プラマイゼロ±

 某美少女戦士の内部戦士を中心に、原作、アニメ、実写、ミュージカル等問わず好き勝手にやってる創作、日記ブログです。

TRUST

2013-04-22 23:59:42 | キリバン・リクエスト



 ヴィーナスは忙しかった。相も変わらず政務に追われていた。
 ただ、ヴィーナスは心中穏やかではない。その知らせを受けてヴィーナスはがつがつとパレスの廊下を突き進んでいた。向かうは医務室の最奥。中から開くことはできないよう設計された監禁用の部屋。
 かつて治療中マーキュリーが脱走したのを受けて、マーキュリー本人が設計したというその一見矛盾に満ちた部屋は、その大仰さゆえ抑止に使われ、そこに誰かを閉じ込める事態は、今回が初めてだった。
 もっとも、その今回も、中から開くことができないという前提を破った人を閉じ込めているのだから、やはり矛盾している。だから閉じ込めたところで少しも安心はしていなかった。門をいくつも開き、いくつもの鍵を捻り、いくつもの認証を受けて、最後の扉を開く。
 そこは、簡易なベッドと医療機器があるだけの、監禁のためというにふさわしい空虚な部屋だった。数歩で部屋の端から端に移動できるほどの広さに、換気の窓さえない息詰まるような箱。長くいたらそれだけで発狂しそうな、真白く屈強な立方体。もっとも、実際は見えないだけで室内に様々な仕掛けが張り巡らされており、生命維持の管理機器から、脱走を防ぐシステムなど工夫が凝らされているらしい。作り手の心意気と悪趣味さがうかがえる逸品だ。
 だが、ヴィーナスにとってそんな現実はどうでもいいことだった。
 ジュピターの意識が戻ったと言う報告を聞いて、あの戦いの後意識不明に陥ったジュピターを閉じ込めていたこの場所に、守護神のリーダーが自らやってきたのだ。
 室内の中央で、ジュピターは、扉に背を向け静かに立っていた。やってきたヴィーナスに反応せず、ついさっきまで意識を失っていて、なんの情報もなくひとり閉じ込められていた事態に混乱する様子もなく、ただ立っている。
 だが、そんな彼女にかける言葉は、見舞いのそれではない。訪問者には気づいているだろうに、振り返りもしないジュピターに、ヴィーナスは言い放った。
「あたしがなにしに来たか、わかってるわね」
 そこでジュピターは、緩慢な動作で振り返る。簡易な患者服を着ただけの姿に、首に巻いた包帯が下ろした髪の間から覗いて痛々しい。額や頬に貼られた絆創膏も同様に痛々しい。だがそれよりも、無表情だがどこか悲しそうに伏せられた目はもっと痛々しい。
 それでも、その目には、対マーズでも対マーキュリーでも見られなかった熱がある。静かだが、確かに燃えるような目だった。
 それを見て、ヴィーナスは、なんのためらいもなくジュピターをぶん殴った。



 マーズは不機嫌だった。
 不愉快な現実が目の前にある。しかし体には、戦士としてなにかひとつ自分の限界を超えたような、そんな感触がある。指先一つの動きだけでも、以前の自分とは違う、細胞がすべて入れ替わり生まれ変わったと思えるほどの感覚。
 それなのに解放感がないのは、目の前の光景が不快で体とのバランスが悪いからだ。かちり、といった軽い音からきりきりと耳に刺さる不快なノイズが絶え間なく響き、その音と絵面だけで殺意に近い不快感を覚える。しかしマーズは、かつてないほど冷静に目の前の人物に声をかけた。
「マーキュリー」
 医務室のベッドで、シーツの下で謎の物音を立てながらもそもそと動く姿が一つ。四守護神のブレーンのその姿は、どう見てもただの芋虫だった。
 これが身内でなければ即座に燃やしていたであろう。身内と分かっていてそれでも燃やしてやりたい衝動に駆られたマーズは、しかし一呼吸置いてそのシーツをひっぺかした。
「・・・マーズ」
 ようやく顔を見せたマーキュリーは、こもった声で、しかし驚いたような声を出した。もっとも、実際に驚いているかはわからない。表情がほとんどわからないからだ。額は巨大な絆創膏を貼っていて、顔の鼻から下の部分は格子状の金属片で覆われている。
 狂犬にはめる轡を連想させるそれは、冷静な顔立ちに似合わず禍々しく、マーキュリーがジュピターを食い殺そうとしたと確かにマーズに思い出させる。そんなマーキュリーが、禍々しいのかふざけているのかわからない出で立ちでベッドに転がっているのだからやっていられない。感情の整理をすべくマーズはシーツを放ってマーキュリーから数歩離れたが、シーツなしでベッドの上でマーキュリーがうねうねとうごめいている姿は尚更不気味で、結局後悔するだけだった。
 もっとも、この姿は、全身をヴィーナスのチェーンで簀巻き状に拘束されているからである。それでもなんとか拘束を解こうとしているその姿に、マーズは傍の椅子に座り込んで、マーキュリーの動向を嫌々見守る。
 あの騒動の後、ジュピターとマーキュリーは治療のあと、ヴィーナスの命で双方違う場所に監禁していた。しかし、もともとジュピターより軽症だったせいか、そこから難なく脱出したマーキュリーは、あろうことか機械越しにジュピターの意識が回復したという報告をヴィーナスにしたらしい。怒ったヴィーナスが再びマーキュリーを拘束し、見張るようマーズに命令して、今この現状だ。そのヴィーナスは今ジュピターのところに向かっている、とも。
 そして命に従って、マーキュリーが緊縛されてもぞもぞしているところをマーズは黙って見せつけられている。
「・・・・・・・・・」
 変態行為はよそでやってほしいものだ、とマーズはため息をつく。マーキュリーはくまなくチェーンで巻かれている状態を、マーズがどこをどうやってどうなってどうしたのかわからない体勢を繰り返し、気がつけばまた少し拘束が緩んでいた。
「・・・技を、どうして使わないの」
「・・・え?」
「そんな拘束、技を使って壊してしまえば済むでしょう。ジュピター戦でも結局技を出さなかったし―どうして」
