2018年12月30日ブログで私は岩槻区箕輪の久伊豆神社を訪れた。
その場所をヤフー地図に赤枠で示す。
岩槻駅西口から岩槻駅西口駅前通り線(都市計画道路)が直線で延び、東大宮岩槻線(都市計画道路)と丁字路で交差している。
このあたりを明治18年頃の地図で見る。
久伊豆祠が久伊豆神社だと思う。
道路状況は現在と全く異なっているが、わずかに今も残る道があるように見える。
明治18年頃の地図に2本の実線で引かれた道が久伊豆祠の近くにある。その道を赤で示す。
現在のこの道と概ね重なると思う。
この道は丹過通りで埼玉県道2号(日光御成道)と交差する。
明治18年頃の地図には日光御成道も2本の実線で引かれていると思われる。
日光御成道の丹過通りから加倉方面を赤で示す。
現在のこの道と概ね重なると思う。
明治18年頃の地図には加倉から北方向に延びる道が実線と破線の2本で引かれている。その道を赤で示す。
現在の地図で加倉から北に延びる道を赤で示すと東北自動車道に突き当たる。
東北自動車道に重ねて明治の道を描くとこんな感じになると思う。
明治18年頃の地図に赤丸で示したところは綾瀬川に架かる橋である。
現在の綾瀬川に架かる橋は青丸のところであるが、明治18年頃の綾瀬川は蛇行しており、当時の橋は赤丸のあたりにあったのではないかと思う。
加倉から北方向に延びていた明治の道を、現在地図に東北自動車道から先を綾瀬川に架かる橋まで描くとこんな感じになると思う。
さらに久伊豆神社方面への道を描くとこのような感じになるのではないかと思う。
ヤフー地図に明治18年頃の道を描いたことで岩槻駅の周辺を赤い線で囲むことになった。
この囲まれた範囲の道を明治の地図の範囲と比較する。
明治18年頃の地図に東武野田線の線路を緑で描くと概ねこのようになると思う。
明治18年頃の地図に2本の線で引かれた道は赤で示したが、他に1本線で引かれた道が多数ある。
赤と緑の線に囲まれた範囲の1本線で引かれた道をオレンジ色で示す。
ヤフー地図にオレンジの道と重なる道はないかと見比べると、西原小と西原中の間の道が目に留まった。
拡大する。この道が明治のこの道と似ていると思った。
2013年3月赤丸のところから西原中方面(北)を見た。

北に進み、連続する三差路の一つ目を直進し、二つ目も直進した。
北へ向かい、左手のさいたま市立西原中学校の校門を通過して振り返った。
ところで、2018年12月30日ブログで久伊豆神社へ行く際、私は綾瀬川方面の低地から上り坂を進み、坂の上で振り返った。久伊豆神社は台地の上にあった。
さいたま市ホームページの都市景観から「さいたま市都市景観形成基本計画 第1章 第1節 都市景観の現況と課題(1)」を見るとさいたま市の地形が図示されていた。
綾瀬川の東側は岩槻台地である。
国土交通省国土地理院サイトから明治期の低湿地データを表示させて地理院地図を見る。
箕輪方面と加倉方面。
さいたま市の地形の深作川と綾瀬川の合流点を赤丸で示し、低地と台地の境界(4箇所)を赤「くの字」(不等号)で示す。
それらの場所を地理院地図に示すと次のようになると思う。箕輪方面と加倉方面。
ヤフー地図に低地と台地の境界(4箇所)を示すと次のようになると思う。箕輪方面と加倉方面。
箕輪の久伊豆神社は岩槻台地西側の縁にあるのだと思う。
その場所をヤフー地図に赤枠で示す。
岩槻駅西口から岩槻駅西口駅前通り線(都市計画道路)が直線で延び、東大宮岩槻線(都市計画道路)と丁字路で交差している。
このあたりを明治18年頃の地図で見る。
久伊豆祠が久伊豆神社だと思う。
道路状況は現在と全く異なっているが、わずかに今も残る道があるように見える。
明治18年頃の地図に2本の実線で引かれた道が久伊豆祠の近くにある。その道を赤で示す。
現在のこの道と概ね重なると思う。
この道は丹過通りで埼玉県道2号(日光御成道)と交差する。
明治18年頃の地図には日光御成道も2本の実線で引かれていると思われる。
日光御成道の丹過通りから加倉方面を赤で示す。
