豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

お釈迦様は有とも無ともひとつとも多様とも説かないので、非二元(ノンデュアリティ)とも説かないだろう。

2015-06-28 03:23:34 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃのブログ』も宜しければ併せてお読み下さい。



おはようかな?

こんばんは、でしょうか。

昨晩は、疲れて眠ってしまって、変な時間に目が覚めました。

ブログを見たり、お風呂に入ったり、しながら、悶々と考え尽くしていた。


昨日はYくんと会って、様々な、会話をしました。

エゴの苦悶に関しては、まあ、初歩的なことだという指摘をいただきました、笑

非二元に関しては、余り、驚きがない。



《ポチポチ応援クリック、いつもありがとう!》
哲学・思想 ブログランキングへ
にほんブログ村 哲学・思想ブログ スピリチュアル・精神世界へにほんブログ村



まあ、ね。

もともと、ひとつであるいうことは、前から、語っていたことではあります。

結局、僕としては、精神的には、かなり驚嘆していましたが、まあ、それも落ち着いてくるだろう。


ひとつである。

多様である。

有である、無である。

等々ということは、お釈迦様は説かなかった。


縁によって生ずる。

これあるによって、これあり、である。

無明によって行がある。

無明とは如実知見、智慧のないことである。

では、智慧とは何なのか。


この世界は自作でも他作でもなく、自作にして他作でもなく、自作でもなく他作でもなく因なくして生ずるものでもないとある。

これあるによって、これある。

誰かのコレとは言っていない。

誰かの無明とも言わないし、誰かの触とも言わない。

身体のある間は、その感覚を感じ、冷たくなれば、それを感じる。

そして生の滅したものに、苦はあるか?

と、問うているのである。


接触のないもの、感覚のないものに苦はあるのか?

それは自作に寄らない、他作でもない、自作にして他作でもない、自作でもなく、他作でもなく、因なくして生ずるものでもない。

苦の滅尽である。


世人は歓喜によって縛られているとは、このことである。


なのですから、まあ、生も死も、感覚から生じているものであり、それは、身と、口と、意の動き、つまり行から来ているのであり、それは、誰のものでもなく、無明から生じているのである。

無明は、苦について知らず、苦の原因を知らず、苦の滅尽することをしらず、苦の滅尽の道を知らない。

智慧は、この無明を滅することによって、生死が滅することを言っているのである。


しかし一体、この無明というものは、なんなのだ。

という疑問が、ここまで説かれても、判然としませんね。

ある弟子、というか、バラモンの高僧に対して、お釈迦様は、問われて、

「無明が頭であると知れ、頭の裂け落ちることが解脱である」

というようなことを言っていたと思います。


つまり、頭の中で、あれこれと、己の利益のために動いているわけですが、諸行無常の世界では、すべては失われてしまうのです。

その、世界の中で、ただ、感受を離れていることが、死を超越したことになる。

生も、老も、病も、死も、すべてですね。

誰に対して、起きているわけでもない、と、同時に、無明によって老死があるのです。


これは自分を守るというものでもなく、愛に溢れたわたし、なんかでもなく、ただ、この世界を嫌い、離れ去っていることなのですよ。

そうして、ハートの喜びが、感ぜられたなら、それが、すでに愛である。

永遠の愛。

それは、触が、ないところで、感覚の向こうにあるものである。

ニルヴァーナとは、この、エネルギーの中に、完全に、移行していることである。

肉体から、この、涅槃に、渡っていることなのだ!

