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三津木春影  河底の宝玉 二

2012年03月24日 | 著作権切れ大正文学
  五、月光の室に物凄き生首
       ―果然、宝玉函の紛失



 今宵の冒険の此最後の舞台に予等が到着したのは十一時近くであった。帝都の冷湿なる濃霧は既に後(しりえ)に去り、夜は今麗(うらら)かに霽(は)れ渡って居る。一陣の温き風西方より吹き黒雲悠々空を過ぎゆくなべに、一片の半月其切目より折々下界を覗く。可成(かなり)離れても物象の弁別(みわけ)のつく明るさであったが、周英君は馬車の側灯の一つを下ろして予等の為めに途(みち)を照すのであった。
 硝子の破片を植え込んだ頗る高い堀が、グルリと邸を繞(めぐ)って居る。入口は只一ヶ所、其処には狭い鉄の釘絆(かすがい)した扉(と)が閉まっている。それをば我が案内人周英君は、郵便屋のような一種特別な叩き方をした。と、内(なか)から、
「誰彼(どなた)だね」と怒鳴る苛酷な声がする。
「甚吉(じんきち)、己(おれ)だよ。漸く己の叩き振りを呑み込んだと見えるな」
 何やらブツブツ言う声が聞える、鍵のガチャガチャ鳴る音がする、扉は重々しくギーと開いて現われ出たのはズングリとした胸の厚ッたい男、角灯の黄色の光は其突出た顔と、パチクリする疑深そうな眼とを照した。
「ああ、分家の旦那様ですか。けれど御連れの方は誰方ですか。貴方様の他の方についちゃア旦那様から何とも御命令(おいいつけ)がなかったですがね」
「御命令がなかった?驚いたなア!兄には一所に二三人来るかも知れぬと昨夜(ゆうべ)ことわって置いたのに」
「旦那様は今日は一日中お居間から御出ましがないから、私も其様な事はまだツイぞ承りません。貴方も能く御承知の通り、お邸は規則が厳(やかま)しいのです。で、貴方だけはお通し申す事が出来ますが、お連れの方は待って頂かなくちゃアなりません」
 周英君が困却して、連の中には婦人も居る事だからと殆ど哀願したが、門番先生頑として応じない。此門番が博士の旧知でなかったならば予等は一晩中仕事に立往生したかも知れぬ。意外にも以前大学病院で難病を治療してやった事が発見されて、閻魔面が忽ち柔ぎ、漸く通して貰われたのは幸福であった。
 門内に入ると一条(すじ)の小砂利の路が荒れた地面をうねり曲って、一軒のヌッと聳えた家の方へ走っている。四角な殺風景な家で、総て闇の中に沈み、ただ其一角に月光が流れて一つの屋根部屋の窓を照しているのみである。陰暗として死の如き沈黙の中に突立っている宋大なる建物の姿は心に一種の戦慄を与えた。流石の周英君さえ不気味と見えて、手に持つ角灯がガタガタと震えて居る。
「どうも解らない、何か間違いじゃないかな。兄には確に今夜訪ねると言って置いたのに、居間の窓に灯火が射して居ない…あの月が射して居る所が兄の窓です。内は真暗のようじゃありませんか…ああ、玄関側の窓に灯火が見えると仰有るのですか…あれは女中のお捨(すて)の室です。些(ちょっ)とここにお待ち下さい、一つ私が案内を乞いましょう」
 と言う折しも、大きな真黒な家の中より、物に驚いた様な女の悲痛極りなき鋭い泣声が洩れて来る。
「あれはお捨の声です。どうしたんでしょう」
 と周英君は扉に駆け寄って、例の配達夫の叩き方をすると、背の高い一人の婆様が現われたが周英君の姿を見ると大悦びで体を揺すって、まア好かった好かったと叫びながら、二人の体は軈(やが)て扉の内に消え、婆様の声も遠くなる。
 後に呉田博士は周英君の渡し行きし角灯を静に振って、熱心に建物と、路を塞いだ山の様な土砂とを照らし眺める。丸子は怖しさに自分の手を握って列び立って居る。怪しくも微妙なるは恋ちょうものかな。今闇に立てる二人は昨日迄相識(あいし)らざりし者、何等愛情の言葉、愛情の眼色も交わさざりし男女である。而も今宵此難事件の最中にして、互に手は我れにもなく相手の手を求めて居るではないか。予は後にこそ顧みて驚いたが、其夜の其時は彼女にそう為向けるのが最も自然の事のように思われたのである。丸子は後日屡々(しばしば)言うたところによれば、彼女もまた本能的に予に愛を求め保護を求めたのだそうである。斯うして予等両人は子供の如く手を連ねて立っていた。数多の暗き秘密に囲繞(いにょう)されながら心は共に平和であった。
