All my loving ♪

短歌と猫とポールマッカートニーを
こよなく愛しています

文法の間違いその2

2010年01月08日 21時20分45秒 | Weblog
国語学者の大野晋氏が今年の7月に亡くなっていたことを知った。
私は大野氏の著書から、たくさんの文法を学ばせていただいた。
心よりご冥福をお祈りいたします。

今日は紛らわしい文法について、大野氏の著書から抜粋していきたいと思う。


「へ」と「に」について

都へのぼる
大和へ越ゆる雁がねは

「へ」はこのように、「のぼる」「越ゆ」など移動の動作を導く。
「へ」の上は「都」「大和」など遠い土地の名が八割を占める。
つまり、遠いところに向って移動する時に「へ」を使った。

ところが「に」にも同じような使い方がある。

家に帰りて
韓国に渡る

これだけを較べると「へ」と「に」の間には区別が見えない。
しかし、「に」には次のような例がある。

比良の港に漕ぎ泊てむ(比良の港に停泊しよう)
寄する波、辺に来寄らば(寄せる波が岸まで寄せて来たら)

この「に」の使い方は、「港(に)停泊する」「岸辺(まで)寄せて来る」であり、つまり「遠いところを目指して移動する」のではなく、確かな場所に「動作が動いて止まる」ことを導いている。

「に」にはこのように「結果として確かな地点や場所に止まって動かない」という意味に使うことが多い。
「比良の港に漕ぎ泊てむ」といえば、「比良」の方向へということでなく、到着する地点が「比良」だと示すのだ。
「に」は動作のしっかりとした帰着点を示し、「へ」のように、そっちを目指して行くのとはちがうという区別が古来そこにあった。

「球を庭へ投げる」というと、「球を庭の方へ向って投げる」こと。
「球を庭に投げる」といえば、「球の落ちて着く場所が庭」ということ。

いずれにしても、「へ」といっても「に」といっても通じることは通じる。
「机の上に置いといた」「ノートへ書く」なども意味は通じるが、「置く」「書く」はそこに落ち着く動作。
移動・移行の方向の時は「へ」。
動作の帰着点をきちんと示したい時は「に」。
聞き手・読み手に事態をはっきりと伝えるためには、「机の上に置く」「ノートに書く」と使い分けるべきである。


I love you

2010年01月08日 21時20分10秒 | Weblog
「友達」とわれを紹介するきみに他意なきことがさらに哀しく

日本語は曖昧なもの honeyではなくsheとして私は「彼女」

日本語に「愛するひと」を差す言葉少なしそれがこの国の美学

回りくどく愛を伝へる日本語になかりし言葉「愛してゐる」は

かのひとが訳しし言葉忘れざり I love you を「死んでもいい」と
 (かのひととは二葉亭四迷のこと)


雪、降れば

2010年01月08日 21時19分39秒 | Weblog
新聞に死者の死はありかなしみのなき端的な数行として

死の床にきみが残ししひらがなが解くるやうに降り初むる雪

傷口の多き空よりこぼれくる*******(あいしてました)

読みかけで伏せられし本われの身に完結せざる愛のあること

想ひとは沈むるものにほかならず夜の湯にこの身ひとつを沈む

やはらかな冬の陽の差す水槽に金魚は朱き孤独泳がす

徳山村

2010年01月08日 21時18分48秒 | Weblog
水底へ《文》を消ししづかなる地図の余白にやまぬ黄落    (文=学校)

旧かなの間違いその4

2010年01月08日 21時18分20秒 | Weblog
今日は、間違いではなく、その言葉のできた経緯の余談など。

「こうして」と「そうして」。
旧かなではそれぞれ「かうして」「さうして」と書く。

「かうして」の「かう」は「かくして」の「く」が「う」の音に変化したいわゆるウ音便。
(「かくして」は漢字だと「斯くして」と書く)
変化したのは「く」の部分だけで、語根である「か」は変わっていないため、「かうして」と表記する。
(その3に書いたとおり、旧かなの規定に発音の便宜により発生した新しい語形は新しい語形に即した表記とするとなっているため、音便変化したものは発音通りに表記する)

