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小原柳巷  秘密小説 悪魔の家(大正6)

2011年09月23日 | 著作権切れ大正文学
注)序章で作家黒岩涙香がいきなり一部ネタばらしをしています。これは先に読まない方が断然良いと思われます。




  小原柳巷  秘密小説 悪魔の家(大正6・1・15~5・30『都新聞』)

 序

 柳巷子著す所の秘密小説「悪魔の家」一篇、これ嘗て都新聞紙上五閲月の久しきに亘りて連載せられ、大なる好評を博したりと伝えらるるものである。一篇の骨子とする所は其名の示す如く所詮秘密である。即ち秘密が此の一篇を通貫するヤマなのだ。而して此の秘密に配するに南米秘露の大深林に棲息する怖るべく厭うべき毒蜘蛛を以てし、結構の奇を愈強めている。
 由来此種の物語の病弊とする所は或は奇を衒わんとして荒唐に陥り、或は徒に新を期して無稽に堕するにあった。是れ冒険小説の一度盛にして衰え家庭小説亦旧時の声望なき所以である。然るに柳巷子の秘密小説は其の本来の性質上此の如き病弊に囚われ易き可能性を有するにも拘らず、巧に病所を逃れ、且つ奇を描くも、怪を写すも更に読者をして何等不自然の感を抱かしめざる所に長所がある。又篇中間々洋臭の脱せざる所あるを以て推せば、或は欧米作家の原作を基礎として此篇を成せるに非ずやとも察せらるれど、斯くまでに書きこなしある点は寧ろ作者を偉とすべきであり、これが為めに作の価値を左右せらるべき理由はない。
 余は兎角詰り勝ちなる吾が興味小説界に此の作者を新に獲たるを喜ぶと同時に、此の興味深き物語を読者に薦むるの機会を得たるを喜ぶものである。
  大正六年 十一月  黒岩涙香誌


  一 奇怪な素性



 自分はこれから世にも稀な、世界に斯様(かよう)な不思議な事実が有り得べき道理が無いと思わるる程奇怪な物語を書く、而(そ)して其れは彼の仮空な化学者の理窟から成った空想や、乃至(ないし)は極めて漠然とした小説家の想像から成った虚構事(こしらえごと)では無く、皆悉く自分―医学士太刀原武夫(たちはらたけお)の一身上に関した、雑気(まじりつけ)無しの事実談である事を本文に入る前に固く読者に誓言(ちか)って置く。
 乃(そこ)で物語は愈(いよいよ)自分の身の上から初まるが、一口に云うと世の中に自分程奇怪な身上を持った者も少かろうと思われる。と云うのは世間の人達には例え乞食の子でも自分の親と云う者があるに拘わらず、何故か自分にはそれが無かった。物心つく時分から自分を育てて呉れたのはお槇(まき)と云える京都生れの老女(ばあや)で其女は自分が大学を卒業(で)る年即ち自分の二十五歳になる迄生きて居たが、此女(これ)が自分の母親(おや)で無かった事は過去った廿五年間の挙動(しぐさ)で充分に解って居た。勿論二十五年間に於て、自分は自分の父母と云う人の何人であるかを一再(ど)ならずお槇に質(たず)ねて見たが何ういう事か平常(ひごろ)饒舌(おしゃべり)なお槇が此話が出る時に限り急に啞(おし)になって「解る時が来れば自然(ひとりで)に解ります」と限(き)り、後はいくら強請(ねだ)っても云わぬのであった。秘(か)くされれば秘くされる程知り度いのが人情で、況して夫れは他人事(ひとごと)ならぬ自分の身上である。区役所から戸籍謄本をとったり其他種(いろん)な手段を尽して、出来る限り調べて見たが依然として知れない。東京府士族亡太刀原秀臣(たちはらひでおみ)養子とのみは解っても、夫れから先きは皆目解らぬ。乃(そこ)で終(おしまい)には自分の身上調は中止事(よすこと)として今日に及んだのであるが、兎も角自分は斯様(こんな)不思議な成育(おいたち)を持って居る身上であると云う事は、お恥かし乍(なが)ら争われぬ事実なのだ。
 而(そ)して自分の身の上に続いて不思議な事は自分の財産である。自分の今日持って居る財産は此物語の末に記す様な次第で偶然手に入った財産であるが、夫れ迄と云うものは―殊に大学を卒業る迄と云うものは、是れも不思議極まる財産に依って生活して来たのである。それと云うのは外でも無い、自分が物心つく様になってから、月の二十五日と云う日には判で押した様に百円の郵便為替が届けられる、而して不思議にも其振出人と振出局とは十度(たび)が十度乍ら違うのである。此の不思議な送金は矢張大学を卒業る迄続いた。最初(はじめ)は変に思ったけれども、是とても何うせ探した処で自分の身上と同様知れる筈はあるまいと思ったから、てんでお槇に質ねる事もせなんだが。夫れでもお槇は気になるかして其為替を封入した書留が届くと何時でも、
「坊ちゃま、また叔父様からお金が届きましたよ」と云うのであった。
「へえ、生みの親さえ解らない己にも叔父があるのかい」と聞くと。
「ええええ有ますとも、非常に親切な叔父様が」と大きく頷いて。夫れから其叔父と云う人は名は云われぬが、名を云えば夫れと知られた探検家であって、為替の振出局の違う事や振出人の極って居ないのは何時も其の部下の人達に出させるからだと云う様な弁解をするのが十八番(おはこ)であった。
 お槇の言(ことば)には信を置かなかったが聞いた処で何れ例の「解る時が来れば自然(ひとりで)に解ります」の一言で逃げられるのを知って居たから。其都度自分はそれを聞流しにして居た。お槇もそれから漸く安心したのか、此様な目に見えた気休めも云わぬ様になったが、愈自分が此十二月大学を削ぐようして、立派な一本立の医学士になろうと云う半歳前の夏になると、持病の喘息から心臓病を併発し、とても回復の見込が無いと云う際になって、自分を其枕辺に呼んだ。而して「お春や妾(わたし)は若様とお話せねばならぬ事があるのだから」と下女のお春を次の間に追やったが、斯う云うのでさえ杜切(とぎ)れ杜切れ、如何にも息苦しい容子(ようす)であった。