 丸子は四辺(あたり)を見廻しながら、
「何という奇態な処でしょう!」と言った。
「まるで日本中の土竜(もぐらもち)が、此処から残らず逃出した様ですね。先生、私は西大久保の先の岡の中腹で、恰度(ちょうど)これと同じ状態(ありさま)を見ました。尤も其処は人類学教室の連中が発掘した処でありましたが」
「否(いや)、此処も同様さ。これは宝さがしの痕跡(あと)だからな。考えても見給え、山輪兄弟は六年というもの宝玉を探して居ったんじゃ。地面が蜂の巣の様になるのも無理ではないのじゃ」
 此時家の扉がサッと開いて、周英君が駆出して来たが、両御手も前へ突き出して眼には恐怖を湛えている。
「兄に何か間違いがあった様です!何うも驚いて了いました!私の神経ではとても堪りません」
 という其態度(ありさま)は、全く恐怖(おそろしさ)に半分泣きくずれている。大粒の羊皮製の襟飾(カフー)から露れて居るそのビクビクした弱々しい顔には、子供が威嚇(おどか)された時の様な繊弱(かよわ)い哀願的の色が浮出ている。
「兎も角も家へ入ろう」
 と博士が例の底力のある声で決然(きっぱり)と言うと、
「ええ入りましょう!」と周英君が「ほんとに私の頭はもう滅茶苦茶になって了いました」
 一同壁について玄関左側の女中部屋へ入りみれば、お捨婆さんは慄え上って彼方此方(あちこち)と歩き廻っていたが、今しも丸子の顔を見ると余程心が落着いたものと見えて、
「まア何というお美しい温(おだや)かなお顔の方でしょう!」とヒステリー風に啜泣きながらも「貴嬢が来て下すったんでほんとに安心しました。ああ私、今日という今日は寿命の縮まる位心配しましたよ!」
 呉田博士は婆さんの働き労(つか)れた痩せた手を軽く叩いた。而して親切な女らしい慰めも言葉を二言三言囁いてやると、婆さんの蒼白(あおざめ)た頬にみるみる血の気が上って来た。
「旦那様は今日はお室に錠を下して御閉籠りになったまま、終日御外出(いちにちおでまし)にもならず御声もいたしませぬので、つい一時間ばかり前の事でございます。何か変時でも御有りになりはせぬかと思い、私は上って行ってあの酷い有様で厶いますよ。貴君も言って御覧なさいまし。私は御当家には永い間御奉公しまして悲しい御顔も嬉しい御顔も見慣れて居りますけれども、まだ今夜の様な御顔をば見た事がありませぬ」
 今度は博士がランプを執って先頭に立った。周英君は歯の根も合わず振るえていて到底(とても)始末におえぬ。階段を上ろうとするのだが膝がガクガクして登られそうにもないので、予が腕を抱えてやるという始末である。登りながら博士は二度ばかり拡大鏡を取出して、階段敷の上の、我々には眼も止らぬ泥濘(どろ)の汚点(しみ)と見える物の痕を仔細に検査して行く。其のランプを低め、左右に鋭き眼光を配りつつ、一段一段徐々に登って行く。丸子嬢はお捨婆さんと一所に、女中部屋に残っていた。
 三個の階段を登り尽すと、やや長き真直なる廊下に出た。右手には大きな絵を画いた印度の掛毛氈(かけもうせん)が掛り、左手には三つの扉が次ぎ次ぎに列んでいる。博士は依然たる静な規則的な歩調で進んでゆく。其踵に引添うて、予等二人も長き陰影を廊下の床に曳きつつ跟(つ)いて行く。三番目の扉が目指した室である、博士はコツコツと叩いて見たが何の返事もない。把手を廻して開けようとしたが、内から太き閂が掛けてある様子。併し鍵だけは回り、鍵穴も微に明いているので、博士は体を屈めて見たが、忽ちホーと鋭い息を引いて立ち上った。
「中沢君、何かこれは此内で極悪の事が行われたに違いない。君はまア何と思う」
 予は何事ならんと同じく身を屈めて鍵穴から覗いて見たが、余りの怖しさに思わずアッと跳ね返った。月光流れ入りて、漠然たる変り易き光に満つる室内に、見よ、予の方をヒタと真向に眺めて、一個の人間の顔が空に懸って居るではないか。



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