 マーキュリーにかける言葉は、ねぎらいではない。そんなものこの場に必要ではない。ヴィーナスの命令で来たこの場では、マーズはマーキュリーの真意を問いただすつもりでいた。
 轡の下でも声は出せると先ほどのやり取りで分かった。答えなければ殴ってでも吐かせるつもりでいたが、マーキュリーは特に嫌がる様子もなく、いつもの口調でぽつりとつぶやいた。
「・・・あんまり、考えてないわ。なんとなくかしら」
「あなたが考えないって、どういうことなの。知性の戦士のくせに」
「知性の戦士だからよ」
 あまりにもあいまいなで雑な言葉に、マーズの眉が寄る。しかしそれに返された言葉は氷のように澄んだ冷たさがあった。ちゃり、とまたチェーンが鳴る。
「水と知性の戦士であるマーキュリーは、戦いの場では、必ず知略と技を使って仕掛けてくるだろう―と、みんな思ってる」
「・・・・・・・・・」
「そう思われているとわかっていたから、技は出さなかった」
 今もね、とそう付け加えるマーキュリーの言葉はやはり冷たい。青い目はあの時とは比べようもないほど冷めている。あの燃えるような目は、今はない。
 なにも考えない、そんな策などありうるのだろうか。あの戦いの場で、本当になにも考えずにああいう振る舞いをしたのか。
「・・・だから、なにも考えずジュピターを、食い殺そうとした、と」
 マーズの目は揺れる炎のように震えていた。なにもかもあの時とは真逆。少しは落ち着いた熱が、上がっていく。いくら策を立てないのが策だったとしても、それで爪を剥がして額を割って、そのあげくが仲間を食い殺すなんて、こと。
 轡の隙間から見える唇に、舌に、歯にぞくりと恐怖する。なに食わぬ顔で話をするその口は、今にもマーズの喉笛を狙ってきそうで。
「・・・いえ」
 マーキュリーからの否定の言葉。それで、内心どこかで否定してほしかった自分がいたことにマーズは気づいた。
 あの時マーキュリーは、起き上がることもろくに出来ない状態だった。猫を噛む窮鼠のように、ほとんど無意識の行動だったのだろう。それでも、結果的にそうなってしまったとしても、そんなつもりはなかった、それはしてはいけないことだったと、たとえ言い訳がましい言葉であっても言ってほしいと心のどこかで思っていた。
「私が考えていたのは、最初からジュピターを食べることだった」
「・・・え?」
「策らしい策と言えばそれしかないわ。本当に、最初からジュピターを食べることだけ考えてた」
 しゃら、と緩む金属片。一気に爆発寸前まで上がるマーズの闘気。マーキュリーは自分が取り巻く空気ががらりと変わったことに気付いていても気にならないように、口を動かしにくそうに話を続けた。
「そうするしかないと思った」
「・・・どうして、そんなことを」
「あなたと私が戦ったとき―あなたはすぐに意識を失ってしまったけど、あのときのヴィーナスを覚えている?」
「ヴィーナス?」
 マーキュリーがジュピターを食い殺す理由に、どうしてそこでヴィーナスが出てくるのか。疑問と憤りとが同時に湧いてきて、マーズは冷静ではいられない。だが意味のないことを言っているとも思えないマーキュリーの口調に、マーズは意識を失う前の光景を必死で思い出す。
 ジュピターと戦おうとして、マーキュリーに止められた。ヴィーナスはジュピターを止めていた。そのとき、マーキュリーの背中越しに見たヴィーナスは、ジュピターを止めようと懐に入りながらも、こめかみを負傷していた。
「ヴィーナスの怪我を見て思ったのよ。ヴィーナスは、ジュピターがマーズに攻撃を当てないようわざと外して掠めたと解釈してたみたいだけど・・・それならかえって頭部付近に技は出さない」
「だから?」
「ジュピターはあのとき、ほんとうはあなたの耳を狙っていたんじゃないかって思って」
 耳を狙う、という言葉ででマーズははっとした。
 ジュピターは終盤、マーキュリーの耳を狙ってマーキュリーの動きを止めていた。平衡感覚を奪うというのは、感覚がずば抜けているマーズにとってはとてつもない致命傷になる。確かにあの技を食らわされてしまってはもう体を起こすことも出来ず、ままならない自分の感覚に歯を食いしばって耐えることしかできないだろう。
 マーズは少しだけヴィーナスより背丈がある。ヴィーナスのこめかみの位置がマーズの耳の位置というのは、確かにそうなのだ。
「あなたとジュピターが戦っていた時、どうしてもジュピターがどういう手に出るのかわからなかった。どうやって戦いを終わらせようとするのかどうしても読めなかった―戦いを嫌がっている人が戦わざるを得なくなったとき、どうするのか―でも、あのとき」
「・・・・・・・・・」
「それで―もし私がジュピターと戦っても、きっと、最終的には私にの耳を狙うと思った。対マーズと違って、策略を最大限に警戒しながら、それでも私が自分から退いてくれるように様子を見ながらなんとか私を傷つけないように応手を考えて、それでも最終的には私の耳を」
 ぱきり、となにかが外れる音。薄氷を踏んだように軽い音だった。それがチェーンからなのか、またマーキュリーの骨がどうにかなったのか、自分の中で何かが弾けた音なのか、マーズにはわからない。
「前の戦いで、私が気絶させたあなたをジュピターは迷わず抱き起こしていた―また起き上がって攻撃するかもしれないとわかってて、それを警戒しながら、それでもあなたを守ろうとして―だから、きっと私にも」
「・・・・・・・・・」
「なにか策があるかもしれない、技で襲ってくるかもしれない―そんな警戒をしたまま、それでも一刻も早く私を医務室に運んで、戦いそのものを終わらせようとして私を抱いて―私は、平衡感覚と意識をほとんど失った状態で、それでも体を起こすことさえ出来れば」
「・・・・・・・・・」
「体を起こして―あとは歯を食いしばるだけでいい」