  二 油の尽きた灯光

 自分は老女(ばあや)のお槇の容子で、其自分に話さねばならぬ話と云うのが如何(どん)な話であるか大抵は想像せられた。而(しか)してそれだけ何となく其話と云うのを聞とう無かった。一つは此の死に瀕した老女がそれが為に死を早めさしむる惶(おそれ)があるのと、も一つは今迄秘密の戸張の中に隠されて居た自分の素性を、急に明るみへ出されるのが何となく空恐ろしく感ぜられたからである。
「お槇や、話と云うのは如何な大切な話か知らんが今でなくたって宜(い)いじゃ無いか、其為にまたぶり返しでもすると取返しが付かんことになるから」自分はお槇の背(せな)を撫擦り乍ら斯う云った。
「いいえ、然(そ)うじゃありません、何(ど)うせ妾(わたし)は今度は助かろうとは思って居ないんですから」と、お槇は其枯木の様に痩せからびた手で自分の手をヒシと握り締め、
「年齢(とし)が年齢で加之(おまけ)にこの病気ですもの、若様が何と仰(おつし)ゃっても、妾(わたくし)の寿命の今日明日限りだと云う事は解って居ります、ですから妾は此際妾の許されて居るだけの事を若様に申上げて死ぬ考えで御座います」果然果然お槇の話と云うのは自分の想像した如く自分の素性(みのうえ)に於ける秘密に就いてである、お槇は此末期の際に臨んで其秘密を自分に語ろうと云うのだ。
 自分は耐え兼ねて叫んだ。
「お槇其話なら尚更の事だ、昔は何でも聞かねばならぬと云うてお前を困らした事もあるが、今では別に何うとも思うて居やしないのだよ、自分の父母は如何者で、自分の叔父と云うのが何の為めに自分に会って呉れぬか、此頃は其様(そんな)事も考えた事は無い、自分を素育(そだ)てて呉れた者を親と云うならお前が自分の親だと自分は思ってるんだ、で若しお前がそれにも拘らず是非話して置かねばならぬと云うなら病気が全快(なお)ってからにして呉れ、ようお槇」
 これは此刹那(せつな)に於ける自分の詐(いつわ)らざる告白であった。油の尽た灯火(ともしび)の様に次第に死の影の濃さを加うるお槇の顔を見ては、如何にして一刻も永く其生命を取止む可きかと云う以外に自分は何事も考える余裕(いとま)が無かったのである。
「まあ勿体無い若様」とお槇は真に自分に斯う云われることを驚懼(きょうく)するものの如く「妾は其お言だけで立派に成仏は出来ます、それにつけても云うて置かねばならぬ事だけは…」と云ってゴホゴホと咳き入るのであった。自分は慌てて枕辺の赤酒(せきしゅ)を飲ましてやるとお槇はそれが喉に通るか通らぬに、直(ただち)に前の話の尾を継いだ、またしても其話の腰を自分の為めに折られるのを恐れたのであろう。
「若様妾は此際出来るものならば何もかも打ちまけてお話申上げ度いので御座いますが、其れが出来ぬと云うのは妾が或人に若様の素性ば何人(なんびと)にも打明けないと云う約束をしましたのと、それから若様が妾の口から素性(おみのうえ)をお聞きになると、夫れが為め飛んでも無い讐敵(かたき)を持たねばならぬ事になるのと此の二つの理由(わけ)が有る故で御座います、ですから極めて漠然と申上げる外は無いので御座いますが、若様のお父様と仰ゃるのは」
 不知(しらず)不知(しらず)お槇の話に引込まれた自分は思わず膝を進めた。
「お槇自分の父と云うのは真実(ほんとう)に有るのかい」
「はい御座いますとも立派に…いいえ詳しくは申上げる事は出来ないので御座いますが、戸籍の上のお父様は或人が勝手に造った人物で…真実のお父様の名は約束が約束で御座いますから申上げる訳には参りませんが、唯若様には世が世ならば斯様(こん)な風に妾などが看護などをして頂く事なぞは夢にも出来ぬ程の尊い身分の方であらせられると云う事だけを申上げて置きます、それから次は例の叔父様と云う人の事で御座いますがこれは」と云って再び赤酒に咽喉を潤した。父母の素性を聞く事が出来なんだらせめては彼の叔父と云う人の名だけでも宜いから聞き度い、自分の心臓は早鐘を撞(つ)き初めた。

