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まんやま独歩

霧越越への憧憬② 50年前の冬合宿

霧立越
きったちごし、きったちごし…

行ったことはないがこの名は何度も耳にしていた。
40年以上も前のことである。

ワンゲルの合宿で「九州縦断サイクリング」を行った同期から
「キッタチは大変だった」
という話を聞いていた。

その後の酒の席でも、「キッタチ」の名前は幾度となく耳にしたが、「キッタチ」がいかに大変な所か分からず、その名前は耳をスルーしていた。
今でこそ霧立越はハイキングコースとして整備されているが、私たちの学生時代には通る人も少なくスズタケに覆われた大変な道だったことが次の資料から分かった。




「季刊のぼろVol.38」九州脊梁特集の「手つかずの山道を切り開いた男たち」という記事に、次のように書かれている。

「登山道整備プロジェクトが始まったのは1995年。当時、黒峰付近は宮崎県側からのみのアプローチだった。しかも、スズタケが生い茂り、一般登山者が歩ける状況ではなかった。手にはナタ、カマ、のこぎり。時にはテントを抱え、泊まりがけで作業した。麓にある宿泊施設『清流館』を拠点にし、熊本県側から道なき道を切り開いた。」



「西郷さんも歩いた霧立越花の旅」(秋本治:著)の巻末ドキュメントにも、1995年にスズタケで覆われていた霧立越の道を整備したときのことが書かれている。

「村おこしのボランティアによる歩道整備計画は、朝7時に下刈機をそれぞれ持参してゴボウ畠に集合した。用意した燃料をそれぞれ一日分ずつペットボトルに分けて背負い、白岩山から奥の古道をエンジン全開でスズタケや木の枝をなぎ倒していく作業である。ー中略- 当初の頃は、いくばくかの経費は支払えるように椎葉村や五ヶ瀬町から補助金をいただいていたが、その後は補助金もなくなった。完全なボランティアである。」



1978年版の「アルパインガイド九州の山」(山と渓谷社) には次のように書かれている。
「白岩山を過ぎてから白水峠までの道は登山者も少ないためスズタケがかぶさり、夏の間など相当の苦行を覚悟せねばならない」
なお、この本には「霧立越」は「きったちごし」とルビが振ってある。

(「九州の山」昭和53年版⑨)


霧立越は昭和の初めまでは牛馬に荷物を積んで通った重要な交通路であったが、その後廃れ、1995年に登山道整備が行われるまでは藪こきをしなければ通れない所だったようだ。


そんな霧立を、私たちワンゲルは活動の場に選んでいたのだ。
深い山がただあるだけの霧立に、早くから価値を見いだし、そこに挑んだ合宿を紹介したい。


1つ目は、1976年12月の冬合宿だ。
ワンゲルの先輩Oさん達が霧立・向霧立を歩かれている。
Oさんが当時の計画書をお持ちだったので写メで送ってもらった。



期日は1976年12月26日~30日(予備日2日)


行程表(活字に起こす)

26日
   佐賀 = 瀬高 = 熊本 - 馬見原 - 本屋敷 … 波帰公民館(泊)
    
27日
   波帰 …  杉越 … 白岩山  …  堺谷橋下り口  …  扇山水場(泊)
 
28日
   扇山水場  …  扇山ピストン  …  松木  …  尾前(小学校)(泊)
       
29日
   尾前 …  石堂屋 … 尾手名下り口 … 五勇山 … 小国見 … 国見ノ肩
    
30日
   国見ノ肩 … 国見岳ピストン … 広河原 … 内大臣事務所 - 内大臣 - 熊本  =  瀬高  =  佐賀
   
 
☆ 予備日 2日

概念図(山渓の「九州の山」に赤線を引く)



計画書を送付してもらったOさんのメールには、記憶が途切れ途切れとしながらも当時の様子が綴られていた。


「霧立越ね、記憶がとぎれとぎれ。私の記憶では、メチャクチャ寒い冬だった。
水ポリの水が凍り、缶ビールの泡がシャーベット状になって出てきた。
途中、松木には降りずにルートを変更して石堂屋の方に尾根を下ったように思う。
そして、さらに石堂屋もあきらめ、尾手納まで行き、直接五勇山に登ろうとして、尾手納の方々に止められ、祭りに参加したと記憶。
写真もなく私も初めての冬合宿で、記憶も定かでない。

1日目、波帰公民館に泊まった時に、キャベツを切ったらみるみるうちに半透明になっていったり、洗った食器が直ぐに凍り付いて固まったのを覚えています。翌日は今のスキー場地帯だと思うが、地吹雪の中をジグザグに登った記憶がある。
テントを張ったのがどこだったか?扇山ではなく水呑ノ頭ではなかったかな?
そして、テントがバリバリに凍り、テントの中に入れていた靴がガチガチに凍っていた。」


この合宿のことをもっと知りたくて、「木霊6」(「木霊」は、合宿等の活動の記録をまとめた部誌)をお持ちでないかとも尋ねたが、残念ながらお持ちでなかった。


ところが、私たちの世代の「木霊7」に、この合宿のことを断片的に記したのが載っていた。

「Dが冬合宿はおそろしい。寒うして山なんかに登れるかよ、やめよう、やめようと、しきりに言うもんで、そうかなと思いつつ、それでも総会の夜、文理校舎の水炊きでいつの間にか私はKと霧立へ行こうと決めた。Odさん、Tさん、そして入ったばかりのOの5人だった。
-中略-
テント内の暖かい空気がテントに触れ露になり、ピシッと凍る。風が吹くとその氷がサラサラと落ちてシュラフに積もる。寒さで目を覚ますとシュアラフの上は白く、そしてキラキラ輝いていた。のどが渇いたのでミカンをとると、凍っていてかじるとガリガリと音がする。何もかも新鮮な驚きだった。この年は大雪で、私はもう大喜びで冬合宿で(霧立が)一番好きである。
残念なことに大雪のために、国見に登る予定が登山口の部落の人に止められ、かわりに私たちは夜通し、飲みながら神楽を観るという幸運を得た。私たちはそのお祭りの家に2泊もしてしまった。」
(「自転車に乗った渡り鳥」-あるバカの思い出から- A)


Oさん,Aさんともに寒さと雪が強く印象に残っているようで、スズタケの覆い被さる道のことには触れてなかった。雪が深く、藪こきよりもラッセルの方が大変だったのかもしれない。
Oさんの話でも、雪の国見岳に登ろうとしたときは「何かあったら救助に入るのは俺たちだぞ」と強く止められたそうだ。山の恐さを知っている地元の人ならではの諫言であったのだろう、有り難いことである。
諫めてもらった家に2泊もし、一緒に飲み明かしたところはさすが先輩達である。

冬の霧立・向霧立に挑まれた先輩達、そして当時のワンゲルのことを誇らしく思わずにはいられない。

2つ目の合宿は次回に。
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