注意の働きは認識よりも速いです。
ですから、認識が起こる前に、もう、それは触れ合っている。
この5感と意識(心)の働きは仏心の中にあるのです。
この仏心、または神というのは概念化されないが、心の触れ合いの中にある。
これあって、これあり。
つまり縁起の世界ですね。
この縁起の世界は、自分だけでなりたっているものはひとつもありません。
また自分が欠けてしまうことでも成り立たなくなるのです。
しかし、ここに『思い』『煩悩』が沸き起こってくることで、あーでもない、こーでもないという苦しみがある。
本来は、誰一人として、完璧でない人はいないのです。
ただ、この、目の前の触れ合いの中に自己を投入しているかどうかだけです。
このことをマハルシは明け渡しと呼んだのです。
沈黙というのは、悩みが無いということです。
心の虚空の中に、対象があり、この対象がまた自己を生み、この諸行無常の変転の中で、瞬間の感応を生じていく。
その凄まじいスピードの中で、何もかもが、行われている。
それは、自分が何かする前に、もう、起こっているのです。
なので、その機能のままにしていることで、心がクリアになり、そのクリアになった心の触れ合い、鏡に映った自分自身が、その目の前の現実であるわけです。
だから対象と自己は同一である。
つまり不二であるということですね。
生じてくる出来事が、すべて自己に還るというのは、そこにあるものは、元々、自己の活動であるからです。
自己の心がハッキリとすれば、そこに、世界も有る。
そして他者と自己には、特別に、何の差異もないということがわかる。
差異を生むのは「思い」が沸き起こってくるからですね。
その沸き起こってきた思いを静かにさせておくことができれば、気がつくということですが、つまりそれは、何もしないということなのです。
何もしないのが、それで、何もかもが行われている。
そうして、その、心の接合点に、触れ合いの中に、投入された自己は、仏です。
つまり仏道とは自己なり。
この仏の心と自己の心とは不可分なのです。
ですから、心が、触れ合う一期一会だけがあって、それだけなのです。
何の問題もないのですが、そこに問題を作ったのが自我です。
この自我というのは「こうでなくてはならない」という思いのことです。
実際はすべてが、問題なく、あるということでしょう。
ですから仏心の復活こそが、様々な問題を解決する手段になりえます。
それは、この対象と自己は不可分のひとつであるという理解なのです。
ですから、認識が起こる前に、もう、それは触れ合っている。
この5感と意識(心)の働きは仏心の中にあるのです。
この仏心、または神というのは概念化されないが、心の触れ合いの中にある。
これあって、これあり。
つまり縁起の世界ですね。
この縁起の世界は、自分だけでなりたっているものはひとつもありません。
また自分が欠けてしまうことでも成り立たなくなるのです。
しかし、ここに『思い』『煩悩』が沸き起こってくることで、あーでもない、こーでもないという苦しみがある。
本来は、誰一人として、完璧でない人はいないのです。
ただ、この、目の前の触れ合いの中に自己を投入しているかどうかだけです。
このことをマハルシは明け渡しと呼んだのです。
沈黙というのは、悩みが無いということです。
心の虚空の中に、対象があり、この対象がまた自己を生み、この諸行無常の変転の中で、瞬間の感応を生じていく。
その凄まじいスピードの中で、何もかもが、行われている。
それは、自分が何かする前に、もう、起こっているのです。
なので、その機能のままにしていることで、心がクリアになり、そのクリアになった心の触れ合い、鏡に映った自分自身が、その目の前の現実であるわけです。
だから対象と自己は同一である。
つまり不二であるということですね。
生じてくる出来事が、すべて自己に還るというのは、そこにあるものは、元々、自己の活動であるからです。
自己の心がハッキリとすれば、そこに、世界も有る。
そして他者と自己には、特別に、何の差異もないということがわかる。
差異を生むのは「思い」が沸き起こってくるからですね。
その沸き起こってきた思いを静かにさせておくことができれば、気がつくということですが、つまりそれは、何もしないということなのです。
何もしないのが、それで、何もかもが行われている。
そうして、その、心の接合点に、触れ合いの中に、投入された自己は、仏です。
つまり仏道とは自己なり。
この仏の心と自己の心とは不可分なのです。
ですから、心が、触れ合う一期一会だけがあって、それだけなのです。
何の問題もないのですが、そこに問題を作ったのが自我です。
この自我というのは「こうでなくてはならない」という思いのことです。
実際はすべてが、問題なく、あるということでしょう。
ですから仏心の復活こそが、様々な問題を解決する手段になりえます。
それは、この対象と自己は不可分のひとつであるという理解なのです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます