こころのロウソク

36歳&40歳&42歳で授かった3人の子と、母としてのけいこの成長記録

お母さん、何でしむって言ってたの?

2013-10-16 20:18:22 | 親の『傷ついた内なる子ども』と育児

ちょっと重めの話です。

私が母としての生きづらさを抱えてきたことは、旧ブログから読んでいてくださる方はご存知だと思います。

特に今年の8月半ばの体調と気分の落ち具合は極端で、魂の危機・底つき体験と言っていいレベルまで落ちてしまいました。

ある日、何かささいなことで娘がダダをこねて、たぶん私に何かして欲しいと言い張り、私は身体がしんどくて起きられない、そんな状況がありました。

私は、幼い時から母に『人間、死ぬ気になれば何でも出来る』と言われ、10歳の時から辛い睡眠不足と戦いながら受験競争を延々と続けていた時代がありました。

勉強そのものは興味が持てたので苦ではなかったのですが、常に自分の限界を越えた努力をしていなければ母に認めてもらえない、という切迫した気持ちで、寝ても覚めても崖っぷちの精神状態で成長しました。

私にはその極限状態をずっと持ちこたえる器はなくて、他にも沢山の歪みを抱えて家庭でしたから、当然次第に心を壊して行きました。

そんな背景があるせいか、娘に自分の身心の状態と関係なく『何かをして』と強くダダをこねられると、娘はただ甘えたいだけなのに、私は娘に母の強圧を重ねてしまい、ものすごく苦しくなって心が押し潰されるような感覚になってしまうのです。

その8月の底つきの時にも全くそんな感じで、もう少し気力が残っている時は、窮鼠猫を噛むといった勢いで激しくキレたりしていたのですが、もうそんな気力もなくて、ダダをこねて泣いている娘と寄り添う夫に向けて、『もう母さんは死んでしまいたいんだよ。とても苦しくて全てが重荷で、もう耐えられないんだよ。』と弱った声でいっていました。

『母さんは死にたいよ』とは、私が母から言われて最も心が傷ついた言葉のひとつです。だから自分の娘には絶対に言いたくなかったのに、自分と同じ痛みを娘にも味わあせることになり、自分自身に深い失望を感じました。

その後、底をついたらかあがるしかない法則で、自分なりに娘や夫へのなけなしの愛情を燃料にして何とか這い上がりました。

10月も半ばになり、娘も新しい保育園に慣れてきて、家族三人とも次第に落ち着きを取り戻してきたこのタイミングで、今日の保育園の帰り道に前触れなく娘が聞いて来ました。

『お母さん、何でしむって言ったの?』

私は娘が何のことを聞いているのかすぐにわかりました。だから『そうだね。あの時は、そう思っちゃうくらいすごく疲れていたんだよ。でも今はそんな風に思わないよ。ももなのことが大好きだし、ももなとずーっとずーっと一緒に生きていたいよ。』と伝えました。

まだ4歳で、しぬをしむとしか言えない娘が、どんなにか胸の内で私の言葉を重く感じていたことか。

私が自分の母の呪縛から自由になるためには、『母のようにならない』と、ただ鏡像のように反対の行動をしたり、されたり言われたりして嫌だったことをしないと決めるだけでは何もしていないのと同じことなんだ、といい気がします。

母と同じような道を辿りながら、その時々に自分の奥深くにある自身の痛みや恐れや真の望みに自覚的になることで、母とは違う選択をするという体験を重ねて、初めて私は母の呪縛から自分を解放できるのだと思いました。

娘にありがとうと伝えたい。私と一緒に生きてくれて、生きたいと全身全霊で望んでくれてありがとう。


放射能という運命を背負った日本に生きる私たちに必要なもの(福島の女性が語る放射能と出産より)

2013-10-16 19:43:03 | 娘の育児日記

週プレNEWSのとある記事を読みました。福島の女性が語る「放射能と出産」をテーマにしたインタビュー記事です。

震災避難以来、2年7ヶ月ぶりの新横浜駅」という当ブログの記事で、私が言葉にしようとしてしきれなかったことが書かれていて、とても胸を打たれたので、記事全文を転載します。

私は自分のブログ記事でこう書きました。

『人は、地球上の生命体は、水・海から離れては生きていけない。長い循環を経て、いつかは全てに巡っていく。私たち人間が母なる地球の海を汚したのなら、その汚濁や毒と共に私たちも生きていくのだ。この運命の先に何があるのか分からないけれど、汚濁や毒によって生じる病も含めて、意識の持ち方によって闇の中に光の側面を見いだしてゆこう。』

上記のインタビュー記事の中で、特に私の胸に響いた部分を最初に引用しておきます。

↓以下引用↓

放射能との向き合い方について、アンナは彼女に「すべては大丈夫。楽観的に生きてください」と伝えた。

「アンナも、チェルノブイリに近いプリピャチという村から避難してきたお母さんたちもそう言うんですが、最初はまったく腑に落ちませんでした。放射能は安全と言う人たちの『大丈夫』と一緒じゃないかと。彼女たちの子供も病気だし、自分だって骨や胃腸はボロボロだって言う。訪れた中学校では半数以上の生徒が甲状腺や心臓になんらかの慢性疾患を持っていた。それでも言うんです。『何があっても前を向くのよ、痛くても痛くなくても前を向くしかないの』って」

(中略)どうしようもない状況に陥ったとき、それを打破したかったら“第3の選択肢”をつくるしかない。その選択肢をつくるのに必要なのが“楽観”なんだって今は思えます。

(中略)あり得ない事態。解決できない不安。しかし、数々の出会いを経て、自らが望んだ出産へ今、向かっている宍戸慈さん。(中略)すでに逃れられない“放射能”という運命を背負ってしまった日本に必要なのは、わたしたちひとりひとりが自らの未来を見いだすことかもしれない。

↑引用ここまで↑

わたしは、エリザベス・キューブラー・ロスの『人生は廻る輪のように』を読んだ時に、同じような感覚に触れた記憶があります。それはキューブラー・ロスが、エイズの蔓延について語った部分でした。彼女は自分自身の見聞きしたものから、エイズが作られた病であることをに確信を持ち、大きな闇の意図がエイズを蔓延させているという「真実」について語った後に、こう続けます。「しかし、たとえそうだとしても、私達一人ひとりがやるべきことはひとつです。愛に生きること。今目の前にあるものに光を見出し、自分の最善を尽くして精一杯生きること。」

これは私の記憶の中のキューブラー・ロスの言葉なので、今原本をあたったら違うことが書いてあるかも知れません。でも私の記憶に残っている彼女の言葉のニュアンスの方を大切にすることにしました。

第三の選択肢を作るために必要な楽観。圧倒されそうな真実を知ったうえで、目の前のことに光を見出し最善を尽くしてひたむきに生きること。この二つは私にとっては同じことに感じます。

私は冒頭の記事で、私も今ようやくこの地点に立てそうな気がしていると、そういうことを確認したかったのだと思います。

では、記事全文を転載します。

↓以下転載↓

福島の女性ラジオパーソナリティ・宍戸慈が語る「放射能と出産」

これは、福島に暮らしていたごく普通の20代の女性が、原発事故という想像を絶する事態に巻き込まれ、混乱し、泣き続け、しかし自分の目と耳と心で人とつながり、語り、真実の愛と出会い、そして再び自分の未来を取り戻していくドキュメンタリーである。


■放射能の恐怖に、死を覚悟した日


福島県郡山市で被災した夜、宍戸慈(ししど・ちか)さんがひとり暮らしの部屋に帰ると、電気もガスも水道も止まっていた。地震の情報も入らないので、自身がパーソナリティを務めているラジオ局へと向かった。しかし、夜になりほかのパーソナリティは帰宅してしまい、彼女は急遽、もうひとりのパーソナリティと朝までしゃべり続けることになった。


「この不安な夜はみんな一緒。避難所にいる人は隣の人に声をかけて、眠れない夜は手を携えて乗りきりましょう」


しかしそのときは、原発が危機的な状況にあることなど想像もしていなかった。そして翌日の昼過ぎまでしゃべり続けた彼女が、つかの間の仮眠から目覚めると、スタッフがこう告げた。


「原発が爆発した」


何を言っているのか理解ができなかった。だがテレビでは、水素爆発で建屋の屋根が吹き飛ぶ福島第一原発1号機の映像が繰り返し流れていた―。


***


当時の状況を彼女は「地獄のようだった」と振り返る。


「ものすごく怖くて、今すぐにでも逃げ出したかった。でもガソリンは残り少ないし、とか考えている間も地震速報は流れ続け、地元の消防団からは崩壊した建物の場所や断水しているエリアなどの緊急情報がひっきりなしにラジオ局に飛び込んできて。私だけ逃げますとは言えませんでした。私はこのままここで死ぬんだなと覚悟しました」


それから約10日間、彼女は不眠不休で放送を続けた。当時の音声は今も残っている。


「福島第一原子力発電所内の線量は1015マイクロシーベル。この数字をどのように理解したらいいのでしょう」


マイクロシーベル。正しくは「ト」が抜けている。だが、この間違いを当時、誰が指摘できただろう。そうした未知の世界に日本は突入していた。
スタッフが、郡山で開かれた現・福島県立医科大学副学長の山下俊一氏の講演会を取材してきて、そこで話された「放射能の健康影響は大丈夫」との言葉を番組で伝えた。するとリスナーから「何を根拠に大丈夫と言っているのか」との抗議がラジオ局に相次いだ。


「私は公的機関の言葉をそのまま伝えただけなのに、なんで?と思うと同時に、情報をうのみにしてはいけないことに初めて気がつきました」


それからは、さまざまな講演会や本で電力のこと、放射能のことをひたすら勉強した。


「本には奇形とか障害とか、差別についても書かれていて。チェルノブイリ関係の映像もたくさん見ました。だんだんこれは未来の私たちかもしれないと思えてきて、毎晩うなされて起きて、放送に行って、帰ってまた泣きながら勉強する、そんな日々でした」


■広島で“語り部”のひと言を聞いて……


放射能や原発事故を知れば知るほど、彼女の中には釈然としない思いが募っていった。


「当時の福島県には、県外避難や放射能の健康影響について、まともに話せない空気がありました。避難をしたくても口に出せない。母親や妊婦さんだったら『子供を守る』という理由で認められるし、それはわかるのですが、これから子供を産むかもしれない私たちだって不安なのに、それを口に出せない。こんな社会って気持ち悪いなと」


県内の同世代の女子と話してみても皆、似た気持ちだった。


「最初は大丈夫だよねって言っているけど、とことん話すと本音が出てくる。だったら私たちが本音で話し合える場をつくろうと思って立ち上げたのが『ピーチハート』でした」


2011年11月、“福島女子”の意見交換の場として、未婚女子ばかりでスタートしたピーチハートは、復興イベントへの参加やトークイベントの開催などに加え、2012年6月に議員立法として提出、可決された「子ども・被災者支援法」の成立前には院内集会に出席するなど、その活動は多岐にわたる。


また、ピーチハートを立ち上げた翌月には、宍戸さん自身も北海道札幌市へと移住した。


そうしたなかピーチハートのメンバーは2012年8月に広島へ向かう。そこで出会ったのは80歳の語り部だった。


「彼女は12歳で被爆したんですが、40歳の頃に、被爆した同級生が4人もがんや原因不明の病気で亡くなって。彼女たちの死も自分が乳がんになったのも、放射能の影響かもしれないと思い至ったそうです。それから40年間、80歳になった今も、語り部をし続けているという方でした」
気づくと宍戸さんは、語り部に胸の内を打ち明けていた。