 食い殺した、とはマーキュリーは言わなかった。マーズに配慮したというよりは、わかりきったことだからだろう。ほんとうに、戦う前から、そのシナリオを頭で用意していたという、頭脳。策などないという戦いは、やはりどこまでもマーキュリーの思惑通りだった。
「・・・ジュピターがなにをするかわかっていたのなら、どうして」
「わかっていたところで、私にはそれを回避できなかった。先の戦いを見てデータを取って、対処法を考えて、あれだけ手加減をしてもらって、それでも―」
「そうじゃない!」
 マーズは叫んだ。マーキュリーは顔色を変えない。この状態でマーズに何か仕掛けられたら、それこそ耳が潰されたとき以上になにも出来ずに死ぬだけだというのに。
 眉一つ動かさないのは、なにかされても対抗する術があるのか、そもそもマーズはこの状況で手出ししないとでも思っているのか。
「そこまでわかっていたのなら、どうして―そもそもジュピターと戦おうとしたの」
「・・・・・・・・・」
「ジュピターの手がわかっていたのなら、もうそれでよかったはずでしょう」
「・・・・・・・・・」
「あなたの腕を割った私と戦うならわかるのに―どうしてジュピターと」
「・・・ジュピターが、読めなかったから、かしら」
 やはり感情なく告げられる言葉。ここまでの話の上で、そこでジュピターが読めないというその発言はマーズには理解できなかった。そこまでジュピターの手が頭の中で完成していて、なぜジュピターを実際に死の間際まで追い詰め、自分もあれだけ体を痛めつける必要があったのかと。
「ジュピターは、優しいから、甘いから―私が自分から退くことを最後まで期待して、それがかなわなくて平衡感覚を奪ってそれで戦いを終わらせるつもりでいた―でも」
「だから・・・それをわかっていてあなたが」
「だから、そんな甘い人が、あんな風に噛み付かれて、無抵抗でいたら絶対に死んでしまうあの状況でどうするのかは、どれだけ考えてもわからなかった」
 わからなかった。理由は、それだけ。
 食い殺されゆく状況でジュピターがどういう行動に出るのか。普通なら抵抗するだろう。ジュピターの力なら、たとえ致命傷に近い傷をつけられていたあの状況でも、意識のほとんどないマーキュリーを振り払うことは可能だったはずなのに。
「ヴィーナスにジュピターの手を問われても、私は知性の戦士のくせに全くそれが読めなくて、あなたとの戦いが終わってから、その行動を振り返ってジュピターの手を考えて―それでも、耳を狙うのが限界でしょう。そこからさらに私が彼女を追い詰めたときにどう出るのか、ちゃんと私を倒せるのか―どうしてもわからなくて」
 普通はかかる火の粉は払うものだ。それが出来なければ死んでしまうしかない。だがそんな当たり前のことを確認すべく、マーキュリーは戦陣を敷いた。そしてジュピターは。
「・・・まさか異次元空間を破ろうとするなんて思わなかった」
 言われてみて、あの場では思わなかったことを、マーズは思う。
 食われている状況で雷を呼んだ行動も、普通に考えればそれをマーキュリーにぶつければよかったのだ。気が動転していたとしても、それなら、なおさら。自分の身を守るのは、本能だから。
 それでもジュピターは、本来人を、物を、技を封じ込める異次元空間そのものを、できるかどうかもわからないのに破壊しようとした。その行動は理屈では片付かない。当然、マーズにも理解できない。
 わかるのは、ジュピターはたとえ食い殺されそうになっても、マーキュリーを傷つけることはしなかったという事実。そして、マーキュリーの言葉を信じれば、先のマーズ戦でも、あの状況でマーズに危害を加えるような意図がなかったという現実。
 空間を破壊するほどの力と、それをあの場で実行する心構え、それなのに身内にどこまでも甘い保護の戦士の性質。
「だから、食べられなかった。でも、そういう人だってようやく納得できたから―今度彼女と共に戦うことが許されるなら、私は彼女の性質と心を守れる戦陣を敷く」
 だからといって、そんな戦いがあっていいのだろうか。食い殺すまでの過程を用意して、食い殺すのに失敗して―決着がつくなんて。
「だからって、どうして―食べたの。それがあなたの言う知性なの」
 食べるということは、マーズにとっては生をつなぐ行為であり、本能か、そういう嗜好かのどちらによる行動だと思っている。ましてや仲間を食べるなど、頭によぎることさえない。知性から最も遠い行動の一つだ。
 マーキュリーの言葉は確かに納得できるものがある。だが、ここまで冷静な思考回路を持っていて、戦いの場でなぜそんな行為に及んだのか。それだけの頭脳があったのなら、他にもっときれいな対処法があったのではないかと思ってしまう。
「・・・マーズは、ジュピターを食べること、できる?」
「は?」
 また、金属の擦れる音。マーキュリーは、質問に応じずマーズに逆に問うた。
「・・・なんで、そんなことを聞くの」
「なら質問を変えましょう。マーズ、私の指令で敵を食べることはできる?」
「・・・どういう意味?」
「たとえば妖魔と戦って、あなたが前に出ていて、私がその妖魔の喉笛に噛み付けば敵が倒せると指示して」
「・・・・・・・・・」
「ほかに手はない。あなたの体にはなんの被害もいかないことはわかっている。そうしなければ―と言われたら、食べられる?」
「・・・そんな、こと」
 言われてみて、怖気がした。想像もしたことなかった。そんな得体のしれないものを口に含むことなど。
 敵を倒すときは、技と肉体を使役して、骨も髪も体液の一滴も残さずに焼き尽くす―それがマーズの戦いだから。マーキュリーの指示だって、いつも、弱点や状況の情報の補足といったものだったから。
 だが、実際に戦いの場で、そういう命令が下されたとき、果たして。他に策がないと判断して、苦肉の策でそういう指示を下して、そうしなければ王国を守れないという現実を目の当たりにして。