  三 最後の手紙

 お槇は苦し気に幾度か太息(といき)を吐いて後更に語り継いだ。
「若様に二十余年と云う長い間仕送りして居た叔父と名乗る方、此方のお名前も約束が有りますから申し上げる事は出来ないので御座いますが唯其方が若様とは縁もゆかりも無い方であり、且つ若様が御卒業と共に再び此世に現われる様な事はあるまいと云う事だけを申上げて置きます」
 何と云う奇怪な言葉(ことば)であろう、縁もゆかりも無い赤の他人が、此世智辛(せちがら)い現代に、二十余年間と云う長い歳月、月々少からぬ仕送りをして置いて、愈々其者が学校を卒業(でる)事になると同時に煙りの如く消え去ると云う事は、ギリシャか羅馬(ローマ)の昔話でもあるなら知らぬ事、開明の今日に殆ど有る得べき筈は無い、自分は斯う思と同時に忽ち或事に考え及ぼした、それと云うのは此隠れたる自分の保護者、即ち自ら自分を叔父と名乗る怪しき人物は自分の為には真実の生みの親で、何かの事情の下に自分に対し親と名乗る事が出来ないのでは有るまいかと云う事である。
 勿論斯様な考えは従来とも起(おこら)ぬでは無かったが、其都度自分は努めて夫れを打ち消そうとして居たのである、何故かなれば苟(いやしく)も自分の倅(せがれ)ともあるべき者に対し、親と名乗る事さえ出来ぬ程の親ならば、何うせ名乗合った処で新たに自分の身の上に一種の苦痛を増すに過ぎぬと考えるのが常であったからである。然るに今お槇の口から斯う云われて見ると、益(ますます)自分の想像が適中したかの様に思われるので思わず眼に見えぬ鬼にでも襲れる様な気がした、而して心中で願わくばお槇の此事に就て此上深く語る事無く秘密は依然秘密の儘墓場まで持って行って呉れる様にと祈った。
「するとお槇、自分は其叔父と云う方の名さえ…縁もゆかりも無い自分を今迄養って呉れた恩人の名さえ知る事が出来ないんだね」轟く胸を押静めて表向(ひょうめん)は極めて平気な体(てい)を装い乍ら、自分はお槇に甘える様に斯う云った。
「はい…それと云うのも皆若様のお為で…唯若様と何の肉親上縁(ゆかり)の無い方だと云う事だけはお槇は神に誓うので御座います」
 取り様に依っては、殊更に血縁の関係が無いと断るだけ妙に聞こえるけれども、此瀕死の病人が臨終に到って迄、天にも地にもたった一人の主人に対し嘘を云おうとも思われぬ、況して神を引合に出して誓うのである、先ず先ず自分もこれで一先(ひとまず)安心というものである。
「ではお槇、縁もゆかりも無い自分の恩人に対して自分は何うして恩を返せば宜いのだい」これは此時に於ける自分の詐らざる心情であったのだ、縁もゆかりも無い人から恩を受ける許りでも随分苦痛なのに夫れを返す事が出来ぬとあれば更に苦痛の増す道理である。
「はい然(そう)仰ゃるのは御無理も無い事で御座いますが、併し向うでは為(せ)ねばならぬ事をしただけの事で…いやいや夫れは云うでは無かった…若し若様が強いて御恩返しをなさろうと云う思召なら、何れ御卒業の時最後の手紙を上げる事と存じますから、其通りになさるのが何よりの御恩返しで…」
 と、茲(ここ)迄云うと又ゴホゴホと咳入った。其容子(そのようす)が如何にも変なので、其次の語(ことば)を聞く暇も無く自分は応急の手当を施したが、其時はもう手晩(ておく)れであった。
「ああこれで妾(わたし)の役目も済んだ…安心して成仏が出来る」
 と、幽かに斯う呟やく様であったが此一句を最後として、忠義無類な老女(うば)のお槇は自分の膝を枕に此世を去ったが之が為めに折角知れかかった自分の素性が又しても素の如く秘密の幕で包まれたのである。併し自分は此場合老女の最後の言を信用する事が、亡きお槇に対して何よりの供養であると信じたので、自分の素性に就いては一切考えぬ事にした、而(そう)して只菅(ひたすら)卒業の日の来るのを待つ事にしたが、愈々其中に卒業の日も近づいて来た。

  四 親友の古里村

 待ちもせぬ卒業の日は愈(いよいよ)近づいて来たが、心待ちに待って居た老女(うば)の所謂(いわゆる)叔父が「最後の手紙」と云うのは何時迄も来なかった。自分にしては的(あて)にして居た物が外れたのであるから、鳥渡(ちょっと)は失望したが、併し瀕死の病人には心にもあらぬ事を口走るのがまま有る習いであるから別に気にも止めずに卒業式に臨んだ。愈式も終えて家に帰ろうとすると、大講堂の前でハタと出遭ったのは親友の古里村(こりむら)である。古里村は名を尭(たかし)と云って此七月工科を出て、今は造兵科の助手を勤めて居る工学士である。父は深川で有名な鉄工場の持主で、広い東京でも指を屈(お)って数えられる財産家で、尭は其一人息子なのだが、よく有る財産家の息子に見る嫌味と気障(きざ)な容子(ようす)が未塵(みじん)も無い男なので自分とは良くうまが合い、高等学校時代から親友として許し合った仲なのである。
「オイ太刀原奉公先が極ったそうだね」
 藪から棒に古里村が恁(こ)う云うのである、自分は嘗(かつ)て自分の卒業後の勤め口を探した事も無ければ、また大学の方で前以て相談があった訳でも無い、而して自分一人の量見としては、もう一二年病院の方に助手として研究したいと思って居た最中であるから、今古里村から斯様(かよう)な話を聞くのは全く寝耳に水である。
「馬鹿を云え其様事があるもんか」と自分は真正面に打消した。
「其様事があるもんかって、昨夜松山博士の家に行ったら、君が台湾総督府の附属病院に行く事に極まったと云って居たぜ、併も俸給(サラリー)の点は本年卒業の医学士中の記録(レコード)破りだと云って居たぜ―君に話が無かったのかい」
 松山博士と云えば内科の主席教授で自分の為めには師と云うより寧ろ父と仰ぐ可き程自分を可愛がって来れる老教授である、此老教授の口から親友の古里村が直接に聞いたとあれば最早毫(ごう)も疑う処は無い、夫れにつけても不審なのは彼程自分を助手として使用する事を承諾して置き乍ら急に台湾くんだり迄遣ると云うのは何う云う理由なのだろう自分には博士の考えが解らぬ。古里村は早くも自分の胸中を見抜いたか、
「何でも博士の考えでは助手として自分が使用(つかう)つもりだったが、太刀原の叔父から依頼(たの)まれたのでと云って居たぜ」と附け加えた。
 これで万事が解った、扨(さて)はお槇の最後に臨んで自分に云った如く、愈彼(いよいよかの)自分の叔父と称する、自分の恩人が、此の二十五年間扶育の恩を償わしめる為めに、松山博士に依頼で自分を台湾に連れ寄せるつもりと見える。して見れば此恩人は自分の大学卒業と同時に煙のように消え失せるのでは無く、却て反対に其正体を現わすかも知れぬ。
「古里村そりゃ真実(まったく)かい」と、更に念の為め自分は古里村に駄目を押した「真実(ほんとう)とも―ホラ見玉(みたま)え、小使が我々の方へ急ぎ足に来(くる)で無か、屹度松山博士から君へのお迎だぜ」古里村の語の終らぬ中に両人の傍近く駈けつけた小使は、果して古里村の予言通り自分に教授室迄来る様にと松山博士の言伝を齎(もたら)したのであった。
「ホーラ見ろ、僕の云った事が当ったろう、晩には奢らせるぜ、前川と迄は贅沢は云わんから神田川で沢山だ、宜(い)いかい」
「ああ宜いとも、其問題は別として神田川位はお易い御用だ」
 互いに冗談を云い乍ら右と左に別れた。而うして自分は小使の後に跟(つ)いて教授室に松山博士を訪れた。
「おお太刀原くん、遂茫然(ついうっかり)して居って講堂から教授室に来て貰うのを忘れてね、ハハハ併し善かった、まァお掛け」と何事に無い上機嫌で、傍(かたえ)の椅子を自分に進めるのであった。

