頭部にある、ミ48が、動作中枢(背中)に結びつくことから起こるわけである。
まあ単純に言えば「知覚が動作を見ている」ということだ。
そして、この働きが一定量の『炭素12』(能動的要素)を問題の個所へ引き寄せる。
ソ12のエネルギーは首の後ろから繋がる、頭部における動作中枢の認識、ラ6にまで引き上げられる。
これが高次思考センターと同速度で動いており、この十分に高まった呼吸オクターブは、客観理性を捉えるレベルで振動する。
もちろん、それは緩衝器が剥がれ落ちるという第2のショック、つまり印象オクターブのミ12本能でのショックに起因する。
この本能のミ12は腹にある太陽神経叢、つまり、交感神経系のことである。
まあ、この神経が、性と感情に不調和を齎すわけであるが、それは、思考がさっき指摘した、全体的、包括的、感受性をもたないからである。
そして、この全体的思考のショックが呼吸オクターブを進展させたことで、ド48は、ミ12のフィーリングを得る。
この繊細な感受性(本能的感覚)が、感性、つまり感情(フィーリング)の領域に、シ12の性と同レベルの振動を送り込む。
このミ、ソ、シ12は、ミとシの地点に同時に、ショックが必要である。
そのショックは、自己の死である。
この死というのは、もちろん比喩のはずだが、グルジェフさんは、ただ心理的に死ぬのではなく、文字どおり、死んでしまうと書いている。
まあ、ちょっと表現が極端すぎますね。
禅なんかでも、同じように表現しますが、たしかに、この、最初は意識的な開放であり、この第2段階の本能からの解放の場合、感覚、感情への一体感から離れるわけですので、今までの自己、つまり『私』という認識が完全に外れることにはなります。
しかし、僕は、この表現は好きではない。
いや、大嫌いだww
『死』という言葉を使うよりも『消化』という言葉の方が実際的だろう。
この第2のショック点で必要とされているのは、自己の思いとか感覚への抵抗である。
つまり「歓喜は呪縛であると正しく見て離れよ」とお釈迦様が言ったように、この思考、感覚の連携に、衝撃を与えるのだ。
それこそが、不快感を表現しないワークなのである。
人間の中には、生まれてから教育で植え付けられた何百という、自動的な思考、感覚が働いている。
それは本能的な欲望と恐怖を生んでいるのである。
その、実質の、リアルな、感覚にある、そこが、変化することが変容と呼ばれてきたのである。
最初は思考から始まるが、次には、感覚へ、そして、このショック点では感情へ働きかけるのである。
ここは、ハッキリ言って、めちゃくちゃ、しゃれになりませんww
絶望を、つまり、自己に対する失望が必要なのは、ここなのだ。
で、読書を終えると、豚肉丼を食べます。
悠聖が、自分の残した玉子焼きを僕の口へ運んで、喜んでいる。
千鶴さんは、いつもの如く怒りながら「休みなんやで休ましてよ」みたいに言う。
僕はご飯を食べたら、サッサとブログ更新へ。
あ、玄関で煙草を吸ってからやってきたのでありました。
今日は、特に予定ないけど、これから少し、出かけようかなあと、思います。
また夜に、伊勢志摩旅行の続編も書きたいけど、これは状況によりけりかな、
まあ、とにかく、皆様、本日も『最高!』の一日を過ごしましょう。
ほいでは、ばいばい。
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次
☆『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。
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客観知性と聖なる感受性の意味を理解する、地上における天使であられる皆様。
ただいま、風邪で倒れそうな中、ブログの更新を始めました豊田です。
体中が疲れている。
時計の針の音が今日もカチカチしている。