現在のこの道と概ね重なると思う。
明治18年頃の地図には加倉から北方向に延びる道が実線と破線の2本で引かれている。その道を赤で示す。
現在の地図で加倉から北に延びる道を赤で示すと東北自動車道に突き当たる。
東北自動車道に重ねて明治の道を描くとこんな感じになると思う。
明治18年頃の地図に赤丸で示したところは綾瀬川に架かる橋である。
現在の綾瀬川に架かる橋は青丸のところであるが、明治18年頃の綾瀬川は蛇行しており、当時の橋は赤丸のあたりにあったのではないかと思う。
加倉から北方向に延びていた明治の道を、現在地図に東北自動車道から先を綾瀬川に架かる橋まで描くとこんな感じになると思う。
さらに久伊豆神社方面への道を描くとこのような感じになるのではないかと思う。
ヤフー地図に明治18年頃の道を描いたことで岩槻駅の周辺を赤い線で囲むことになった。
この囲まれた範囲の道を明治の地図の範囲と比較する。
明治18年頃の地図に東武野田線の線路を緑で描くと概ねこのようになると思う。
明治18年頃の地図に2本の線で引かれた道は赤で示したが、他に1本線で引かれた道が多数ある。
赤と緑の線に囲まれた範囲の1本線で引かれた道をオレンジ色で示す。
ヤフー地図にオレンジの道と重なる道はないかと見比べると、西原小と西原中の間の道が目に留まった。
拡大する。この道が明治のこの道と似ていると思った。
2013年3月赤丸のところから西原中方面(北)を見た。

北に進み、連続する三差路の一つ目を直進し、二つ目も直進した。
北へ向かい、左手のさいたま市立西原中学校の校門を通過して振り返った。
ところで、2018年12月30日ブログで久伊豆神社へ行く際、私は綾瀬川方面の低地から上り坂を進み、坂の上で振り返った。久伊豆神社は台地の上にあった。
さいたま市ホームページの都市景観から「さいたま市都市景観形成基本計画 第1章 第1節 都市景観の現況と課題(1)」を見るとさいたま市の地形が図示されていた。
綾瀬川の東側は岩槻台地である。
国土交通省国土地理院サイトから明治期の低湿地データを表示させて地理院地図を見る。
箕輪方面と加倉方面。
さいたま市の地形の深作川と綾瀬川の合流点を赤丸で示し、低地と台地の境界(4箇所)を赤「くの字」(不等号)で示す。
それらの場所を地理院地図に示すと次のようになると思う。箕輪方面と加倉方面。
ヤフー地図に低地と台地の境界(4箇所)を示すと次のようになると思う。箕輪方面と加倉方面。
箕輪の久伊豆神社は岩槻台地西側の縁にあるのだと思う。
今回の範囲は住宅や学校こそ建てられましたが、あまり昔とあまり変わらないイメージを持っていた地域だけに、実際にはかなり激変?している様子にあらためて気が付かされました。どこぞのセリフではありませんが、ボーと生きていちゃダメなんですね(苦笑)
万歩さんのご推察の通りですが、東北道ができる前は台地の上(今の東北道のところ)に昔からの旧道があった事を覚えております。低地側にも道はあったとの事ですが、明治生まれの祖父母に聞いていた話だと度々の綾瀬川の氾濫もあり。時々ルートが変わる獣道の様な状況だった様です(高速道路工事で消滅)。
西原小から中学校への古道は昔は灯も無く夜は怖い道で、特に鳥居のある辺りは雑木がうっそうとして気持ち悪く、河童の三平のTVドラマで見る様な妖気漂う雰囲気でした。この道の裏に親戚の家があり、ちょうど今の様な冬場、ちょっと遅くまで従弟達と遊んでいると加倉の自宅までがとても寂しく、新興住宅地の並木地区の明るい住宅を抜ける時にはホっとしていた事を今でも思い出します。
NHKのあの番組は勉強になりますね。毎日をボーと生きてることを自覚させられます。
東北道ができる前のことを知っている方は少なくなっていると思いますが、旧道があったと教えていただき、想像どおりで安心しました。
2013年3月に西原中学校の横を歩いた時、赤い鳥居の神社を見ました。その時も雑木林の中に社殿があり、昔の風景をイメージすることができます。