  五 松山博士

 医科大学の松山博士と云えば、遂ぞ学生に笑顔一つ見せた事が無いと云われる程生真面目な人なのに、此日のように、云わば未だ大学の制服を脱ぎ切らぬ自分に対して斯様な手厚い待遇をせらるると云(いう)は、余程胸中に嬉いことが蔵(かく)されてある故であろう。
「あの何か御用で…」と、椅子に腰を下ろし乍ら自分は下半部を胡麻塩髯で掩(おお)われた博士の顔を仰いだ。
「ウム君の一身上に関係した事でね」と頷ずいた博士は、卓子(テーブル)の抽斗(ひきだし)から二通の書面を出して自分の前に置いた「二通が二通とも君の叔父さんから私へ当て来たのじゃ、初めのは先月の末に来たのじゃが、其れには君が卒業後或は内地に止(とど)まる希望かも知れんが成るべく殖民地に就職口を見つけて貰い度いと云うのじゃ、私(わし)は其時は君を助手として使う考えで居たから別に君にも話さんで居たが、すると一昨日(おとつい)になって寄越したのは第二の手紙じゃ、まァ読んで見い」と云いさして博士は新しい葉巻(シガー)に火を点じた。
 自分は急いで指示された第二の手紙を拡げて見ると、それは叔父の運動其効を奏し、近く台湾総督府より交渉ある可きを以て、其時は自分を慰(さと)して是非任地に赴かしむる様にと云う意味の書面で、末段を「当人(自分)と雖(いえど)も多年恩義を蒙りし先生のお言葉と、二十五年扶育を受けし叔父の言(ことば)とには叛く様の事無かるべしと存じ候」と結んである。成程自分にして見れば、お槇の臨終に際して誓った言もあり、また夫れが無いとしても、縁もゆかりも無い人から受けた二十五個年の恩義に対して斯う云われた事を叛く事は出来ぬ、況してそれは恩人に対する唯一つの報恩の道であるとすれば尚更である。
「何うじゃ、愈(いよいよ)行かね」と博士は葉巻の灰を指でホトホトと落し乍ら自分の答を促した。
「はい、先生の仰せ次第です」
「然うか、恁(こ)う云う風に云って寄越されて見ると、それでも行かぬと云う訳にも往かんし喃(のう)、じゃ行く事に決定(きめ)たら善いだろう」
「はい、併し私は参るつもりでも未だ総督府の方からは…」
「イヤそれは疾(とう)に来て居る、旅費迄も昨日送って来てるのじゃ」
 自分は其早手廻しには聊(いささ)か驚かされた。
「すると何時参る事にしたら宜いので御座いましょう」
「さァ成可く早(はやく)と云う事じゃから―出来る事なら明日にも出発(たつ)事にしたら何(どう)じゃ」
 明日とはあまり性急である。併し此時自分はお槇の死後家財道具を残らず売払って、森川町の下宿屋に下宿して居たのであるから、今夜と云えば今夜も出発する事が出来る身分なのであった。
「では明日の午後出発(たつ)事に致ます」
「然うか、じゃ其様に私から向うに電報を打って置くから」
 恁うと決定(きま)れば足下から鳥の立つ様に急ぎ立てるのが博士の癖である、自分は早速博士の許を辞して下宿に帰った。帰って見ると一通の書面が置いてある。開いて見ると例の叔父からの手紙である。

 前略、小生は茲(ここ)に貴下の御卒業を祝すと同時に、貴下の為めに叔父として存在する必用無き至りたるを喜び居候、貴下の総督府病院医員として赴任せらるる日は、小生が貴下の叔父として永久に消散する時に御座候、終りに望み貴下に望む一事は、貴下が小生に対し小生の恩を感謝せざるが何よりの報恩なる事に御座候
  月 日   叔父ならぬ叔父再拝
 太刀原賢台侍史(たちはらけんだいじし)

 としてある、何と奇怪な手紙であろう、赤の他人に二十五年と云う長い歳月、一方ならぬ世話をして置て、其恩返しは恩を恩と思わぬが恩返しだと云うのである、世に斯(かか)る恩返しがまたと有ろうか。併し考えて見れば此叔父ならぬ叔父の為す事は、一つとして奇怪で無ものは無い、して見れば此手紙も或は叔父と称する人によっては普通(あたりまえ)なのかも知れぬ。兎も角恁(こん)な理由で自分は台湾に行ねばならぬ事になったが、それから丁度四年目即ち自分が二十九歳の秋になると急に内地に帰らねばならぬ事が生じて来た。

