
天岩戸神社から徒歩10分ほどのところにある、天安河原(あまのやすかわら)。
天照大神が天岩戸にひきこもり、天地暗黒となった際、やおよろずの神々たちが集まって、
「どうすっぺ」と相談したところ、となっている。
高千穂に入ってからさまざまな神話や伝説の欠片を見聞きし、夜神楽に魅せられ、
おぼろげながら自然の中に息づく「神様」の存在を感じていたところだったが、
この天安河原ほど顕著に、それを感じた場所はない。
森の中を抜け、苔むした岩にかかる石橋を渡り、洞窟が近付くにつれ、そこは確かに神様の領域だった。
社の周辺には夥しい数の、積み上げられた小石の山、山、山。
祈願するひとびとの手によって積まれたものだということだが、それにしても、どうしたらここまでひとつ残らず積み上げるような
光景が出来上がるのか、神秘的な感じがする。
石の山は洞窟の中だけでなく、川の流れの中に佇む岩の上にも。
ここの石の山とはまったく関係がないかもしれないが、賽の河原の石積みの話を思い出した。
親より先に死んだ子は、親不幸を償うために賽の河原で石を積む。
でも河原には意地悪な鬼がいて、いくら積んでも、せっかく積み上げた石の塔を壊してしまう。(川の水や海の波のことか)
それでも子供は泣きながら何度も何度も石を積み続けるのだという。
天安河原の石の塔がどのようにして出来上がったのか神秘的だけれども、それを見守る神様が、「きっとこの場所にいる」と感じた。
自分はいわゆる「パワースポットブーム」というのにまったく興味がなかったけれども、
パワースポットと呼ばれる場所には、高千穂に来てからいろいろ本も読んでみたけれど、調べれば調べるほど複雑で奥深い、
風水的なそれなりの理由があるのだった。
鍵となるのは、水脈と鉱脈。
山頂には神社が祭られていることが多いが、このことも風水と無関係ではない。
大地のエネルギーの流れを中国風水で「竜脈」といい、山の連なりそのものを竜脈とみなす。
山頂や尾根に由緒ある神社や遺跡、あるいは巨石などが祭られていることがあり、これを結んでいくと、一直線上に並ぶという。
同時にこの竜脈の走っているところ、水脈あり。
一定の法則を持って結ばれるラインの交差するところが「竜穴」と呼ばれる結節点で、東洋医学における、
人体の「ツボ」のようなものだという。
これらの竜脈、水脈、および竜穴(ツボ)を一直線に結んでいくと、(西日本)
高千穂(宮崎)→阿蘇山(熊本)→祖母山(大分)→臼杵石仏(大分)→石鎚山(愛媛)→剣山(徳島)→高野山(和歌山)
→三輪山(奈良)→伊勢神宮(三重県)→豊川稲荷(愛知)→分杭峠(長野)→諏訪大社本宮(長野)
となる。これらがパワースポットと呼ばれる場所。(※地域文化出版『高千穂のパワースポット』参照)
(残念ながら、西日本部分しか記載されていませんでした)
ところで、神様とはいったいなにか。
この本によれば、【神とは、姿、形なき、万物を司る絶対的なもので、自然の織りなす森羅万象であって、
漠然としたものですが、神の実体といいましょうか、実相といいましょうか、これをあえて物質、感触あるものとしてあげるなら、
それは「水」という液体であり、視覚としてとらえうるものが「霧」であり、「雲」ということになるでしょう。(中略)
パワースポットや聖地といわれるところで写真を撮ると、時折『オーブ』(たまゆら)といわれる円形の半透明な物体や、
虹のような光のシャワーが写る事があります。これこそが、神の物質化現象と考えてよいと思います。】
この一文を見て、ちょっとヒヤッというか、思い当たることがあったので、驚いた。
前日に訪れていた高千穂神社で写した写真。(下)
一文にもあるように、「漠然とした」概念なのでなんともいえませんが、この場所以外ではこの円形の物体は写っていなかったので。
そして、私が「神様いるー!」と五感で感じた天安河原、姿形はないけれども、そこも確かに神の領域であったかもしれないと思う。
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