豊田真大のVOICE OF JOKER

僕たちはひとりではない

知識は邪魔になる

2016-02-07 14:49:28 | 日記
初めましての方は、目次も見てみてね!
⇒⇒VOICE OF JOKER 目次

『ちぃ育児奮闘中♪GUN BIGLOVE♪』も宜しければ併せてお読み下さい。



こんにちは。

本日は午前7時ごろに起床しました。

母親と自治会会計のことでやりあってから公民館へ向かいます。

薬師堂厄除け法要という地域での一大イベントがあるので、準備と会合です。

僕の仕事は必要なものの準備ですね。

あとは日程の確認やら様々なことを教えてもらって帰宅します。

この地域にもお寺があってもちろん信仰されているのだから不思議な気持ちになる。



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日本中が仏教思想に影響を受けているのだが、普段は、そう感じない。


帰宅してから、母親に報告と引継ぎをしてから座禅をします。

今日は足がめっちゃ痛かった。

最後の方で崩れてしまったが、これは、もう、普段の姿勢が悪すぎるのだ。

前後左右のバランスが悪いのは、体の軸ができていないからだろう。

慣れている姿勢は、良い姿勢より落ち着くから、中々、直っていかない。


で、座禅を終えると読書なのですが、本が無くて探し回った。

プリンターの後ろに落ちているのを、やっと見つけたが、今度は煙草が無いのでコンビニへ行く。

お菓子とチキンも買う。

帰ってから読んでいたら千鶴さんから電話です。

本が無くて探していたがあったのでいいと話す。

勢和多気の父母と、千鶴さんでイオン明和へ行き、悠聖の服と靴を買ってもらったらしい。


『注目すべき人々との出会い』は序章から父の章へ。

ここでグルジェフさんは散々ジャーナリズムに関して批判しています。

お世辞とか大人の都合で出来上がっている『様式美』は内実が、つまり魂がこもっていない。

これらの被害が不道徳な人間による犯罪に繋がっているが、誰もが、これに重要性を感じない。

今なんかだと、インターネットがあるので更に凄い世界になっているね。

もう「やりたい放題」であります。

人間の心に対する影響力では、この文学や科学、紀行、新聞の影響力は凄まじい。

この中で比較的無害なのが科学と紀行文であり、文学と新聞が悪の親玉なのだ。

太古の世界では、このようなジャーナリズムに属する人は非常に正しい生活と徳によって世間の皆から尊敬を勝ち得ている人だったらしい。

ところが現代では、美しい文章が書けるか否かが、これらの基準になっている。


あとはギルガメッシュ伝説について、これらはシュメール人の物語である。

シュメールの洪水に関する伝説から旧約聖書が発展して作られたらしいが、このシュメール人が、もしかしたら日本人かもしれないと言うとんでもオカルトが頭に流れたww

この伝説を父から聞いたグルジェフさんは超越的問題の専門家となっていったのであった。


読書を終えると、コーヒーと煙草、お菓子を味わってからブログ更新を始めたのでした。


さてさて、心と宗教のテーマであります。

知識の中身で勝負しようと皆が一生懸命『諸行無常』の意味を探っている。

ところが、これは、諸行無常は事実の世界であって、理解には寄らない。

事実ある、この眼前の現れが無常なので、常に新しい。

それを知るのに知識は邪魔になる可能性が、大いにある。

知識は体験と手を繋がないと弊害になる。

小さなことから大きなことまで、すべては、この感覚、感情の世界で巻き起こっており、知識の世界は、ちっぽけである。

どれだけ偉大なる知識も、この地球の存在、星々の世界の中では無に帰する。

その無は、しかし、無ではない。

存在しているのだが、認識不可能であると言う意味での『無』なのだ。

遥か彼方の銀河の世界が想像に描けないように、また、人間を構成する粒子が感じられないように。

上の如く下もまた。

広大なる未知の世界であり、また、常に新たなる世界なのだ。

そして、その世界を認知していない、悟りの境地は、この広がりの向こう側にあるのである。

意識が拡大して世界を投射して見る時に、その広がりの後ろ側にいる、この存在である。

この存在は世界には属していないにも関わらず、その存在の、意識によって世界は創造されている。

まるで夢を見ている時のように。

この世界は、意識が作り上げたものだ。

そして、自己の本来の面目とは『宇宙大の自己』のことである。

何かに触れれば全宇宙がそれを表現するのである。

ただ、それがあまりも巨大で、もしくは微細であるので、感じられないので無、または空である。


ありとあらゆるものの個人性は触れることで現れる。

触れ合い無くして苦は生まれないと釈迦は説いた。

この触れ合いが滅するのは個人が、この彼方の意識へと合一された時であるが、それは、この世界と自己の融合のことである。

溶け合うのだ。

そして、この世界と自己が不二であるとき知識は問題にならない。

なぜなら、この時は、自己の意識状態が思考できない段階に至るからである。


とか、まあ、いろいろな体験がありますが、実際は、この目の前にあるリアルが、全てです。

このリアルは自己の意識が投射されて出来ています。

この自己の意識は肉体から生じてきたものですが、肉体を超えた部分にもあります。

それが魂とか霊と言われてきたものですが、それらは、輪廻の根幹です。

この輪廻の根幹である神的自己、原因体が、空っぽである。

それが仏教なのかもしれない。

これは、もちろん、僕の想像が受け取った、ただのイメージであります。


では、また!