それは、しかし、特別なことではなく、誰しもが最初から、そこにしかいないのである。

そこから、この幻想世界を楽しんでいる。


そして、カルマというのは、愛着のことであり、この愛が、世界を輪廻、回転させているのだ。

この、愛と、永遠の愛は、全くの別物である。

この意味でいうならば、愛は消失してしまわなければならず、まあ、廃人同然な感じに一度落ちなければならない。


だから絶望が必要だと書いているのである。


それに対して、どうも、この手をつかもうという意図が感ぜられる情報がある。

放つ手をもって、どこかへ、導こうということだが、どこにも導かれるものはないのである。


お釈迦様が、触がないときに、苦があるであろうか。

と弟子に聞いたときに、もう、それ以上の、何ものも、でることは不可能なのだ。

これ以外に、苦の滅尽はないのだし、愛、渇愛は、感受を喜ぶものである。

感受の喜び、感覚の悪魔ではなく、感受から解放されている喜びなのである。

感受が、ここにある、それで、感受が失われるのが、死である。

であるからして、この、感受に執着する心を、遠ざけて、あればよし、なくてもよし。


執着しないというのは、断つことではない。

あれば、あるがままにしておくことなのだ。

これは、最初から、自然が、天が、齎したものであり、それが、ただ巡っているのである。

そこには、これあるによって、これありがあるだけである、笑


掴まる場所は、どこにもないのである。

また、この意見とか主義とか、まあ、様々な宴会なんかにも、その裏に、なにやら、個の存在場を感じてしまう。


Yくんには、僕は、それを【穴倉】と表現したら、笑っていましたがwwwww


とにかく、今、ここで、ある、身体の感覚は、客体化して、意志が、機能できるようにしてしまわなければならない。

それが修業かもしれない。

上でも下でも横でも、中央でも、感受できるすべては執着のもとであると、正しく、見て、世間の迷妄に陥るな。


とお釈迦様が言っています。

すべてが、あるがままにある。

ただ、それだけであり、そこに、何らかの掴まる場所や、穴倉はないのである。

意見とか、見解とかを持ち歩いてはいけない。


それはイメージに張り付いた【牢獄】である。

このような、言葉は、必要ないのだ。

あるがままが、今、あるのは、それは自分にとって都合がいいとか悪いとかを超えて、あるがままである。

そして肉体が冷たくなれば、死んでしまうのだ。

だが、この世間の触が滅べば、もはや、二度と苦しむことはなく、執着が滅していれば、再び、生まれくることがないのである。

真我が、魂が、転生しないのだ。

もう、夢を見るのは、飽き飽きだ!


と言っているのである。


そして、この僕も、もう、夢の中で苦しんでいるのは、飽き飽きしたのであるwww

必要ありません。

しかし、苦しみは、その、中に、縁があるから、起こっているだけである。

頭があるから、苦しむのだ。


そうして、それをもっと、簡略にして、人に伝わりやすくすれば【思惑】を手放すことで、人は、あるがままであることに気が付くのだ。

あるがままとは、もう、あるがままなのだ。

どこにいようと、なにをしようと、すべてが、あるがままなのだ。

だから、説くことも、本来は、ないはずなのだが、僕の執着が、まだ、残っているので、こういうことになってしまうのである。


それがエゴである。

エゴの死は、歓迎すべきものなんかじゃない。

それは、感受の死なのである。

感覚の、断念のことである。


サーリープッタさんが後ろから殴られても「なにかありましたか?」と優しく聞いたり、ラマナ・マハルシが盗賊に殴られても沈黙していたり、する。

またキリストが右の頬を叩かれたら左の頬も差し出せという。

このようなことが、起こるのは、この世間で、世界の中で、エゴが滅しているからである。

感受が、自己ではないのだ。

だからと言って、苦がないというわけではない。

苦があるのだが、それを受け取っていないのである。

いりません。

で、ある、笑


こういったことは教えの中や、概念の中や、本の中や、イベントの中にあるわけではない。

そういったもの、すべて、が、頼りにならなくなり、否定され、それでもまた、個人が救われない時に、この個人を滅してしまうことである。

それは、独りですることなのだ。

誰からも教わることができないので、自分が、自分に教えているのである。

それが、まあ、人生なのだ。


だから、みんなが一生懸命生きていることが、実際は、分け隔てなく、教えなのであり、究極の修業なのであるからして、なんらかの形を、そこに当てはめて、これだけが真実で、あとは嘘なんてことはありえないのである。

これあるによって、これありである(爆笑)


そして【思惑】が落ちた時には、この目の前の、瞬間、瞬間の、あるがままの諸行無常は、ただ、現れては消えていく儚い、ただの、誘惑者なのだ。

そして、この世界は、認識がない、触覚がないところでは、涅槃なのである。

そこに、魂があるか、ないかは、確かめようもないことであるし、肉体の死後にどうなるかも、確かめようもないのではあるが、しかし、生老病死の苦の滅尽に関しては、これ以上は、ありえないだろう。

無明が滅するによって行が滅する!


言い方を変えれば、これこそが、放てば手に満てりである。

流れ去る川の、流れは、もとの水ではないが、しかし、そこに、何とも言えない慈悲が起こるのだ!!!!

最新の画像もっと見る

コメントを投稿