  六 凄い様な美人



 それと云うのは其頃台湾観光の途にあった玻璃島(はりしま)伯の令嬢初音姫が自分の勤めて居る総督府病院に入院せられた為である。
 玻璃島家と云えば日本に於る貴族中の貴族と称せられた程の名門で、前(さき)の伯爵玻璃島直文(なおぶみ)は夙(つと)に大名華族中の、否貴族院切っての雄弁家として聞え、二度迄も内閣に列した程の人物であったが、何故か終生を独身で通し其死ぬる二年前に、今の初音姫を分家の玻璃島男爵家より迎えて養女とし、未だ其配偶者を撰ばぬ中に亡くなられたのである。それは此時から丁度六年前、即ち自分が未だ大学に居た時の事で、当時の新聞を読んで知った記憶が今尚残って居たのだが、其初音姫が偶然にも自分の病院に入院せられたのである。
 病名は軽症なマラリヤで、初音様が持前のお転婆から家来の者を連れて生蕃(せいばん)見物の途中犯されたのである、是れが普通の者なら打捨て置いても差支無い程軽微なものであるが、身分が身分だけに騒ぎも大きい、総督府病院の特等室に御家来御同伴で入院せられたのだ。自分は何故かして性質(うまれつき)、恁ういう連中が酷く嫌いなのであるが、受持が伝染病科の主任と云うので否応なしに其の治療をせねばならぬ事となった。
 令嬢と云うのは本年二十四歳とかだそうだけれども、先天的(うまれつき)麗質(きれい)な故(せい)か、年よりはグッと若く、一寸見た処では何うしても二十歳を越した女とは思われぬ程である。難を云えば眼に険のあるのと、前髪に癖の有るのが難だが、身長(せい)のすらりとした、貴族的の鼻と口元とを持った、これが所謂(いわゆる)美人とでも云うのであろう、何処一点非難す可き処の無い―一口に云えば凄い様な美人である。が自分は単に奇麗だと思う許り、何うも好きにはなられなかった。無論向うでは自分見た様な貧乏書生に好かれなくても沢山だと云うかも知れぬが、自分としては恁んな絵に画いた美人の美しさで、生た美人の美しさで無い、自分は絵に画いた美人よりは、生きて居る十人並みの女が好きだからである。併し好き嫌いを云っては居られぬ自分の職務は医者である、医者は病人を癒すが役目だで、自分は初音姫に対しても、他の医者のする様な、特別な取扱いはせず、普通の患者並に治療を加えた。
 此治療が善かったのか、但しは素々軽微な故であったか、入院してから二週間目には最早退院しても差支無い迄に全快(なお)った。けれども姫は却々(なかなか)退院しない、今度は腸胃が悪いと云い出し初めた。病室は内科の方に移されたが、姫の主治医は自分と云う院長の命令だ。自分は厄鬼(やっき)となって辞退したが、すると院長は、
「姫は是非君が主治医で無いといかんと云うのだからネ、何しろ馬鹿に御気に召したもんだ、ハハハああいう美人の主治医になら僕なんかであったら少々運動費を出してもなって見たいね」と半ばからかう様に云う。自分は思わずムッとした。
「では院長がおやんなすったら宜いでしょう。私の専門は伝染病ですから…」
「ハハハまァ然うムキにならんでも宜い、君の専門は如何にも今では伝染病じゃが、旧(もと)は矢張(やはり)松山博士の門弟で、内科専攻の医学士じゃ無いか、君が愈(いよいよ)厭だと云うなら僕は上官の権力を以て君に命令する許りだ」恁う云われては仕方は無い、台湾では医者も官吏だ、官吏であってみれば上官の命令に背く訳には往(ゆ)かぬ、自分は渋々乍ら姫の主治医とならねばならぬ事となった。

  七 福神と疫病神

 姫が内科の病室に移ってから彼是半月余りになるが、自分は夫(そ)れでも姫が好きには成らなかった。伝染病室に入院してからの日数(ひかず)を通算すると雑(ざつ)と一月許りの日数である、一月と顔を合わして居れば大抵の人間は友人(ともだち)と往かぬ迄も、普通の仲善(なかよし)になる筈であるが自分と姫とは何うした事か其の仲善にすら成り得なんだ。其癖姫の方では勿体ない程打解けて呉れるのだけれ共、自分は然うされれば、される程姫が嫌になる許りである、所詮俗に云う性が合わぬとか、虫が好かぬとか云うものだろう。而(そ)うして独り姫が嫌いな許りで無く、第一其附添の奴等が悉く嫌な奴等許りである。勿論家扶の宮沼老人や、家庭教師の渥美女史は左程厭でも無いが、就中(とりわけ)自分の嫌いなのは姫と乳兄弟だと云う蘭田郁介(らんだいくすけ)である。蜻蛉の様に光らして真中から分た頭の工合から、あまり高くも無い鼻の上にチョコナンと乗せた鼻眼鏡の工合から、鼻の下に短く苅り込んだチョンピリ髯、扨ては新夜光球(しんダイヤ)の留金(ピン)で止めた赤襟(あかネクタイ)まで見る物一つとして癪に障らざるは無い、而して二言目には姫の乳兄弟と云うを引き合に出して、自分が伯爵でもあるかの様に振舞う。其気障さ加減と云ったらたまったもんで無い。
 自分の親の判明(わから)ぬ孤児(みなしご)と云う僻見(ひがみ)がある故(せい)かも知らぬが、恁ういう連中とは一時間と話をして居る気になれぬ、恐らくは話を続けてでも居たら卒倒して了うかも知れぬ。で診察が済むとサッサと自分の居間に引下がって了うのだがそれでも何だかだと自分を呼びに寄越す、自分は一にも姫二にも姫と云って大騒ぎする仲間の気が知れぬのだ。病院の為には福神かも知らぬが、自分にとっては此上も無い疫病神だ、疫病神には一刻も早く立ち去って貰う様にせねばならぬ。自分は斯んな事を考え乍ら、近頃初めかけた毒虫(どくちゅう)の研究をやって居ると、其処へ入って来たのは例の蘭田郁介である、
「御勉強ですね、だがお邪魔しても宜いでしょう」
 恁う云われて見ると、まさかお帰りなさいとも云い兼ねるのが人情だ。
「ええ何うぞ」と手近の椅子を勧めた、
 蘭田は夫れに腰を下して、衣兜(ポケット)の莨入(たばこいれ)を探り乍ら。
「ハハハ毒虫の御研究ですね」と自分の机の上なる、毒虫学を覗き込む、
「ええホンの暇潰しに…勉強と云う程でも無いんです」
 込み上げて来る怒りを押えて、自分はワザと平気の体(てい)を装うた。すると蘭田は得たりと云わぬ許りの顔色で、
「それならばですよ、彼方(あちら)へ入らして下すったら宜いじゃありませんか、姫もあの通り寂しがって居られるのですから」
「有難う、けれども貴族のお相手には平民は向きませんからね、夫れに今日の医者は昔と違い幇間(たいこもち)じゃ無いんですから」
 自分は余程手酷く云ったつもりだが、蘭田は左迄感ぜぬ容子である。
「其処は其処、其処ですよ、姫が貴方で無ければ夜も日も明けぬと云うのは―」
 自分は此無礼極まる蘭田の言に思わずムッとした。
「蘭田さん失礼ですが今日は是れでお帰りを願いましょう、また閑の時ゆっくりお相手をしますから」とクルリ蘭田の方に自分は背を向けた。けれども蘭田は別に怒りもせず、また随って帰ろうともせぬ。
「ハハハハ今の冗談がお気に逆らいましたかな、それなら平にお詫しますよ、だが太刀原さん、まさか貴方だって木や石でもありますまい、入院後の姫の容子がお解りにならんでは無いでしょう」
「いや私は其様事を伺って居る暇はないのです、兎も角も私としては此場合貴方に此室(へや)から御引取下さる事を希望する外はありません」と、自分はニベも無く言い放した。
「ハハハハ帰れと云うなら帰りますがね、それじゃ貴方は姫を…」と蘭田が言いさした時扉(ドア)の外に衣摺(きぬず)れの音が聞こえた。
「オヤ蘭田、姫が何うしたとお云いなの」と、扉(ドア)の間から半身を現わしたのは、紛れもない初音姫である。