 果たして、なんのためらいもなくその命令が果たせるか。
 できるかできないかと問われたら、やるしかない。王国の平和のためなら迷わない。だがそれは最終手段であり、実際に行為に及ぶ覚悟があっても、嫌悪を感じる心を止めることは、できない。
「妖魔に比べれば―と、言ってしまえば失礼だけど、ジュピターなら。仲間だから」
「・・・だから、ジュピターだから、食べた、と?」
「食べるしか手がないとわかっていて、食べても安全とわかっていれば―誰だって」
「・・・それでも、私は―ほかの手を探す」
「そうね。そもそも戦いの場で食べることを想像する人は、少ないもの―だから、あの状況で私ができることなんて、本当に体を起こして歯を食いしばるくらいが限界だと知っていても―ジュピターは、技ばかりに気を取られて私に食べられることを警戒していなかった」
 仲間だから食べた、という感覚はマーズには理解しがたいものだった。
 知性の戦士とは、マーズは、もっと無駄なことを排除する理知的な存在だと思っていた。それこそ自らは戦わず、戦士を駒のように操り、最小限の被害で食い止めるような、もっと、汚い策略を腹の下でめぐらせきれいに戦う存在だと。
 そう思っていた。それがいい悪いではなく、それこそが知性の戦士たる存在だと。
 それなのに、こんな単純なことを、理解しがたい感覚で平然と行えるマーキュリーは。
「あなたが言う私の知性なんて、その程度よ。ただ、人が少しだけ見落とすことをしただけで」
 マーキュリーは、どこまでも冷静な思考回路で、ためらわずにジュピターを食い殺すことにしたのだ。それが知性の戦士が言う、知性。
「あと、あなたを信頼していたから」
 沸騰寸前だったマーズは、はっと水を浴びせられたようにマーキュリーの言葉に意識が向いた。今まで理性的な言葉を使っていたくせに、ここで、思い出したような気軽さで信頼なんて言葉を出すなんて。
 マーキュリーの口から出ることでかえって安っぽく感じる、なんの知性も根拠も感じさせない、空気みたいに軽い信頼なんて言葉。
「最初からジュピターが私を倒すのならそれでよかった。私の読みが甘かっただけだから―私に食べられそうだったときに反撃したならそれも良かった。でも、やっぱりジュピターはそれをしなかったし、だったら私はジュピターを食べてしまうしかないけど―それでも」
「・・・それでも、なんなの」
「あの状況なら、あなたはジュピターを守るでしょう。だから」
「・・・・・・・・・」
「私は必ず失敗するとわかってたから―安心して、食べられたわ」
 マーキュリーは轡の下で歪に微笑む。チェーンがちゃらちゃらと擦れる音がする。微笑みも音も、この場に似合わないものだった。
 その言葉から察するに、マーキュリーは行為には及んでもジュピターを殺す気などなかったということだ。しかも、マーズというギャラリーに対する、信頼なんてなんのあてにもならないものに戦いの結末を託したという、その笑顔。
 それでも―とマーズは思った。マーキュリーに自分の内心が言い当てられるのが不愉快だという子どもじみた理由ではない。あの時の行動は、自分でさえわからないのだ。
「・・・ジュピターを助けたわけじゃない」
「そうね。結果的にそうなっただけで・・・それで、私も助かった」
「・・・あなたを助けたわけでもない」
「じゃあ、私からも聞きたいことがある」
 チェーンが外れていく。狂犬が解き放たれるのを目前に、ぞわぞわした感覚にマーズは震える。本物の狂犬の方が、水を嫌う感覚があるぶんまだまともかもしれない、とさえ思う。
 まだ体に絡んだチェーンをそのままに、マーキュリーはゆっくり体を起こしてマーズに手を伸ばす。顔のすぐそばに轡越しの顔を持ってくる。この光景は、ジュピターに噛み付いた時と同じ仕草だった。既視感にマーズは息を飲む。
 マーキュリーはすでに三度目の仕草に慣れたのか、それでも一度目のヴィーナスの唇、ジュピターの喉とは違う、マーズの耳元に顔を寄せる。誰でも手に入る身体的特徴は、仲間全員分頭に詰め込んである。それに、練習のときとと本番のときとは違い、今度は平衡感覚もはっきりしているから、頭を使わなくても唇を寄せる場所を間違えることはない。
 そしてマーキュリーは、マーズに囁いた。
「どうして、私のピアスを撃ったの?」



 頬を平手で打たれたジュピターは、身じろぎもしなかった。しかし頬の傷が開いたのか、顔の絆創膏から血が滲んだ。ヴィーナスはもう一発打った。高い音が響いて、絆創膏そのものが吹き飛んだ。それでも悲しそうに伏せられた目は変わらない。
 正直な話、マーキュリーがジュピターを食い殺そうが、マーズがマーキュリーを撃ち殺そうが、そんなことはヴィーナスの知ったことではない。驚いて、仲間を失った喪失感に泣いて―それだけのことだ。泣くのに飽きたころには次の守護神がやって来るだろう。
 だがジュピターは空間そのものを破壊しようとした。それが何を意味するのか―わかっていての行動なら、もう彼女を守護神と呼ぶことはできない。
「あなたがやったのは反逆行為よ」
 破られないことを前提に作られた異次元空間を破壊するのは、太陽系最大の惑星を守護に持つ戦士にふさわしい力だ。だがそれほどの力が外部に漏れたとき、確実に王国のどこかに被害が行くだろう。そんなこともわからないほど頭が軽いとは思っていなかったのに。
 あの戦いは、マーキュリーを倒してしまえば簡単についた決着だった。なのにジュピターは、優しいといった生温い感情では許されない行動を取った。
「・・・なにか言いなさいよ。言い訳を聞くためにわざわざ生かしといたんだから」
 そう言って、もう一度殴る。ジュピターの口の端に血が滲んだ。
 あの戦いの後、最後に立っていたのはジュピターだった。顔から血をかぶったみたいになって、首からの出血も止まらないまま、それでも泣きながら意識を失ったマーキュリーを抱え立っていた。駆け寄ったヴィーナスにマーキュリーを託し、そのまま意識を失った。そして、今。