ちなみに語根とは、語の構成要素の一。単語の意味の基本となる部分で、それ以上分解不可能な最小の単位のこと。

「かうして」の場合、語根は「か」。
語根は活用や音便によっては変わらない。
ところが、新かなでは「発音通りに表記する」ため、「こうして」になってしまった。


さて、次に「さうして」。
「かうして」は「かくして」から音便変化だったのだが、「さうして」には「さくして」という元の言葉は存在しない。
「さうして」の元になる言葉は、「然して」。
「斯く」と「然」は、意味的にとても近いものがあるため、「かくして」が「かうして」に変化したのを受け、「さして」も「さうして」(「さーして」)と発音するようになった。
それが「さうして」の成り立ちである。
こちらも「さ」は語根であるのに、新かなでは「そうして」になってしまった。



どちらがいいという論議をするつもりはない。
ただ、私はやはりはっきりとこうだからこう表記すると分かっている旧かなが好きです(笑


落葉樹

2010年01月08日 21時17分46秒 | Weblog
晩秋のきみはかなしき落葉樹 言の葉といふ葉を散らしゐる

母国語の異なるひととゐるやうに理解しあへぬままの価値観

鳥のやうにわれへと帰り来るひとよ背にゆふぐれの破片をつけて

激情の去りたるのちの空白に秋の終はりの雨降りつづく

引力はやさしきちからそれゆゑに黄落は地にわれはあなたに

旧かなの間違いその3

2010年01月08日 21時16分44秒 | Weblog
その昔、「向う」を「向ふ」と書いたら、「それは間違いではないか」といわれたことがある。
「向う」は旧かなでも「向う」ではないかと。

この「向う」と「向ふ」の混同もよく見かける。

「向う」は、口語ではワ行五段活用動詞だが、文語ではハ行四段活用動詞となる。
よって活用は「は・ひ・ふ・ふ・へ・へ」。
なので、動詞として「向う」を使用する時の旧かな表記は「向ふ」で正しいのだ。

ただし、旧かなでも「向う」と表記する場合があるのでややこしい。
それは「向うに」「向う側」など、活用語尾のすぐ上を「ko」と発音する場合だ。
これは「向かひに」「向かひ側」の「hi」音が、すぐ上の「ka」が「ko」に変わったために変化した、いわゆる音便変化した形。
旧かなの規定に、発音の便宜により発生した新しい語形は新しい語形に即した表記とするとなっているため、音便変化したものは発音通りに表記する。
よって、「向うに」と使う場合は旧かなでも「向うに」と表記されるというわけだ。

「向う」(mukau)の場合は、「向ふ」。
「向う」(mukou)の場合は、「向う」。

覚えてしまえば、実に簡単なことだ。


最後に音便化したものの旧かな表記について少しだけ触れたいと思う。

①「い」「う」以外の仮名である部分を「イ」「ウ」と発音するようにしてできた語(イ音便、ウ音便)ではそれぞれ「い」「う」と書かれる

赤い(元は赤し)→赤い
問うて(元は問ひて)→問うて
峠【たうげ】(元はたむけ)→たうげ

②別の仮名である部分を撥音、促音で発音するやうにしてできた語(撥音便、促音便)ではそれぞれ「ん」「つ」と書かれる。

踏んで(元は踏みて)→踏んで
寄って(元は寄りて)→寄つて

ちなみに、「っ」は旧かな表記では「つ」でも「っ」でもいいとされている。

③発音の便宜上などで付加された母音、転訛した母音は「ア行」の仮名で書かれる。
(「転訛」とは、語の本来の発音がなまって変わること)

背【せい】(元はせ)→せい
姉さん【ねえさん】(元はあねさん)→ねえさん
然うして【さうして】(元はさして)→さうして

あと、掛け声・感動詞・訛りなども発音通りに表記される。
ここで出てきた「そうして」。
次回はこの言葉に少し突っ込んでみたいと思う。



あまり長くなると自分も頭が痛くなるので、今日はこの辺で(笑


文法の間違い

2010年01月08日 21時16分21秒 | Weblog
未然形と已然形の間違い、これも頻繁に見かける。

未然形は、「未だ然らず(いまだしからず)」という意味。
未来のことを推定したり、動作・作用がまだ実現していない事柄を述べたりする時に用いる。

已然形は、「已に然り(すでにしかり)」という意味。
動作などが既に成立している場合に、助詞「ば」「ど」「ども」へ続けるのに用いる。

「未然形+ば」「已然形+ば」の混同を頻繁に見かけるのだ。


藤なみの花の紫絵にかかばこき紫にかくべかりけり(正岡子規)

これは未然形に「ば」が接続しているので、「~ならば」「~としたら」とある事実を仮定し、その条件のもとにある事実・判断を示す仮定条件になる。
「もし絵を描くならば、濃い紫に描くべきである」と訳すことができる。


瓶にさす藤の花ぶさみじかければたたみの上にとどかざりけり(正岡子規)

これは已然形に「ば」が接続しているので、「~ので」とある確定的事実を、原因・理由の条件として示す確定条件になる。
「花ぶさが短いので、畳の上には届かない」と訳すことができる。


ようはまだ起こっていないことを仮定していう場合は未然形、もう起こってしまったことを原因としてあることが起こったことをいう場合は已然形になるのだ。
口語で已然形と同じ活用をするものを、仮定形という。
形は同じでも、意味用法は180度違う。
この仮定形と同じ形がゆえに混同して使用されてしまっているのだと思う。

間違いの例を挙げてみよう。

「歩かば転べり」
これは未然形+「ば」なので、まだ起こっていないことを仮定している。
仮定しているのに、結びに動作が終わったことを表す「り」という助動詞が使われているところがおかしい。
「たり」でも「ぬ」でも「つ」でも「き」でも間違いになる。
この場合なら、「歩かば転ばむ」(歩くならば転ぶであろう)などの助動詞でないとおかしいということになる。

「歩けば転ばむ」
これは已然形+「ば」なので、もう起こってしまったことを原因に示している。
もう起こってしまってしまったことをいっているのに、結びに「む」という推量の助動詞が使われているところがおかしい。
この場合なら、「歩けば転べり」(歩いたから転んだ)などの助動詞でないとおかしいということになる。
先ほど書いたが、口語なら仮定形があるのでこの形でもおかしくはないともいえる。
だが、結句に文語の助動詞を使えば、文語とみなされそれは間違いと指摘されても仕方ない。


話言葉では同じように使っている未然形と已然形。
実はまったく意味用法が違う。
これを間違えると、短歌の意味が通らなくなってしまうので注意が必要だ。



しかし、深夜にこんなことをやってる私。
もう文法Mとしかいいようがないなぁ(笑


旧かなの間違いその2

2010年01月08日 21時15分06秒 | Weblog
昨日、師匠に用があって電話した。
ちょっとした旧かな・新かな論争になった(笑

師匠は歌歴35年ほどなのに、いまもなお新かなを使っている。
「歌ってものは、書かれたものを見るってものじゃなかったわけでしょ。今こうして電話で話しているように、耳で聞いて理解するはずのものだった。それを思うと、発音と表記が違う旧かなではなく、俺は発音通りに表記する新かながいいと思うんだ。短歌において、ぱっと読んで意味がすぐに伝わるってことは何より大切なことじゃないかな。今じゃ言ひて・・・なんて言わないでしょ?でもね、1000年以上前はたしかに言ひてって発音されていたらしいよ。その頃はきちんと表記通りの発音がされていた。でも万葉の頃からそれは崩れて、今は誰も言ひてなんて言わないでしょ。旧かなに悩んでないで、新かなにしなさいっ(笑」

ひとつ言っておくと・・・
師匠は旧かなを知らないわけではない。
文法と同じく、恐ろしく詳しい。
その師匠がおっしゃるのだから、新かなに・・・・
いや、ここでプチ反論。
↑ はやり


新かな、いわゆる現代仮名遣いは、「発音通りに表記する」ことが原則とされている。
たとえば、「言う」。
これは終止形が「言う」だから、ア行動詞。
が、否定の「ない」をつけると、「言わない」とワ行になる。
これは発音通りの表記にするためなのだが、すると今度は動詞は五十音図の二行に渡っては決して活用しない・・・という原則に反することになる。

新かなでも、発音通りに表記されていない場合もある。
「私は」と書いて「わたしわ」と読む。
「そこへ」と書いて「そこえ」と読む。
このあたりが、私が新かなを信頼していないところ。



旧かなは、ハ行表記を習得すれば8割方は覚えたと言っても過言ではないと言われる。
旧かなの基本として、新かなの表記で、語中語尾にくる「わいうえお」は原則としてハ行になる。
語尾に「う」のつく動詞はすべて「ふ」になると言うのも、この原則にあてはまる。

ただ、例外がいくつかあるのがややこしい。
新かなは発音通りに表記するのが原則なのに、「お」と発音するものを「お」と表記する場合と、「う」と表記する場合がある。
旧かなで「ほ」または「を」と書くものは「お」で書く・・・と『改訂現代仮名遣い』で規定されているからである。

ほかの言葉でも変化しない場合をいくつか書いておこう。


「わ」のままで表記するもの。
語の頭にくる「わ」は、常に「わ」と表記される。
なので、熟語などふたつ以上の言葉が接続してできたものは、語中にあっても「わ」と表記される。
「言訳」→いひわけ
「物忘れ」→ものわすれ
「仕業」→しわざ


「い」のままで表記するもの。
音便化または音変化して「い」になったものは、「い」のままで表記される。
「於いて」(於きてからの音便化)→おいて
「かわいい」(かわゆいからの音変化)→かわいい

気をつけなければいけないものに、「ついに」「つい」がある。
「遂にできた」の「ついに」(副詞)は、「つひに」。
「ついやってしまった」の「つい」(副詞)は、「つい」。
「ついつい」は、「つい」を重ねて強調した言葉なので、「ついつい」。


「う」のままで表記するもの。
ウ音便による音便変化したものは、「う」のままで表記される。
意志・推量の助動詞「う」「よう」が接続したものは、「う」のままで表記される。
「ありがとう」(ありがたくからのウ音便)→ありがたう
「おめでとう」(おめでたくからのウ音便)→おめでたう


「え」のままで表記するもの。
ヤ行動詞の活用した場合は、「え」と表記する。
ちなみに動詞で「ゑ」と表記するものは、「植ゑる」「据ゑる」「飢ゑる」の三語のみ。



ややこしい規定はいろいろあるものの、その語の成り立ち(音便化や音変化)や構成、また何行活用なのかを考えてみれば、おのずと表記をどうすればいいのかが分かってくる。
もちろん、こう表記しろと決まっている言葉も多く存在するので、それはまめに辞書を引いて覚えるしかないと思う。


今日も朝から頭が痛くなりました(笑


旧かなの間違い

2010年01月08日 21時14分30秒 | Weblog
このところ、同じ間違いを何度も見た。
気になったので記事にする(笑
↑ どれだけ文法好き?>おのれ

「~しよう」
たとえば、「料理しよう」。
これを「料理しやう」と旧かな表記した短歌を何度も見たのだ。

「行こう」を「行かう」と書くのは間違いではない。

「よう」は、上一段・下一段・カ変・サ変動詞の未然形、助動詞「れる」「られる」「せる」「させる」などの未然形、サ変には「し」の形に付く助動詞で、意志・決意、推量・想像などの意を表す。

「う」は、五段活用動詞、形容詞、形容動詞、助動詞「たい」「ない」「だ」「です」「ます」「た」「ようだ」「そうだ」などの未然形に付く助動詞で、同じく意志・決意などの意を表す。
「う」は推量の助動詞「む」の音変化したものなのだ。


元に戻って考える。
「行こう」は四段活用動詞「行く」の未然形に助動詞「う」の接続したもの。
本来の未然形は、「行か」であるが新かなでは発音通りの表記をするため、「行こう」とされる。
(新かなの未然形にはふたつの行が混在することになる)
それを旧かなで表記する場合は、当然活用通りに表記されるので「行かう」とされる。
「う」は「う」という助動詞であるので、「行かふ」には絶対にならない。

それと同じで、「しよう」はサ変動詞「し」に助動詞「よう」の接続したもの。
「よう」も「よう」という助動詞なので、「しやう」には絶対にならないことになる。
「寝よう」も同じように「寝+よう」であり、「寝やう」にはならない。


「よう」が「やう」に変化するのは、漢字で「様」と書くもの。
「花のように」は「花のやうに」、「様子」は「やうす」(「ようす」のままでもよいとされている)、「見よう見まね」は「見やう見まね」になる。
このふたつの「よう」が混じってしまって、旧かなの表記間違いが起こっているように思う。

それを見分けるためには、たとえば「行こう」なら「行ってやろう」という「やろう」に置き換えてみればすぐ分かる。
ちなみに、「行ってやろう」は四段活用動詞「やる」の未然形に助動詞「う」が接続したものなので、旧かなでは「行つてやらう」になるというややこしさ。
この「やろう」に置き換えられないものが、「よう」(様)で旧かなでは「やう」と表記するものだ。



と、えらそうなことを書きましたが、果たして自分が今までに詠んだ短歌でこの間違いをしていないかが不安(笑
旧かなに多い間違いは、まだまだまだまだありますが、根性がないため数回に分けて記事にしたいと思っております。

わがうぶすな

2010年01月08日 21時13分21秒 | Weblog
そつけなくうぶすなの母が送りくる煮豆・八丁味噌・次郎柿

受話器から父と母との生活がこぼれてわれの午後潤へり

母と似て非なる運命線の手に確執を削ぐやうに柿剥く

ゆふやけの色に実りし次郎柿とほき故郷のあきぞらを食む

海は目の高さにいつもあるものとかつて応えし母こそが海

追憶のなか折り鶴を折るやうに母はましろき服をたたみぬ

バツイチ哀歌

2010年01月08日 21時12分34秒 | Weblog
ペンションを共に経営するだけで切られたり母子家庭手当てを
  
手当てはもう出ませんといふ福祉課の男のひやりうすき唇

あのひとは男がゐると福祉課にちくり電話をせしひとのゐて

恋人ぢやないし援助もされてない叫べど福祉の壁厚かりき

バツイチは恋愛するなするならば切るぞ手当てに控除(国より)

真実をたしかめぬまま手当て切る国の総理はだれでも同じ

未婚でも既婚でもなき存在はあかるき国の痣といふのか

年金に保険・税金 ただ生きてゐるだけで減る預金通帳

福祉課の例の男が税務課に移りてわれと目を合はさざり

生活苦よりも矜持が勝ち控除使はず学費払ひゐる馬鹿

天皇賞(秋)

2010年01月08日 21時10分55秒 | Weblog
偉大なる三大始祖の血脈の尖に咲きたるこの十七頭
  (尖=さき)
沈黙の日曜日とはなるな大欅に果てしスズカかさねつ

天皇賞秋には魔物が棲むといふ風を切り裂き人気三頭

長き長き写真判定 汗だくの馬たちはその時を待たざり

同タイムなれども首の上げ下げに運を分かたれたる名牝馬

逃げて逃げてレコードタイム刻めどもスカーレットの届かざる鼻

逃げてなほ馬群に沈まざる足をもつきみこそが最強牝馬

母となる日までを翔けよ0コンマ数秒の差を競ふ世界に

つづまりは淘汰 勝たねば生きられぬサラブレットの眸やさしも

今ここに生きてゐることそれだけでいいつかの間を憩へしづかに


挽歌

2010年01月08日 21時10分24秒 | Weblog
告げられし余命はなんと一ヶ月 二百六十七万八千四百秒

余命なきものたちだけに許さるるワイン哀しきまでの血の色

しづかなる器官となりて眠りをり下顎呼吸といふデクレッシェンド

紙オムツスリッパメモ帳 手際よく君は病室より消されゆく

炉を閉ざす音に生死は分かたれて立つものはみな残されし側

これは腕これは頭蓋といひながらああ手から手へ悲しみ渡す

留守電のきみはおのれの死を知らずわづかな留守を伝へ続けぬ

そこだけに陽が射すごとし墓石群のひとつとなりて秋を立つ君

遺歌集は現在形でつづられて行間にけふも秋の雨降る

こひびとを失つただけ寡婦にさへなれざるわれの曖昧な生


ゆふぐれの底に。難破船

2010年01月08日 21時08分25秒 | Weblog
ゆふぐれは塩か。すべてが錆ついて足の先から腐食してゆく

帰巣するひとらひとらの溢れゐてゆふぐれわれも街も過呼吸

ゆふぐれは深海の底 それ以上腐れぬ難破船がかたむく

くちづけののちの空白ゆふぐれに船が陸から離るるやうな

次々にこゑ入れ替はりゆくcafeに待つひとはみな携帯を向く