鼻水が詰まっていて、呼吸の感覚に違和感がある。
咳が出るし、喉に異物があるのが感じられる。
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外は晴れているが、寒い。
家の前の道を走る車の音がブーとしている。
ブーの時とスーの時があり、違いが面白いww
とにかく体が疲れていて、それに引きずられて気力もない。
ここで無理に元気になろうとしないことである。
疲れている時は、疲れ切った方がいいのだし、悲しい時は悲しんだ方がいいのだ。
抵抗を無くして、あるがままに、降参していく。
さて、本日は11時半ごろに起きてきました。
悠聖が寝ている傍に来ていたので、それで起きたのかもしれない。
千鶴さんも声をかけてくるので、起きてしまった。
昨日と同じように懐中電灯の光を点けて、僕に発射してくる悠聖。
おいおい、やめてくれよ今日はww
疲れた体を引き摺って起き上がると、洗面ですね。
悠聖はバタバタと僕の方へ来たり、居間へ戻ったりしていたと思う。
千鶴さんと会話したかなあ。
あ、そうだ、大台ケ原の番組が、地元ケーブルテレビの『ZTV』でやっていて、三重県最高峰やで、みたいに話したな。
まあ、彼女は知っていたみたいだがww
『酔縁』というバーが紹介されていて、かなりお洒落で、行ってみたいと思ったが、まあ、どこにあるんだろうww
イケメンの店長さんが出ていました、笑
悠聖が蜜柑を持ってきたので、歯磨きの途中で、皮を剥いてあげる。
「さっき1個食べたよ」と千鶴さんが指摘する。
まあ、でも、美味しそうに食べていたからいいだろう。
自分で食べられるように成長したのが、嬉しい。
「毎日、すごい勢いで覚えていくよね?」と千鶴さんに言い「男子、三日見ざれば括目して見よだなあ」とか意味不に呟く僕、笑
悠聖は、僕にも、蜜柑をあげると「ん、ん」と差し出してくるが「座禅終わらないと食べれない」と言う。
そのあとで座禅40分ですね。
まあ集中力の続かないこと!
どうも、コツみたいなのが、分かってきたのですが、この体の霧のようなものが、空想、不快感に連結しています。
それで、意識的に、そこに戻ろうとしても、どうしても、この体の意識の方が上なので、難しいのです。
最初に、この不調和を勘づいたら、こう、ポイントを移行させないと無理だ。
この不調和が、影響を及ぼせないポイントへ、スーッと、落ち着かせていくと、浮き上がってくる。
このジタバタしている、僕ではない、体の中の、我がままな、動きたち。
そうして、そこから離れて、静かに、落ち着いていくと、徐々に晴れやかな感性がもどってくる。
糸のように細い、その繋がりは、簡単に切れてしまうが、恐らくこれは、集中力の問題だ。
鍛えるには、まあ、毎日の継続しかないかもしれない。
座禅を終えると、読書ですね。
コーヒーを入れて玄関わきで『奇蹟を求めて』を読みます。
煙草も吸う。
千鶴さんが「ご飯出来たよ」と声をかけてくれたが、生返事で読む。
悠聖は、外へ出てきて、僕が齧っていたポテチを食べて、大満足の表情。
どこかから、軟式野球のボールを拾ってきて、投げる。
僕が拾って、テラスの上にいる悠聖へ投げ返すと喜んで、拾い、また、地面へポイッ。
読書をしながら、それに付き合います。
水素論の章は超絶なる核心に迫ってきました。
ド、シ、ラ、ソ、ファ、ミ、レ、ドの食物オクターブは、シの地点、つまりシ12(性)で止まる。
空気オクターブは、これの、ミ―ファ間に酸素(受動的要素)としてショックを与えるが、そのあとミで止まる。
この空気オクターブのミ48は頭部に送られた酸素(受動的要素)だ。
そして、このミ48に、印象オクターブのド48はヒットしない。
つまり思考が目覚めていないので、印象が昇華されず、印象オクターブはドの地点で止まっている。
そのド48を、ミ48のショック点に送るのが、自己想起だ。
これは誰でもできることだが、全体を見ている自己に、自己を含めるということである。