 殴っても殴っても無反応のジュピターにヴィーナスは業を煮やし、平手を拳に変えた。骨と骨のぶつかる音がした。さすがによろめいたジュピターの、包帯を巻いた喉に拳を埋めた。包帯が裂けて血が溢れた。ヴィーナスの拳に顔に返り血が飛ぶ。
 それでも、声は出ない。
「言いたいことがないなら・・・死んでしまいなさい!」
 殊更に力を込めて、拳を放つ。
 ヴィーナスが言い放った言葉にようやく反応を見せたジュピターは、拳を手のひらでしっかり受け止める。ぎりぎりとヴィーナスの手を握りながら、ジュピターは空いた手で口元を押さえる。ごぼごぼと喘ぐような咳をして、真っ赤な血を吐いた。
 だが、瞳も心も少しも揺れてはいない。
 ただ、燃えるような目をしている。戦闘中でも決して見せなかった、その表情。ありふれた怒りともありふれた敵に見せるものとも違う、その、静かで激しい熱と、熱が似合わない表情に佇まい。
 その表情は、ヴィーナスが初めて見るものだった。それを見てマーキュリーの燃えるような目も思い出したが、マーキュリーとも違う。
 青は最も熱の低い色だが、緑は最も熱から遠い色だ。だからこその違和感なのかもしれない。いつもは穏やかな緑が、どくどくと包帯を汚す血に似た色に見える。
「・・・っこの!」
 零距離から、ヴィーナスはジュピターの腹部に拳を放つ。しかしそれは雷のような速さで受け止められ、ほんの少し前まで生死の境をさまよっていたとは思えないほどの力で拳を握りつぶされる。ヴィーナスは苦痛より驚きで顔を歪めるが、戦っている以上そんなことに意識はいかない。両の拳を塞がれたままヴィーナスはジュピターに蹴りを放つが、それもまたあっさりと拳を離した手で受け止められる。
 対マーズの時のようにへらへらしているわけでも、対マーキュリーの時のように惑っているわけでもないその応手。ようやく見た、ジュピターの戦士としての顔だった。
「・・・っ今更、そんな顔したって!」
 ヴィーナスは、受け止められた足を軸に体を浮かせもう片方の足でジュピターの喉を蹴飛ばし、その勢いでくるりと回って、着地するまでの瞬間ジュピターを睨み次の手を考える。
 チェーンは、また電撃をされたら厄介だ。追撃するかジュピターの手を見るか―ジュピターはのけぞりよろめきながら更に血を吐いたが、しかしヴィーナスを深追いすることもなく立っている。それでも目線をヴィーナスから外さないのは、まるで先の戦いのマーキュリーのようだ。1秒にも満たないこの間にヴィーナスは追撃を決める。
 だが着地の瞬間、恐ろしいほどの速さでジュピターの手が動く。足に絡むなにかにバランスを崩す。ジュピターの喉に巻いていたはずの包帯がヴィーナスの足に絡み、捉えていた。
 血を吸って重くなった包帯は、チェーンの役割を果たす。片腕で何の重さも感じないように包帯を引く手にヴィーナスは引っ張られる。距離が詰まる。肩に手が伸びジュピターに押し倒される。
 背中にゆるい衝撃を感じながら、ヴィーナスは自分の肩からみしみしと骨が軋む音を聞いた。顔にぽたぽたと水滴が落ちてきて、血だと思った。ジュピターから反撃が来ると思った。この状況を乗り切る手を取ろうとした。
 だが、そんなヴィーナスの思考回路をすべて打ち消した―ジュピターは、ぼろぼろと泣いていたから。
「あ・・・ぁ、ぁ・・・」
 泣き声なのか、何か言おうとして意味のない音になっているのかはわからない。
 空気の漏れた音を吐き出しながら涙を流すジュピターに、闘志は感じない。そのあまりの悲痛さと、なんの飾り気もない泣き顔にヴィーナスの心は鎮まっていく。
 子どものように泣くジュピターに向かい大きなため息を吐き、ヴィーナスは問うた。
「答えなさい。どうして、マーキュリーを倒さずに空間を破壊しようとしたの」
「・・・・・・・・・」
「ああすればマーズが助けてくれるとでも思ってた?」
「・・・マーズ、は、あたしを、助けたり・・・しない」
「どうして。結局はマーズが―」
「マーズは・・・そのときに、正しいと思ったことを・・・する、だけだ」
 ジュピターの迷いない言葉に、ふとヴィーナスは先の戦いでのマーズの行動を思う。
 自分と真っ直ぐ向き合わないジュピターに憤ったり、一対一の構図でしか戦わなかったり、おとなしくギャラリーでいるかと思ったら、ジュピターを挑発するマーキュリーの行為に怒りを覚えていたり。
 ヴィーナスは、目先の感情で行動するマーズの直情さを彼女の欠点として見ていた。だが、思えば彼女は誰の立場にも寄り添っておらず、その場で自分の意思で正しい振る舞いをした、とも解釈できるのだ。
 そして、マーズの最後の一撃。あの危険で不安定な空間内で、自分の守りをも完全に捨て、針の穴のように小さな的をぶち抜くというずば抜けた感覚と集中力による攻撃。これは誰にも真似できないマーズの性質だ。事実、それで事は収まり、守護神は全員命が繋がり今に至っている。
「・・・なら、どうして」
「・・・・・・あたしは。ああ、すれば、マーキュリー・・・やめてくれると・・・思った」
「なにを?」
「・・・あたし、を、かむ、の」
 言葉はやはり、声には届かない微かなもの。空気が擦れるような音で、血の絡んだ雑音も混じってこの距離でなければ届かない。だからジュピターの言葉は、確かにヴィーナスに届いていた。
「・・・ぜ、ったいに、マーキュリーは、なにもかんがえずに、あんなことするはずない」
 その言葉は、悲痛だがはっきりと聞こえた。ヴィーナスははっとなった。
 マーキュリーが、無意識にあんな真似をするはずがない、そうジュピターが信じきる知性の戦士の行動。無意識の行動でなく、意図して用意した行動ならば、マーキュリーが退かざるを得ない状況を作って対応すればいい―