  八 玻璃島家の番犬

 思いも掛けぬ姫の来訪に、さしもの蘭田も一方ならず敗亡した体である。
「いいえ其姫様(ひいさま)の御病気が其の…」
「ホホホ沢山よ、散々蔭で人の悪口を云って居た癖に」
「これは飛んでも無い…太刀原君が証人です、決して私は…」
「それなら夫れでも宜いとしよう、だが蘭田、お前は彼室(あちら)へいってお呉れで無いか、妾(わたし)は太刀原さんにお伺いする事があるのだから…」
「はいはいそれは仰ゃる迄もなく―これでも却々(なかなか)粋と云われる蘭田ですよ、では御ゆっくり…」
「まァ厭な蘭田」
「ハハハハこれで『厭な蘭田』と仰ゃられちゃ世話無しです」
 と、急に蘭田の立ち去る容子に、自分は慌ててそれを呼び止めた。
「蘭田さん、貴方一人お帰りになられては迷惑します、お帰りになるなら令嬢も御一緒に…」
「ハハハ然うは往かんですよ、主命と友誼じゃ主命が重いですからね」
 蘭田は尻目に此方を見て嘲笑い乍ら、サッサと室外に去るのであった、跡には姫と自分と二人限り、これには流石の自分もヒタと困(こう)じた。併も姫は自分の困り切って居る容子を興あり気に眺めつつ、溢るる様な微笑を洩らし乍ら自分の真向の椅子に掛けた、
「太刀原さん今日は妾(わたし)貴方に御無理をお願いしに来てよ」
 殆ど膝と膝と摺り合わん許りの距離である、これが蘭田でもある事なら抓み出して了うのであるが、女ではあり殊に院長すらも一目も二目も置く伯爵家の令嬢である、如何に虫が好かぬと云うて然う素気無くも扱かわれぬ。
「私に、然うですか、併し此処では甚だ失礼ですから彼方の応接室へ参りましょう」自分は体よく室内より姫を追い出そうとしたのである。処が姫も然る者、却々其術(なかなかそのて)に乗らぬ。
「ホホホホお堅いのね、此処で沢山よ、妾が此病院の中の室なら何処に入っても宜いと院長から許されて居るのだから…」
 恁う云われて見れば、それでもとは自分も云い兼る、自分は眼を姫の方から反らして、読みさしの毒虫学に注いだ。姫は語を継いで、
「それと云うのはね、貴方に玻璃島家の医師(ドクトル)になって頂こうと云うのよ」
「えッ、えッ、私が玻璃島家の…」
「ホホホホ馬鹿に吃驚なさるのね、妾が恁なに病身(よわい)のですし、それに家族も大勢なのですから…勿論先代から出入の医師はあるのですけれども…妾は是非貴方に聞き入れて頂くつもりよ、宜いでしょう、玻璃島家の抱(かかえ)と云うのなら貴方の御名誉に障るかも知れませんが、唯東京で御開業なすった上に玻璃島家に出入して頂くと云うのなら貴方の御名誉に係る様な事は無いかと思いますが何うで御座いますの…お厭でも無理に聞き入れて頂くつもりで院長にも話してあるのよ」
「えッえっ院長にも…」余りの早や手廻に呆れた自分は恁う叫んだ。
「ええ」と姫は軽く頷いて「ホホホホだって木内(院長の名)は自家(うち)の旧藩の者な上、先代が洋行費まで出して修行さした者ですもの、妾の云う事なら少々位いの無理なら聞いてよ」
 院長の姫に対する態度は、夫れで解ったが、併し自分は飽迄も自分が姫や院長に圧伏せられてオメオメ玻璃島家の番犬になるのは厭だ、何か拒絶の口実をと思ったが夫れも急に思い当らぬ。
「然うですか御厚意は能く解りました、ですが両三日考えさして頂きましょう、第一東京で開業するには夫れ相当の準備も必要(いる)事ですし…」
 自分の腹では恁うして一寸脱れに脱れて居る中に謝絶の口実を発見(みつけ)出そうと云うのである。姫はそれを知るや知らずや。
「では是非然うなさる様にお考えなすってね」と諄(くど)くも念を押して此室を立ち去るのであった、自分としては実に飛んでも無い者に見込れたものである。



  九 阿里少年

 姫と入れ違いに院長もやって来たが、其用向は無論自分をして玻璃島家の抱医者たらしむるにあった事は云う迄も無い。自分は夫れに対しても姫に答えたと同様、三四日間熟考の余地を求めて、久方振に台北市外なる自分の寓居に帰る事にした。
 台北市外の自分の寓居と云うのは市からは一寸(ちょっと)半里程もある、熱帯植物の林に取囲まれた古い支那家屋で独身者の自分には家を構える必用も無い様なものの、然(さ)らばと云うて宿屋生活も自分の研究に不便なので赴任早々借り受けて毎週二日土曜半日と日曜一日とを此家で暮らす事に決定(きめ)たのである。
 留守番には、女中とも小使(ボーイ)とも、執事とも、兼帯の阿里(アーリー)と呼ぶ生蕃(せいばん)の少年が自分の留守を一人で切って廻して居る。
 この阿里少年を自分が雇入れるに就いてはこれも却々面白い奇譚があるのだが、此物語には余り関係が無いから省くとして一口に云えば自分が嘗て四年前阿里山探検の途に上った時、数回(たびたび)生蕃(せいばん)の偵察を勤めたと云う罪で銃殺の刑に処せられんとした少年を救けた、―蕃界勤務(ばんかいきんむ)の巡査隊の長官から貰い受けたのが、今日の阿里少年で、それ以来此憐れむ可き少年は自分に懐いて何うしても再び蕃界に帰ろうとせぬ。
 乃(そこ)で止むを得ず自分は阿里と名づけて小使兼留守番として召使う事にしたのであるが、処が此の少年は生蕃人には不似合な程頭も宜くまた記憶も宜いので、今日では日本語は素より普通の読み書きは一通り出来る。加之(おまけ)に根が蕃界育ちであるから身体の発育などは頗る見事なもので、本年十五歳の少年とは何うしても受取れぬ。随って其腕力の強さも亦(また)驚くべき程で、如何に割引しても内地人の三四人力は慥(たしか)にある上に、其嗅覚や聴覚は野蛮人に特有な、文明人に見る事の出来ぬ程鋭敏なものがあるから自分が一生の研究たる毒虫の標本採集には持って来いの雇人である。で自分も出来る限り可愛がってやるので、阿里少年が自分を慕う事は実に非常なものである。まるで猟犬が其主人に対すると同様だ。自分が乗った馬車が門の前で留るといち早く家から飛び出したのは阿里少年である、平常(いつも)自分が窓口から半身を現わすなり、抱える様にして馬車から降ろすのだ。これは阿里の癖なのである。
「おお阿里か寂しかったろう、併しお土産があるぞ」と、自分は阿里が兼ての注文なる大形の水兵洋刀(ナイフ)を隠袋(ポケット)から出して与えた。
「有難う有難う、これさえ有れば鰐だって水牛だって些(ちっ)とも怖か無いや」と躍上がって打喜ぶのである。
「鰐だの水牛だのは用が無いが肝心の標本は幾何(いくら)か集まったかい」
 鳥渡(ちょっと)云って置くのを忘れたが、阿里少年は、門前の小僧の格で此一二年、美様見真似の毒虫の標本を造るのが頗る上達したので、自分の留守の間には暇に任せて標本を集むる役目を云いつけてあるのだ。
「ええ、縞毒蛇(ハブ)の変ったのが二種(いろ)と黒蜥蜴(とかげ)が三疋、先生のお帰りを待って居たよ」
「然うか、じゃ次の土曜にはまた違ったお土産を買って遣らにゃなるまいね、今度は何が欲しいね」
「洋服が欲しい、白い洋服が欲しいね」
「白い洋服、妙な物が急に欲しくなったもんだね」
「だって此風采(なり)では用が出来ても先生の病院に行かれやしないや」
「用が出来ても?」
「ああだって今週は手紙が二つも来てるんだもの」
 これで阿里少年の急に洋服を欲しがる理由が解った、今まで幾何(いくら)着せようとしても白縮の襯衣(シャツ)に猿股限り着無かった阿里が主人の用を欠まいと思えばこそ俄(にわか)に洋服を着たいと云い出したのである。
「宜し宜し今次(このつぎ)の土曜には屹度(きっと)買って遣る」と其儘阿里少年を先に立てて書斎に入ったが、果して書斎の洋机(デスク)には二通の手紙が載せてあった。

  一〇 路易十四式

 一通は東京なる親友古里村から来たのである事は、其表書(うわがき)を一見して解ったが、今一通は全く見慣れぬ人の手蹟で、加之(おまけ)に差出人の名前さえ記(かい)て無い。これが四年前であれば例の縁もゆかりも無い叔父からと極って居たのであるが、自分が大学卒業と同時に、煙の様に消失せて四年間何の頼りもせなんだ叔父が、四年後の今日となって当時の誓言(ちかい)を無視し手紙を寄越す筈もないので、是は必定(ひつじょう)殖民地に能(よ)く有勝(ありがち)な慈善団体の寄付金勧誘の類かと思ったから後廻しにして先ず古里村の手紙から読む事にした。

 我が親愛なる太刀原兄足下。
 陳(ふる)い言草だが月日の経つのは全く早いものだ、君と別れてからもう四年になる、僕も愈(いよいよ)九月から大学を止めて、今では堂々たる一本立ちの古里村鉄鋼所の技師長様、境遇が変れば容貌(かおかたち)も変ると見えて四年前は痩形の頗る美少年であった僕が、今日ではでっぷり肥った麦酒樽(ビヤだる)の様な腹の出た髭美わしき青年紳士となった。三年経てば赤坊も三歳になる、あの当時到底ものにならぬと君に貶(くさ)された鰌髭(どじょうひげ)は今日では頗る見事な路易(ルイ)十四世式の髯となった。全く君に見せたい夫に引更え君の近頃は、此間も君の夢を見たが、憐れや主人持の情無さ、大学三千の学生中第一と謡われた美男子の君が、場末の町の馬車馬見た様にコキ使われる故だろう、頬は痩せ肉は落ち、見るかげも無い迄に男振を損じた夢であった。夢は逆夢と云うから其れと反対であって呉れれば宜いが、何うも台湾くんだりの病院に四年も居る処を見ると夢が真物(ほんもの)の様に思われてならぬ、紅顔赭(あせ)易し若い時は二度とは来ぬ、また気の利いた情婦(いろ)も出来ない。君も今の中に台湾を引上げて東京に帰ったら何うだ、而して美人を探して家庭と云う人間の巣を造ったら何うだ。
 と恁(こ)う君に勧めると云うのは、実は白状するが僕に近く美にして且つ賢なる女房が出来そうに思われるからだ、年齢は十九とだけ云って置く、外は聞いて呉れるな、僕が命迄もと―も仰山だが―打ち込で居る美人につまらぬ女があるかい、非難と云えば其父親と云うのが娘に似ぬ、厭な男であるが併し娘の美と賢とは之を償うて余りあるのだ、とは云え恁う目的が定まった以上急ぐにも当らぬ、尚充分研究した上で結婚の申込をする考えだが、愈然うなった処で挙式は来春になるだろう、式には是非親友たる君が列(つらな)る義務がある、願くはそれ迄に東京に引揚げられん事を、而して一日も早く僕の愛する者の処女時代に対して、例の深刻なる批評をせられん事を只菅(ひたすら)希望して止まぬのである。余は後便。
     東京にて   古里村生

 としてある。古里村の手紙としては恁(こん)なのはお手柔らかな方だが、それにしても本年十九歳の処女を真面目に恋するに至ったのは甚だ面白い事と云わねばならぬ。
「古里村が女房に持とうと云う程の女だから、何でも余程の美人で、余程しっかりした女に相違無い」と斯う自分は呟いたが、然う云って居る中に何だか自分も古里村が羨ましくなって来た。
「せめて初音姫が古里村の恋人の様に理想的の女だと此方でも負けずに惚気(のろけ)てやるんだが」と思ったが、然う思っただけですら厭な気分になる程の性が合わない女だもの何うして何うして、と我と我が考えの浅墓さを叱った。而うして自分は鳥渡(ちょっと)でも恁な考えを起した事が腹立たしく思われたので、夫れを打消す可く今一通の無名の差出人の手紙の封を切った。すると驚く可し夫れが例の四年前煙の如く消失せた筈の叔父からである。而も其文面には更に驚く可き事が記載されて居るのだ。

  一一 毒蛇の酒精漬

 縁もゆかりも無い、例の叔父から来た手紙は、古里村からのと違って非常に短文である、けれども、自分を驚かした事は古里村の手紙の幾倍するものであった。今これを左に記せば、

 四年以前煙の如く消え失せたる叔父の、茲に再び貴下に書を寄するは、貴下の将来の幸福を思えばなり、貴下は初音姫が這般(しゃはん)の申し込みに対して何故躊躇せらるるや、一たび逃れ去れる幸福は容易に再び来るものに非ず、貴下は貴下将来の幸福の為めに猶予無く姫の申し込みを承諾す可し、これ貴下の将来の為めに非常なる幸福を来たす原因たると同時に、併せて貴下を二十五箇年の間扶育したる叔父に対する唯一報恩の道なりと知る可し。
    月 日  叔父ならぬ叔父再拝
    太刀原賢台梧右(たちはらけんだいごゆう)

 何う考えても不思議極まる手紙である、叔父ならぬ叔父が初音姫の今度の申込みを知って居る事も不思議なら、初音姫に自分が雇われる事が将来の幸福だと云うのも不思議である。而して夫れが叔父に対する唯一の報恩(おんがえし)の道であると云うに至りては実に不思議とも奇怪とも云う可き様は無いのである。
 自分としては姫なり院長なりに対して、三四日間返辞する事の猶予を乞うたのも、実は之を断る口実を発見(みつけ)る為めの手段に過ぎぬのだ。隋って仮令(たとえ)姫に雇入れられる事が自分の将来に対して幾何(いくばく)の幸福を来すにしても、自分は其様幸福は寧ろ御免を蒙り度い。だが此の叔父の手紙、殊に末段の一句は自分の一身を束縛して自分の意の儘にならしめぬだけの力を持って居る。『叔父に対する唯一報恩の道なりと知る可し』と云われて見れば、如何に姫が嫌いだからと云うて其雇入を拒む訳には行かぬ、自分は殆ど泣きたい様な気持がして来るのであった。
「阿里阿里」と、自分は阿里少年を呼んだ。自分が台湾を去るとすれば第一に阿里少年の身の上の始末をつけねばならぬ。
「今持って行きますよ」と、次の間に阿里少年の声がして、忽ち自分が留守の間に採集した例の毒蛇の酒精漬(アルコールづけ)を持って来るのであった。
「阿里よ、もう標本の採集をせずとも宜い事になった」と自分は情無さそうに叫んだ。阿里少年は持って来た標本を自分の洋机の上にドカリと据えて、
「何うして、もう厭になったの」とさも不審そうに自分の顔を打ち守るのである。
「いいや厭になったのでは無い、もう集める事が出来なくなったんだ」と云うと。
「何うして」と阿里少年。
「何うしてって、自分はもう台湾を去らねばならぬ事になったんだからね、近い中に東京へ帰らなきゃならないのだから…」
「そんなら東京で採集したら宜いだろう、僕は先生にさえ恁うしろと教わったら、東京だって標本を集める事は雑作もないや」阿里少年の口吻(くちぶり)を察すれば、自分と一緒ならば東京でも行こうと云う決心らしい、何と云う可憐(いじらし)さであろう、自分の眼には涙の宿るを覚えた。
「だって東京に行くには七日(ななつ)も船の中に寝ねばならぬし、また東京に着けばお前の嫌いな着物も着ねばならんぞ」
「何だ七日位、船の中なら訳は無いや、木の上にだって俺ァ二十日も寝た事がある。着物だって糞ッいくら着物を沢山着てもまさか死ぬ様な事はあるまい」
 此罪の無い言草に自分は思わずプッと吹き出した。
「夫りゃ然うだとも…併し東京は台湾の様に山も無ければ林も無い、それでもお前は行こうと云うのか、自分の生れた土地を捨てても行こうと云うのか」
「ああ先生の行く処なら何処へでも行くよ、先生に捨てられても俺ァ屹度くっついて行くんだ、だって先生に居無くなられると寂しいんだもの…」この殊勝な阿里少年の語(ことば)に、自分は思わずハラハラと涙を流した。
「然うか宜しッ、では屹度お前を連れて行く、お前一人を残して行く様な事をせぬから安心しろ」
「連れてって呉れる、嬉しいなア、じゃ先生と一緒に東京に行くんだね」と、さも嬉し気に躍り上る阿里少年の眼にも涙が宿って居た。



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