こんにちは
先日、国立新美術館で開催されていた「ミュシャ展」を見に行って、以前チェコのプラハにある
「ミュシャ美術館」に行ったことを思い出しました。
館内が撮影禁止でしたので作品などの写真が無いのが物足りなくて、ブログには載せていなかった
のですけど、いい機会なので載せてみようかと思い直しまして。
今回は、街を歩いたりミュシャ美術館を覗いたりミュシャの住居の横を通ったりします。
↓ここは、プラハの中心部にあるツエレトゥーナ通りです。
神聖ローマ帝国の時代に戴冠式の行進などが行われた歴史のある通りだそうです。
正面の黒い建物は「火薬塔」と呼ばれていて、17世紀に火薬倉庫として使われていました。
↓ミュシャ美術館(MUCHA MUSEUM)は、知らなかったら気づかずに通り過ぎてしまいそう
な、美術館というよりもギャラリーのような外観でした。
人が立ち話をしているところが入口になっています。
MUCHAは、フランス語読みでミュシャ。チェコ語ではムハと読むのだそうです。
↓一階が美術館です。窓にミュシャの作品が飾られているのがお分かりでしょうか。
ミュシャは1860年にチェコで生まれ、パリに出て働きながら売れない絵を描いていたのです
が、ある時たまたま偶然に有名な女優の舞台ポスターを描くことになり、作成した「ジスモンダ」
という美しい女性像の作品がパリで大好評を得て一夜にして人気画家になります。
装飾芸術家として爆発的に売れ、当時流行していたアール・ヌーヴォーの旗手と言われるように。
↓窓に飾られている下の絵は、装飾パネルとして製作された絵です。左が「桜草」右が「羽根」。
↓下は、代表作と言われているポスター「ヒアシンス姫」。スラヴの女性像です。
↓入ってすぐの所に「フランツ・カフカ博物館」のポスターが貼ってありました。
小説家のカフカはユダヤ人ですがチェコに生まれ、ほとんどその生涯をユダヤ人街で送りました。
↓撮影OKなのはこのロビーまで。残念!(笑)
↓ミュシャミュージアム・ショップです。ここも撮影禁止。
ポスターなどグラフィックデザインとしてのミュシャの作品は、ほとんどが石版画ですので刷る
ことができ、唯一の絵ではありません。
日本はミュシャの作品をたくさん保有している国で、大阪府の堺市が土居コレクションの遺贈を
受けて所蔵しているということです。
↓下の写真は、丘の上にあるプラハ城を見に行った帰り道です。
長い坂道の階段を街まで降りてゆきました。
↓坂の途中に、ミュシャが住んでいたというアパートがありました。
黒いネームプレート(ミュシャのレリーフ)の上下の窓がミュシャの住まいだったようです。
↑アルフォンス・ミュシャ、1911~1924年、ここに住んでいたと記してあるそうです。
アルフォンス・ミュシャのサインは本物のサインそっくり。写して彫ったのでしょう。
ミュシャが51歳から64歳までの間です。
この期間は「スラヴ叙事詩」の作品群を描いていた時期(1910~1918)と重なります。
「スラヴ叙事詩」はどれもが超大作(6m×8m)でしたので、プラハから車で1時間ほどの所
にあるズビロク城をアトリエに借りて、家族と共に移り住んで制作していたそうです。
なのでこの住まいはプラハに来た時のためのセカンドハウスだったのかもしれません。
先日、国立新美術館で観た「スラヴ叙事詩」には痛ましい、センチメンタルな印象を受け、それが
ミュシャの最期の受難と重なってしまいました。
1939年、彼はチェコに侵攻してきたナチス・ドイツのゲシュタポによって拘束され拷問を
受け、それが原因となって同年78歳でこの世を去っています。
拘束された理由は「ミュシャの絵画は国民の愛国心を刺激する」というものでした。
↓階段から街に降りてきました。
12月でしたので、旧市街広場にはクリスマス・マーケットがたくさん出ていました。