 ジュピターは最初から、マーキュリーが自分から退くことを望んでいた。だから、マーキュリーが食い殺すことをやめなければ、ジュピターは異次元空間を破って王国に被害を出す―と、そういう状況を作った。
 信頼による非言語的な駆け引き。食べられる最中にありながら、なおも相手を信頼した、と言いきるジュピター。それはヴィーナスがずっと見たかったジュピターの心の内だった。
 だがそれはジュピターが、守護神でありながら王国の平和とマーキュリーの命を天秤にかけたとはっきり自分で認めたことでもあった。それこそ、無意識でもやけくそでもなく自分の意志で、と。
 無意識の行為なら二流以下の戦士と鼻で笑って、紙屑のように捨てることも出来たのに。しかし意図的であったなら尚更たちが悪い。
 王国の恒久の平和と安全のためならば、守護神の命など羽より軽くなくてはいけないはず。だからやはりあの場でジュピターは、自分の命を諦めるか、それができないならマーキュリーを明確な意思と覚悟で殺すべきであったのだ。
 だからジュピターがヴィーナスには許せなかった。だが、ジュピターの次の言葉はまだ続いていた。
「・・・ヴィーナスを、信じて、た、から」
「え?」
 その言葉に、ヴィーナスは耳を疑った。本気で捉え違いをしているのではないかと思った。だってあの戦いをリーダーである自分はどこまでも傍観し、戦いを止めたのも結局はマーズの技だったから。
 ジュピターはまた血を吐いた。片手で吐血を受け止めるため、ヴィーナスの拘束が緩む。しかしヴィーナスは逃げようとはしなかった。寝そべったまま、黙って話を聞くことを決めていた。
「ヴィーナスが、いたから・・・なにがあっても、あんたがいたら、あたしがなにしても、ぜったいに、王国には―だから、戦えた」
「・・・なによそれ」
「ヴィーナスが・・・リーダーだから」
 ジュピターの言うとおり、確かにヴィーナスはリーダーとして、あの状況を止めようとした。ジュピターとマーキュリーの、自分の命は二の次だった。王国に被害が起こることはなにがあっても避けなければいけない、その一念で雷渦巻くジュピターの圏内に踏み込んだ。リーダーだから、自分がやらなければ、と思った。ジュピターの思うとおりの行動を起こしていた。
 マーズの技が一足先にマーキュリーのピアスをぶち抜いて空間そのものを破壊しなければ、ジュピターは放電をやめることなく、マーキュリーかヴィーナスどちらかに殺されている事態だったのだ。
 ということはマーズも見抜いていたのかもしれない。空間が破壊されることによって、ジュピターは放電をやめなければならず、しかしマーキュリーはジュピターが放電をやめる前にジュピターを食い殺すことをやめなければ放電が確実に外にあふれる。
 ヴィーナスという後ろ盾によって起こした駆け引きを、マーズという第三者の介入によって、二人はそろって矛を収めた。そして―戦いは終わった。
「・・・なら、あの状況であたしがいなければ、あなたはマーキュリーを殺したの」
 ヴィーナスの問いに、ジュピターは首を少しだけ横に振った。少しも迷いのない行動だった。
「・・・マーキュリーは、ヴィーナスなしであんな真似をしない」
「答えになってないわ」
「あんたなしであんな状況をつくるはずがない・・・なにもかんがえてないはずがないんだ、マーキュリーが」
「・・・どうして」
「ヴィーナスがリーダーだから・・・リーダーの責任を負ってるから、だからなにがあってもあんたがいれば、マーキュリーもマーズも・・・あたしも、大切なものも守れる」
 やはり、どうあっても、仲間を倒す意思というものがジュピターにはないらしい。どうしてそこまでマーキュリーを信頼するのか、それはヴィーナスにはわからない。先のマーズ戦でマーズをマーキュリーが体を張って止めたからかもしれないし、ずば抜けた知性を信頼していたのかもしれないし、そもそも仲間を疑わないたちなのかもしれない。
 だが聞いたところで仕様がないともヴィーナスは思う。信頼など非言語的なものだ。
 実際、信頼なんて脆いものにすがって、マーキュリーに抵抗しなかったジュピター。そして今こうやって詰られて殴られて、それでも涙をいっぱいにためて全員の生還を安堵している。
 このやり取りで、ようやく見せたジュピターの迷いもなさに、ヴィーナスは顔には出さずに安堵する。今ヴィーナスと戦ったときさえ、本気ではあったが結局直接手を上げることはなかった―守護戦士の中でも保護の戦士の立場に位置づけられる、その戦士の戦術と戦略。
 それに本人に意図があるのかないのかは知らないが、あの、マーズがマーキュリーの頭部を打ち抜いたとき、掠めるだけでも首がもげてしまうかもしれないあの技で、ジュピターは、マーキュリーの後頭部をしっかり抱え、守っていたのをヴィーナスは目の前で見ていた。
 大切なもの『も』、という言葉。大切なんてそんな言葉では済まない、守護神の存在意義であるプリンセスと王国の平和。それを守る守護神のリーダーがヴィーナスである以上、それ以下の大切なものもジュピターは迷わず守ることができる。
 彼女が王国の守護を忘れたということではない、それでいてあの戦略。そこで、ようやくヴィーナスにはジュピターの心が見えた気がした。
 上っ面でいつ化けの皮がはがれるかと恐れていた優しさは、ほんとうに誰にも届かないほどに深い。いつだって、誰かを守るために、彼女は戦うのだ。
 ぼろぼろと泣くジュピターの涙を、ヴィーナスは下から拭う。友人が泣いているのなら慰める、それはヴィーナスにとっては自然な行動だった。四守護神のリーダーで、なんと言っても愛の女神なのだ。
「・・・ばかね」
 そこでようやくヴィーナスは微笑む。仲間を、友人を失って、涙が枯れるほどに泣かなければいけない事態を、どうやら回避できたようだったから。



 マーキュリーの問いに、マーズは固まった。頭を使うことは苦手ではないはずだが、答えが言葉で伝えられない。
