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ムーミンパパの気まぐれ日記

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雨の降る夜は

2008-10-01 | column
 別におセンチになる必要もないのだが、というか、そもそも「おセンチ」なんて言葉は今どき死語なのかもしれないが、それでも雨が降る日は物思いに耽るものである。

 いつの間にか夏が過ぎたと思っていたら、うっかり半袖でいようものなら風邪をひきそうなくらいの寒さに少し肩をすぼめながら歩いて行く。台風が接近しているのだから、もう少しざあざあと降ってもよさそうなものだが、どういうわけだか細かい雨粒が風に舞いながら服をじっとりと濡らしていく。十分に雨に濡れたアスファルト舗装はいつにも増して黒い。それは夜がもたらす暗闇だけではないどこか吸い込まれそうな黒さである。街灯や電照広告の反射はあるのだから、水たまりは物理的な意味で黒いわけではない。ところどころに見える青や赤の反射光は信号の点滅だし、アスファルトと言ったって横断歩道や路側帯の白いペイントがあちこちにあるのだから、そもそも道路が黒いなんてのは観念が作り出した幻想にしか過ぎないのではないだろうか。どこかで聞いたことのある流行りのシンガーソングライターなら都会の夜はきらめいているとでも歌うのかもしれないが、日々の暮らしの中で足元を見るだけのサラリーマンにはそんな綺麗な表現は似合わない。光っているところは水たまりだから、慎重に避けて歩く。ただそれだけの動作を続けながら、夜道をたどっていく。網膜に映っている光は街灯でも信号でもなく、なにかの記号でしかない。その感触を壊す何かがあるわけでもない。ただそれだけのはずなのに、何かに触発されたわけでもなく、何かが引き金を引くわけでもないのに、急に頭の中で意味を持ち始める。この雨に煙る向こう側にはなにがあるのか、道の暗さの中にある光は何かを示しているのか。答えのない問いかけに、自ら答えを探すこともない。ただひたすらに疑問だけが頭の中をかけめぐる。それを感傷というのが正しい表現なのかは分からないけれど、歩みを止めることもなく、傘が守っていてくれる範囲だけが自分の領土のようにして、本当に取りとめもなくいろいろな想いを持った自分が歩いて行く。大好きだったあの子のこと、今はいなくなった大切だったあの人のこと、そしてすべての人と同じようにいつかは消えていく自分のこと。なにかの想いのみが自分の存在のすべてならば、この雨の中にこそ自分はいるんじゃないだろうか。哲学なんかわからないし、詩人でもない。そんな自分でも雨の夜にはこんなことを考えてみる。

 涼しくなると体より頭が動くようになるのだろう。いつものように根拠のない仮説でしかないけれど。

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