瞬間なら、誰でもできるだろう。
つまり、普段は、自己→対象の、対象しか意識されていない。
それに、自己対象をヒックルメテ見ているということである。
見て、感じているということである。
私―対象が両方、思考で知覚され、感受せられているのが、この印象のドを、ミ48に頭部で接触させるのだ。
すると、この活発になったミ48は、ソ12の動作中枢を見出し、その間に、ファ24が胸部で認識できる。
これは、頭部にある、ミ48が、動作中枢(背中)に結びつくことから起こるわけである。
まあ単純に言えば「知覚が動作を見ている」ということだ。
そして、この働きが一定量の『炭素12』(能動的要素)を問題の個所へ引き寄せる。
ソ12のエネルギーは首の後ろから繋がる、頭部における動作中枢の認識、ラ6にまで引き上げられる。
これが高次思考センターと同速度で動いており、この十分に高まった呼吸オクターブは、客観理性を捉えるレベルで振動する。
もちろん、それは緩衝器が剥がれ落ちるという第2のショック、つまり印象オクターブのミ12本能でのショックに起因する。
この本能のミ12は腹にある太陽神経叢、つまり、交感神経系のことである。
まあ、この神経が、性と感情に不調和を齎すわけであるが、それは、思考がさっき指摘した、全体的、包括的、感受性をもたないからである。
そして、この全体的思考のショックが呼吸オクターブを進展させたことで、ド48は、ミ12のフィーリングを得る。
この繊細な感受性(本能的感覚)が、感性、つまり感情(フィーリング)の領域に、シ12の性と同レベルの振動を送り込む。
このミ、ソ、シ12は、ミとシの地点に同時に、ショックが必要である。
そのショックは、自己の死である。
この死というのは、もちろん比喩のはずだが、グルジェフさんは、ただ心理的に死ぬのではなく、文字どおり、死んでしまうと書いている。
まあ、ちょっと表現が極端すぎますね。
禅なんかでも、同じように表現しますが、たしかに、この、最初は意識的な開放であり、この第2段階の本能からの解放の場合、感覚、感情への一体感から離れるわけですので、今までの自己、つまり『私』という認識が完全に外れることにはなります。
しかし、僕は、この表現は好きではない。
いや、大嫌いだww
『死』という言葉を使うよりも『消化』という言葉の方が実際的だろう。
この第2のショック点で必要とされているのは、自己の思いとか感覚への抵抗である。
つまり「歓喜は呪縛であると正しく見て離れよ」とお釈迦様が言ったように、この思考、感覚の連携に、衝撃を与えるのだ。
それこそが、不快感を表現しないワークなのである。
人間の中には、生まれてから教育で植え付けられた何百という、自動的な思考、感覚が働いている。
それは本能的な欲望と恐怖を生んでいるのである。
その、実質の、リアルな、感覚にある、そこが、変化することが変容と呼ばれてきたのである。
最初は思考から始まるが、次には、感覚へ、そして、このショック点では感情へ働きかけるのである。
ここは、ハッキリ言って、めちゃくちゃ、しゃれになりませんww
絶望を、つまり、自己に対する失望が必要なのは、ここなのだ。
で、読書を終えると、豚肉丼を食べます。
悠聖が、自分の残した玉子焼きを僕の口へ運んで、喜んでいる。
千鶴さんは、いつもの如く怒りながら「休みなんやで休ましてよ」みたいに言う。
僕はご飯を食べたら、サッサとブログ更新へ。
あ、玄関で煙草を吸ってからやってきたのでありました。
今日は、特に予定ないけど、これから少し、出かけようかなあと、思います。
また夜に、伊勢志摩旅行の続編も書きたいけど、これは状況によりけりかな、
まあ、とにかく、皆様、本日も『最高!』の一日を過ごしましょう。
ほいでは、ばいばい。
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