 あのとき、文字通りジュピターの息の根を止めようとしていたマーキュリーを、撃たなくては、と本能が命じた。そこにジュピターを救わなければ、といった使命感などなかった。あの場で一か所にとどまるのが危険だとも、今となっては思うのに、自分の身を守らなければならないという当たり前のことさえも脳から失せていた。
「・・・わからない」
「私を撃ち殺す方がずっと簡単だったし、確実だったし、安全はずだったはずなのに」
「・・・・・・・・・」
「ジュピターの頭をを蹴飛ばして踏みつけて―あれだけ、あなたを挑発したから。だから殺されないまでも、腕の一本は持って行かれるかと思っていた」
 あのジュピターを戦わせるきっかけの行為は、実はマーズがいざという時に迷わずにマーキュリーを倒せるようにと、マーズに向けた行為であったこととマーキュリーは言う。しかしその行為と、腕の一本を持って行かれると平然と言うマーキュリーの感覚は、マーズには理解できない。
 ただ、理解できないと言えば自分の行動もそうなのだ。足元もターゲットも安定していない空間の中、マーキュリーのピアスをぶち抜いてしまえばいい、と理由もなく思った。敢えてピアスを撃ちぬく理由も考えなかったし、ほんの少しでも技がずれたら二人とも撃ち殺してしまうかもしれない行為のはずなのに、不安もなかった。やるべきだと思った。それこそ、本能でものを食べるみたいな当たり前さで。
 それがいわゆる、ずば抜けた第六感によるものなのかはわからない。ただ、頭で考えれば普通は思いもつかない行動をマーズはあの場で起こした。そして、当然のようにマーキュリーのピアスをぶち抜いた。
 あの場でピアスを破壊することによって、マーズはジュピターより先に異次元空間を破った。それによりジュピターは放電をやめなければならず、マーキュリーはジュピターの意思とは関係なく破られた空間の中で、ジュピターを食べ続けるわけにはいかなかった。
 結局あの場を収めたのは、ジュピターの優しさでもマーキュリーの知性でもヴィーナスの責任感でもない、なんの考えもないマーズの単純な一撃だった。
「あなたの行動は、私には理解できないわ。私にだって、第六感はないわけじゃないんでしょうけど、どうしても頭で考えて、もっと確実な手を考えてしまう」
「・・・・・・・・・」
「私のことがわからないみたいな顔をしているけど、それはお互い様でしょう、マーズ」
 轡越しに囁かれる声。また、ぱきり、とどこかで音がした。ぞくぞくと体が震える。それでも、もうそれに屈することはなかった。
 マーキュリーが理解できなかろうが、そんなことは関係ない。あのとき技を放った瞬間から、マーズの中でその感覚は残り続けている。戦いの場で、意識が限界まで絞られていく感覚。単純な怒りや衝動を超えたところに、知性では説明もつかない、戦場には命取りにさえなる愚直さの果て、誰にも届かないマーズの特性は確かにあった。そしてこの感覚を掴んだ自分は確かに強くなった。次は、もっと強くなる。
 それが戦いの戦士の戦術と戦略。正しいと信じたことに、守りすら捨てて前に進む。
「・・・それでも、私はそうするべきだと思った。理由なんてないし、あなたを納得させるような言葉も用意できない・・・でも」
 理由を持ち得ていないから、説得することも出来ない。だけど変えることはできない。これから同じようなことが起こったときだって、きっと。
 マーズの言った、でも、の続きはマーキュリーが継いだ。
「でも、私はあなたなら一番公正な手を使うって信じてた」
「・・・どうして」
「あなたが私の腕を割ったとき、あなたの力なら私の体なんて後ろのヴィーナスやジュピターごと簡単に吹っ飛ばせたはずなのに―氷の力で防御したとはいえ―骨を割る力は、がむしゃらな技による破壊力とは違う。私だけを、まっすぐで、できるだけ影響のない力で壊そうとした―だから、あなたは戦いの場で信じるに値する人だと思った」
 あの状況で煮え立っていたマーズが、マーキュリーの腕をぶち割った事実は、普通ならマーキュリーの腕を縦に割るほどのぶれのない破壊力ととらえるのが妥当。だがそのまっすぐさに、マーキュリーは、たとえどんな精神状態でもほかのものに被害を与えない潔癖さを見出した。
 王国に被害が行かないようにする、王国を守るというのは守護神の誰もが譲ることのできない礎だ。それを当然のように行動に組み込んだ上で、あの状況で他者の介入を嫌ったマーズの行動に公明正大さをマーキュリーは見た。そして心うちが読めないジュピターに戦いを挑んで、マーズのまっすぐさに結末をゆだねた。
 命を救う、ではなく公正な手を使うという言葉をマーキュリーは選んだ。直情的なのは、自分の身を顧みずその場で客観的に正しいと思えたことをする、とマーズを評価した。
 それをマーキュリーは自分を撃つ行為につながると思っていたが、マーズはマーキュリーが思った以上に潔癖で、公正で、持って生まれた能力を最大限に生かし、結果あの場でマーキュリーのピアスを撃ちぬくという離れ技を見せた。
 これはマーキュリーに取って嬉しい誤算だった。だから今こうやってマーズと話しているのが嬉しくて、ずっと微笑んでいた。
「・・・信じるなんて・・・知性の戦士のくせに」
「そうね、おかしいわよね・・・でも、そう思ったのよ」
 頭では、やはりマーズはマーキュリーに憤っている。それでも、あの場で限界を超える集中力とその時に掴んだ感覚がマーキュリーの行動を認めさせている。戦士としての一つの壁を超えたものが確かにある。マーキュリーがあの状況を作らなければ、この感覚を掴むことはできなかった。
「ありがとう」
 ジュピターと似た口調と表情で、マーキュリーは微笑む。
 ずば抜けた感覚と飛び抜けた知性。どちらも違うところの果てにある。しかし理屈であれ感覚であれ、自分の信じたものに自分の身を顧みず行動を起こしたという点だけは共有し、その結果が今二人の中にある。
 マーズはふい、と猫のようにマーキュリーにそっぽを向いた。じゃら、と鎖が落ちる音がした。拘束を解いたマーキュリーは立ち上がり、ぱしん、とセーラーコスチュームに装いを変える。
 轡は外れていない。だがそれ以外にもいつもの姿とは違う―マーズはすぐに気付いた。短い髪の裾から見える、マーズがぶち抜いたはずのピアスは、石が三つになっていた。
「・・・いつの間に」
 なにが、とはマーズは言わない。だがマーキュリーにはそれで通じたらしい。
「私も、破られたものをそのままにしてるわけにはいかない」
 三つの石がどういう役目を果たすのか、マーズにはわからない。ただ、彼女もまた、この戦いでなにかを掴んだのかもしれない。目を細めるマーズに、マーキュリーはやはりなにごともないようにつぶやいた。
「それに、縛られてる間、ただ縄解きしてるだけっていうのもなんだし」
「普通なにもさせないために縛っておくんじゃ」
「そうなの?」
 そこできょとんとした表情がマーズの気に障る。だが、そんなマーズを気にせずマーキュリーは静かに目を伏せる。
「ほんとうにヴィーナスが私になにもさせない気なら、そもそも生かしておかないだろうし」
「なにその考え方」
「だいたいあの人、私に普通なんて期待してないだろうし」
「期待の問題なの、それ」
「それでも―みんなの背中を預かる以上、私は置いて行かれるわけにはいかない」
 鎖の束を跨ぎながら、マーキュリーはベッドを見つめる。本来はヴィーナスの技であるチェーンは、マーキュリーの体から完全に離れた瞬間に、空気に溶けるように消えた。それをほんの少し寂しげな目で見るマーキュリーの横顔を見て、何の根拠もなくマーズは思う。
 マーキュリーはヴィーナスの問いに答えられないと言っていた。それでジュピターを知りたいと言った。マーズを信頼していると言った。だからあんな風に戦った。ヴィーナスはそれを最後まで客観的に見ていた。
 なら、きっと、マーキュリーは、そもそも―
「・・・あなたって人は」
「・・・え?」
 マーズの言葉にほんの少しだけ惑いの色を見せるマーキュリーを見て、今更そんな顔をしたって、とマーズは思う。大体、いくら理屈をこねられたってマーキュリーに腹が立っていることには変わりない。言ってやりたいことも湧いた。緊縛状態ならともかく、今は双方体に自由がある。マーキュリーが言う、公正な状態だ。
 マーズの心に夕立前の空のように黒い感情が膨れ上がる。振り向いて、マーズは矢のような速さで轡を手のひら全体で掴んだ。
「・・・!」
 敢えて気配を読ませなかったとはいえ、簡単に顔を捉えられたのはマーキュリーが言う信頼というやつなのか、マーキュリーはジュピター戦で見せた肉弾戦も氷技のような抵抗をするわけでもない。マーズは、わしづかみにした轡を破壊する。
 砕け散る金属片。ようやく見えたマーキュリーの表情を確認して、マーズはマーキュリーの顔を捉えたまま絆創膏の中心に渾身のデコピンを食らわせた。
「ぐっ・・・!」
 驚いてのけぞるマーキュリーの動きを脳裏に焼き付ける。苦痛に顔を歪めるその表情は戦っていた時よりもまともだ、と思った。傷があるところだからただのデコピンもさぞ痛いだろう。だが、それくらいはしてもいい気がする、とマーズは思う。
「ヘタレ」
 マーキュリーは、ブレーンとしてジュピターを信頼したくて、マーズを信頼していて―そしてリーダーであるヴィーナスに信頼されたかったのだ。だからああやって戦った。そこにはもちろん、ブレーンとしての意地もあったのだろうけど。
 それだけ言って、マーズは背を向ける。いろいろ思ったが、結局、言ってなおかつマーキュリーにちゃんと意思を伝えられる言葉なんてこの程度だ。ヴィーナスの気持ちが、わかりたくはないが今はわかる。
 それを言った後のマーキュリーの表情は見ないことにした。このくらいの暴言で、たとえ隙だらけの背中を見せても食い殺されることはないだろう。それくらいには信頼している―背中を預けるとはそういうことだ。
「ジュピターとヴィーナスを迎えに行くから、ついてきて」
 マーズは、マーキュリーに口調を上げずに言った。ヴィーナスの命令は、ただマーキュリーを見張れというだけだ。縄を解くのを止めろとも部屋から出すなとも言われていない。
「ヴィーナスがジュピターのところにいる。中から開けられないのに・・・あなたが開けなさい」
「・・・でも」
「ここから出たあなたにヴィーナスがどうするかは私の知ったことじゃないわ。でも、行ってジュピターに謝りなさい」
「・・・・・・・・・」
「許してくれるから」
「・・・ええ」
 これもいわゆる信頼というやつか、と思ってマーズは下らない、と脳内で打ち消した。でも、それでもきっとジュピターは許してしまうのがわかっている。だからこそ腹立たしい気持ちもある。やっぱりデコピンの一つくらいは許されるはずだ。
「・・・マーズもついてきてくれるのね」
「あなたから目を離すなって命令だからよ」
「・・・ありがとう」
 マーズの背後で動く気配が隣に並ぶ。慌ててついてくる気配は子犬のようだ、と思って舌打ちしたくなった。顔を見たらほんとうに置いて行かれそうな子犬のような顔をしていて、マーズは不覚にも苦笑いをした。
 急く足に、二人のセーラーカラーが翻る。



 部屋のロックの解除を受け、ジュピターを肩で支えたヴィーナスが出口に向かう。マーズがジュピターに駆け寄り体を支える。マーキュリーがジュピターに声をかけ、ジュピターがマーキュリーに安堵の笑みを向ける。
 
 先の戦い以来ようやく全員で顔を合わせたその皆の、それぞれに向ける表情の違いにヴィーナスはリーダーとして笑んだ。誰ひとり欠けても終わらない戦いで、それぞれが信頼を勝ち得た。
 今後もこの仲間たちで戦うことを象徴するような光景―守護神は、四人。
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