就寝前の絵本も読み終えて、ぬくぬくとしたベッドの中で数分間、ふうことおしゃべりをする時間を「ひそひそじかん」と呼んでいます。
(ちなみに、「ぎゅーじかん」「ちゅーじかん」というのもあります。馬鹿(笑)?)
たわいもないおしゃべりがほとんどなんだけど、ときおりふうこの本音が垣間見えたりします。
運動会から2ヶ月以上経った頃に「おかあさん、かけっこで1ばんじゃなくて、ごめんね」とかね。実は悔しかったんだなあ、とか。
ひとりっこなので、弟妹がいなくてごめんよ~と思うことがしばしですが、
こうして就寝前にしっかりと向き合えるのは、ひとりっこならではかなあと思ったりもします。
でね、昨日のひそひそじかんに。
ふうこが「きょうねえ、○ちゃんと●ちゃんが、ふうちゃんくさい~っていって、おやついっしょにたべてくれんかったんよ」と言いました。
くさいとかって、子供ってよく言うよね。
あれってなんだろう。面白半分なのか、子供ならではの残酷さなのか。
まあ、おそらく言われるのと同様にふうこも言ってるだろうし(実際数日前に、○くんにくさいって言ったら泣いた云々の話をしていた)、別に気にするほどのことでもないのでしょう。
「せんせいがおこってくれた」とも言ってたしね。
でも、それは幼稚園だからの話。
これが5年後、10年後であれば、事態は少々深刻だよね、きっと。
だけどふと思ったのだ。
もし仮に10年後、ふうこが同じように話してくれたとして、わたしに何ができるんだろう、と。
仲間同士の軽口やふざけあいかもしれないけど、それだけで済ませていいんだろうか。
かといって、学校の先生に相談したり、その子の親に連絡したりってほどのことなんだろうか。
学校に行かなくなったり、ひきこもったりすればもちろん手は打つだろうけど、それまでの「芽」のような段階を、わたしはきちんとキャッチできるのだろうか。
幼稚園の役員友達と話をしていたときも、小学校のおにいちゃん・おねえちゃんたちの人間関係に悩んでいる人も多いみたいだったなあ。
子供とはいえ別人格だし、でもだからってほおっておける時代じゃないし、難しいよね。
でも、ひそひそじかんじゃなくなっても、いいことも悪いことも話せるような関係でいたいなあと思う母なのでした。
(ちなみに、「ぎゅーじかん」「ちゅーじかん」というのもあります。馬鹿(笑)?)
たわいもないおしゃべりがほとんどなんだけど、ときおりふうこの本音が垣間見えたりします。
運動会から2ヶ月以上経った頃に「おかあさん、かけっこで1ばんじゃなくて、ごめんね」とかね。実は悔しかったんだなあ、とか。
ひとりっこなので、弟妹がいなくてごめんよ~と思うことがしばしですが、
こうして就寝前にしっかりと向き合えるのは、ひとりっこならではかなあと思ったりもします。
でね、昨日のひそひそじかんに。
ふうこが「きょうねえ、○ちゃんと●ちゃんが、ふうちゃんくさい~っていって、おやついっしょにたべてくれんかったんよ」と言いました。
くさいとかって、子供ってよく言うよね。
あれってなんだろう。面白半分なのか、子供ならではの残酷さなのか。
まあ、おそらく言われるのと同様にふうこも言ってるだろうし(実際数日前に、○くんにくさいって言ったら泣いた云々の話をしていた)、別に気にするほどのことでもないのでしょう。
「せんせいがおこってくれた」とも言ってたしね。
でも、それは幼稚園だからの話。
これが5年後、10年後であれば、事態は少々深刻だよね、きっと。
だけどふと思ったのだ。
もし仮に10年後、ふうこが同じように話してくれたとして、わたしに何ができるんだろう、と。
仲間同士の軽口やふざけあいかもしれないけど、それだけで済ませていいんだろうか。
かといって、学校の先生に相談したり、その子の親に連絡したりってほどのことなんだろうか。
学校に行かなくなったり、ひきこもったりすればもちろん手は打つだろうけど、それまでの「芽」のような段階を、わたしはきちんとキャッチできるのだろうか。
幼稚園の役員友達と話をしていたときも、小学校のおにいちゃん・おねえちゃんたちの人間関係に悩んでいる人も多いみたいだったなあ。
子供とはいえ別人格だし、でもだからってほおっておける時代じゃないし、難しいよね。
でも、ひそひそじかんじゃなくなっても、いいことも悪いことも話せるような関係でいたいなあと思う母なのでした。