昭和11年に建てられた表座敷10畳二間はお助け普請です
不況の嵐の中、沢山の人に少しでも多く仕事を与えるために
見た目は質素ですが手間 暇のかかる素材で
注文いっぱい付けて日にちをかけて作りました
で
国指定登録有形文化財となりました
障子の桟は「さるぼう?」東大寺等と同じ技術
襖は無地で建築当寺のままですが 引き手は七宝焼き
天井は屋久杉一本を板にして10畳の部屋に使う
欄間は桐の一枚板に鳳凰のみ彫り、彫り師の銘がある
床板は、欅の一枚板で 反りもなく 違い棚は床板三枚分の特殊な造り
床の横の明り窓は一枚の板から模様の桟を彫り出しています
床柱は四方柾目の杉
巨木の杉の芯まで虫も入らず髄が空洞でなく
綺麗な巨木の真っ芯だけから 切り出した柱
材料など探すのにも運ぶのにも細工するにも
多数の職人の生活を支えました 失業対策事業の普請です
で
お助け普請
今の時代なら奇特な財閥や社長さんは少ない?居る?居ない?
近江八幡の近江商人の家は
外から見える所へお金を張り込んで豪華に見せたそうですが
三方よしの心
日野商人の心得
売り手よし 買い手よし 世間よし
日野の近江商人は 質素倹約を旨とし
目立たないように お金に糸目をつけず
自分も儲け お客も儲け 村の人たちも儲ける
を 心がけ 巨額の富と財産を築いたそうです
不況の嵐の中、沢山の人に少しでも多く仕事を与えるために
見た目は質素ですが手間 暇のかかる素材で
注文いっぱい付けて日にちをかけて作りました
で
国指定登録有形文化財となりました
障子の桟は「さるぼう?」東大寺等と同じ技術
襖は無地で建築当寺のままですが 引き手は七宝焼き
天井は屋久杉一本を板にして10畳の部屋に使う
欄間は桐の一枚板に鳳凰のみ彫り、彫り師の銘がある
床板は、欅の一枚板で 反りもなく 違い棚は床板三枚分の特殊な造り
床の横の明り窓は一枚の板から模様の桟を彫り出しています
床柱は四方柾目の杉
巨木の杉の芯まで虫も入らず髄が空洞でなく
綺麗な巨木の真っ芯だけから 切り出した柱
材料など探すのにも運ぶのにも細工するにも
多数の職人の生活を支えました 失業対策事業の普請です
で
お助け普請
今の時代なら奇特な財閥や社長さんは少ない?居る?居ない?
近江八幡の近江商人の家は
外から見える所へお金を張り込んで豪華に見せたそうですが
三方よしの心
日野商人の心得
売り手よし 買い手よし 世間よし
日野の近江商人は 質素倹約を旨とし
目立たないように お金に糸目をつけず
自分も儲け お客も儲け 村の人たちも儲ける
を 心がけ 巨額の富と財産を築いたそうです
日野椀~~装飾の無い厚くて丈夫で三つの入れ子の蓋つき椀を
日本じゅうに行商をしたのが近江商人の始まり
かさ張る椀から薬へと商品は代わり
万病観応丸を売りさばき大きくなりました
子供の頃に飲んでいた六神丸もありました
正倉院にある薬石と同じ三種類の石です
二宮金次郎の直筆の領収書もありました
話は外れますが
日野小学校には日本で現存する数少ない
日米友好使節の「青い目の人形」が保存されているそう
日本じゅうに行商をしたのが近江商人の始まり
かさ張る椀から薬へと商品は代わり
万病観応丸を売りさばき大きくなりました
子供の頃に飲んでいた六神丸もありました
正倉院にある薬石と同じ三種類の石です
二宮金次郎の直筆の領収書もありました
話は外れますが
日野小学校には日本で現存する数少ない
日米友好使節の「青い目の人形」が保存されているそう
聖徳太子が近江に48の寺院の建立を発願しましたが
満願のお寺が当寺で本願成就寺と言いましたが
栄枯盛衰を繰り返し400年後に阿育王塔(あしょかおうとう)が土中より出現し
阿育王山 石塔寺として一条天皇が七堂伽藍を建立し隆盛を極め
鎌倉時代には仏舎利塔である阿育王塔の回りに五輪塔や石仏を寄進した
満願のお寺が当寺で本願成就寺と言いましたが
栄枯盛衰を繰り返し400年後に阿育王塔(あしょかおうとう)が土中より出現し
阿育王山 石塔寺として一条天皇が七堂伽藍を建立し隆盛を極め
鎌倉時代には仏舎利塔である阿育王塔の回りに五輪塔や石仏を寄進した
滋賀県から伊勢への山間の国道421号は
八風街道と言われています
永源寺町から東近江市になった町です
近くの若宮八幡宮で作業中の方から聞いた話ですが
風の通り道で風に苦しめられる地区だそうです
で、八風街道?かな
比良八荒などとイメージがつながりますね
八風街道と言われています
永源寺町から東近江市になった町です
近くの若宮八幡宮で作業中の方から聞いた話ですが
風の通り道で風に苦しめられる地区だそうです
で、八風街道?かな
比良八荒などとイメージがつながりますね