ドイツ・ワイマールと装飾吊り看板・その2

2016-02-09 23:29:37 | 旅行 ・ 装飾吊り看板

 

  こんにちは

  「梅一輪一輪ほどの暖かさ」、そんな俳句があったのをふと思い出しました。

  今がまさに旬の句ですね。立春も過ぎました。

 

  今日はもう一回、難解なワイマールの街をご案内したいと思います。

  難解な、と言いますのは、ワイマールはいろんな顔を持っている複雑な街で。

 

  いきなり暗い話題になってしまうのですけど。

  文豪ゲーテやシラー、音楽家のリストなどが活躍し古典的な芸術文化が開花した街として

  有名なのですが、一方、ナチスの時代にはブーヘンヴァルト強制収容所が置かれており、

  5万人のユダヤ人が虐殺されているという側面もあります。

 

  敗戦後はソ連に占領され東ドイツになり、1990年までの45年間共産圏にあって、ソ連

  の支配を受けてきました。市民は経済的にも精神的にも辛酸をなめた時代だったそうです。

  明と暗が極端に分かれた街。

  そういったことに触れないで、観光スポットばかりをご紹介してもあまり役に立たないよう

  な気がしまして。

 

  さて、観光都市ワイマールに戻りましょう。

  文豪ゲーテとシラーのことは前回お話ししましたので省略させて頂きます。

 

  ↓下はゲーテの家の前にあるゲーテ広場です。

  前回アップしたゲーテの家も周りの街並も、第二次大戦の爆撃を免れましたので、幸いにも

  18世紀~19世紀の当時のままに残っています。いえ、それよりももっと古い街並かも。

          

 

  ゲーテは、自宅の斜め向かいにあるレストラン「ツム・ヴァイセン・シュバイン(白鳥亭)」

  でよくワインを飲んでいたそうですけど、↓下の吊り看板のお店ではないかと・・?  

           

  ↑撮影時間からみてもゲーテ邸の傍で撮っているのですけど、確証が見つかりません。残念。

 

  ゲーテ広場から3、4分も歩くと、マルクト広場に出ます。

  マルクトというのは、ドイツ語圏ではマーケット(市場)という意味。

  街の中心となる市民広場のようなもので、大体、市庁舎が建っています。

 

  ↓下は、ネオゴシック建築の市庁舎とマルクト広場。かなり広々とした広場でした。                   

          

 

  ↓マルクト広場には市場が出ていました。          

          

 

  広場の一角に、綺麗な建物が並んでいました。

  左端の緑色の建物は、宗教画家のルーカス・クラナッハ(15世紀)の自宅兼工房でした。

          

  ↑クラナッハは、キリスト教の宗教改革を行ったマルチン・ルターの友人だったそうで、ルター

  の肖像画を沢山描いて莫大な収益を得たそうです。

  それだけルターの肖像画を欲しい人が沢山いたということでしょうね。写真の無い時代ですし。

  ちなみにワイマールの宗教はカトリックではなく、プロテスタントのルター派です。

  後でルター派の教会の写真をアップしますので、ご覧になってください。

 

  ↓クラナッハの家の二つ隣りの建物に、奇妙なお人形を見つけました。少年か青年。

  二階の窓から飛び降りるつもりなのでしょうか、それとも日向ぼっこ?

  単なる飾りなのかあるいは何かのメッセージなのか。一階は小さな洋品店でした。

          

 

  ↓マルクト広場の周辺にあった吊り看板です。KELLER(地下酒場)の吊り看板。

          

 

  ↓下はマルクト広場の外れです。

  バルコニーに旗と創業者像の立っている白い建物は、老舗ホテル「ホテル・エレファント」。

  このホテルには、トルストイやメンデルスゾーン、バッハ、ワーグナー、ニーチェなどが

  宿泊したことで観光スポットになっていました。教科書に出てくる、すごい顔ぶれですね。         

          

  ↑ホテル・エレファントの先、左隣りにはバッハが住んでいた家があったそうですけど、第二

  次大戦の爆撃を受け、焼失しています。

  ゲーテやシラーの家はたまたまラッキーでした。リストの家は郊外に遺っています。

 

  ↓下の吊り看板は、ホテルの右隣りにあるワイマールで一番古い老舗レストランの看板です。

          

 

  老舗と言っても、この辺りは軒並み大戦の空爆を受けていますのでほとんどが破壊されて、

  戦後の東ドイツの時代に再建された建物です。

   

  ↓家の近くに、バッハの胸像がありました。

  バッハ(1685~1750)は、ワイマール公国の宮廷礼拝堂のオルガン奏者として迎えら

  れ、ここに30代後半まで10年間住んでいました。

  彼のオルガン曲の半数はここにいる間に作曲されたということです。               

           

 

  ↓ワイマールの街で。     

           

 

  ↓下は、先ほどお話ししたプロテスタントのマルチン・ルター派のキリスト教会。

  聖ぺテト・パウル教会です。ルターはドイツ人です。                   

            

 

  ワイマールの街の中心部はそれほど広くはなくて、数分も歩けばすぐに商店は途切れます。

 

  ↓下の、右側の長い建物はピアニストであり作曲家でもあったリストが開校した「リスト音楽院」。

  リスト(1811年~1886年)は30年間ワイマールに住み、特に晩年を過ごしています。

  ハンガリーのブダペストの「リスト音楽院」が有名ですけど、ワイマールにもあったのでした。

  リストといえば、リスト作曲の「愛の夢」は、ご存知のかたも多いことと思います。    

          

  ↑現在は「ワイマール・フランツ・リスト音楽大学」になっていて、日本からも留学生が多数

  行っているそうです。

  また、騎馬像の向こうにある正面の建物は、ゲーテが運営していた図書館。

 

  ↓最後になりますけど、下はバウハウス博物館です。

                      

  ↑戦前はバウハウスと呼ばれた、工芸、写真、デザイン、建築などを教える画期的、実験的な

  芸術学校で、当時のヨーロッパの現代美術に一大潮流を巻き起こしたのですけど、1933年

  にナチスによって閉校されました。

  現在の建物は建て替わっています。

 

  バウハウスはその後ドイツのデッサウへ移り、現在も各地に学校を建てて活動を続け、ワイ

  マールに遺っているバウハウスの建築物などを総合して、「ワイマールとデッサウのバウハ

  ウスとその関連遺産群」として世界遺産に登録されているそうです。

  

  小さな都市なのに、ワイマールから発信された精神や文化は、思えば偉大なものでした。

  そして、わたしはこの街に人間界の光と闇を見ました。

 

 

                               

  

  

 

 

  

 


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