「私は原発事故から1年半、気がおかしくなりそうで苦しいと。怒りからは何も生まれないとわかっているのに、常に誰かのせいにしたり、怒ったり責めたりしたくなる自分がいることが苦しい。67年間、あなたはどんな思いでいらしたんですかって聞きました。


そしたら、彼女は黒目が薄くなりかけた目で真っすぐ私を見つめて、ひと言、『わかるよ』って。それを聞いた瞬間、それまでの1年半の出来事は本当は夢じゃないかとどこかで思っていた、そんな感覚が粉々に打ち砕かれました。でもこのひと言でようやく、ふるさとや自分の身に起こったことは本当なんだなって、すーっと落とし込めたんです」


さらにこの夜は、広島で産婦人科の女医さんとも語った。


「その女医さんは子供はいるんですが、被爆2世なのでとても悩んだそうです。それで私たちに、『子供に何かあったらって言う子もおるけど、命に優劣なんてない。命に優劣をつけるぐらいやったら子供を産む資格なんかない!』って言うんですよ。すごいパワフルな先生で。


さらに『あんたら4月1日に妊娠したらいつ子供が生まれるか、ちゃんと知っとるか? クリスマスイブや。で、中絶できるのは8月のお盆までや』って。そこで私の中でプチッと何かが切れて、ピーチハートのメンバーに言ったんです、『私、決めた。来年のエイプリルフールまでに妊娠する!』って」


移住先の札幌へ帰った彼女は、当時の恋人に「私、あなたの子供が産みたいの!」と突然詰め寄るが、「は? 無理」と返されてしまうのだった。


■チェルノブイリで見た悲しくて強い女たち


彼女の心を占めていたものがもうひとつあった。チェルノブイリを自分の目で見ることだ。放射能は危険か、安全か、という論争を繰り返していてもキリがない。であれば、自分にとって参考書となるべき人に会いたいと思っていた。


ウクライナ行きが実現したのは2012年の11月。それは1986年の事故当時に自分と同じくらいの年齢だった女性たちが、今、どんな人生を歩んでいるのかを知るための旅だった。


「チェルノブイリ博物館の副館長のアンナさんは、事故のときは28歳の学校の先生でした。それで子供がおなかの中にいたんだけど、お医者さんに産まないほうがいいと言われて堕ろしてしまったと。その話をしたとき、それまで優しく話をしていた彼女が泣き出してしまったんです。


そして私が『福島とチェルノブイリという原発事故があった場所同士、これから一緒にできることはありませんか?』と聞いたんですが、急にそっけなく『なんのために?』と。『世界には432基の原発が稼働していて、それが急になくなることはありません。日本がいい例です、代替エネルギーも必要だし、運動だけでは意味がない』と、とても冷静に、事務的に言われました。おそらく彼女自身、子供を堕ろした悲しみがありながら、原発はなくならないという不条理にぶち当たってきたんだと思います。現に、ウクライナは原発推進国だし、彼女が働いている博物館も国立の施設なんです」
放射能との向き合い方について、アンナは彼女に「すべては大丈夫。楽観的に生きてください」と伝えた。


「アンナも、チェルノブイリに近いプリピャチという村から避難してきたお母さんたちもそう言うんですが、最初はまったく腑に落ちませんでした。放射能は安全と言う人たちの『大丈夫』と一緒じゃないかと。彼女たちの子供も病気だし、自分だって骨や胃腸はボロボロだって言う。訪れた中学校では半数以上の生徒が甲状腺や心臓になんらかの慢性疾患を持っていた。それでも言うんです。『何があっても前を向くのよ、痛くても痛くなくても前を向くしかないの』って」


帰国しても、ウクライナで見たものを周囲に伝えられなかった。毎晩ひとりで泣いた。誰も知らない土地に移住してきた心細さも響いた。恋人とも別れてしまい、頼るべき人もいない。そして彼女は精神的な疲労から倒れてしまう。


「そのとき助けてくれたのが今の旦那さんでした。彼は南相馬の人で、震災後、東京の仕事を辞めて復興のために南相馬に戻ってきた人で。その前から好きだと言われていたんですが、移住を選択した私と、復興を願う彼とは相いれないと断り続けていました。


それが、精神的に追い詰められて活動をすべてやめてしまおうと思ったときに『ひとりで頑張るのはやめたら』って言われて。そして、北海道は避難先って感覚だし、でも福島へも戻れないと泣いていた私に、彼は『探しているのは、家じゃなくて、自分が生きていく居場所じゃない?』と」


そうして彼女は、彼と2013年3月12日に結婚した。2年前に死の覚悟をした日だ。


「復興か避難か。右か左の二者択一しかない、どうしようもない状況に陥ったとき、それを打破したかったら“第3の選択肢”をつくるしかない。その選択肢をつくるのに必要なのが“楽観”なんだって今は思えます」


今、宍戸さんのおなかには赤ちゃんがいる。


「この子がどのように生まれてくるかを思い悩んでも仕方がない。もし甲状腺がんになったら、そのときに考える。だけど決して、今、何も対策をしないわけじゃなく、できる防御を考えて、心がけて。どんな子が生まれてくるのかを楽しみにしています」


***


あり得ない事態。解決できない不安。しかし、数々の出会いを経て、自らが望んだ出産へ今、向かっている宍戸慈さん。


責任者に拳を振り上げ、怒りを表現することも時には大事だが、すでに逃れられない“放射能”という運命を背負ってしまった日本に必要なのは、わたしたちひとりひとりが自らの未来を見いだすことかもしれない。


(取材・文/頓所直人 撮影/下城英悟)


●宍戸慈(ししど・ちか)
1983年生まれ、福島県出身。「20代は走りきる」を信条に、県内のコミュニティ雑誌『dip』の創刊から7年間、編集記者として携わりながら、レースクイーンとして全国を転戦。2010年12月より郡山のコミュニティFM局の開局からパーソナリティとして参加。震災後の2011年12月に札幌に移住し、今年3月12日に結婚。現在、妊娠中

 

週プレNEWS 関連ニュース
福島第一原発の事故収束作業は“手詰まり状態”に陥っている
「悪いのは福島県!」復興庁副大臣が被災者への説明会で爆弾発言
【福島現地ルポ】「偽りの除染はもういい」は“非県民”か?


お家に着いた途端、玄関で寝てしまいました

2013-10-16 19:28:29 | 娘の育児日記
今日は台風のため保育園をお休みさせる予定でした。

が、私の体調が低気圧のせいか思ったより落ちていたので、元気いっぱいの娘と室内で1日過ごすことに危機を感じ、午前10時過ぎに保育園に途中登園してもらいました。

昨晩は台風の風雨の音であまり深く眠れなかったせいでしょうか。

お家に着いた途端、玄関で靴を脱ぐために座って、脱ぐ前にそのままくったり眠ってしまいました。

こんなことにも子どもらしさを感じて可愛らしいです。

台風一過で娘は保育園に行きました

2013-10-16 13:25:31 | 娘の育児日記
明け方、強い風雨の音に不安になったのかグズりだして目覚めた娘。保育園はお休みしようね~と言うと安心したのか再び眠り、5時半くらいに起きました。

夫も最寄り駅の沿線が浸水で不通になったため、午前10時頃まで自宅勤務に切り替えていました。

私の体調が台風で気圧が下がったせいか落ちてしまい、娘には保育園に登園してもらうことにしました。

私がぐったりベッドに寝ていたら、何も言わないうちから夫が娘のお弁当を作っていてくれました。ホントに有難いことです。

『え~沢山歩くのやなんだよ~お休みしたい~』という娘に『ごめんね、母さんも一緒に遊ぶの楽しみにしてたんだけど…台風であんまり体調よくなくて』と言うとしぶしぶながら納得してくれました。

『宇宙で一番大好きだよ~』のセリフとあまーい玉子焼きも着けて送り出しました。